第41話 謎すぎる姉弟

「姉さんが何を言っているのかわからない。ていうか、わかりたくないんだけど」

「だから、その白濁したシチューの中には、ミノコちゃんからしぼったミルクじゃなくて、エリムからしぼったミルクが使われているんじゃないかって――」

「リーチさん、あの変な人は放っておいて、冷めないうちに食べてください」

「あ、うん、ええと」


 すくいあげたスプーンには、どろりと濃厚ホワイトな熱々シチューが一口分。

 少量であっても損なわれない芳醇な香りが漂い、すこぶる美味しそう。

 ……なんだけど、どうしよう。なんか、それっぽく見えてきたとは言えない。


「ほら、リーチちゃんも不安になってきているじゃない!」

「そ、そうなんですか!?」

「いや、疑ってるわけじゃないんだ。本当だぞ? ただ、なんていうのか……」


 カレーを食っている時に、ウ●コの話をされたみたいな感じというか。

 カレーって、この世界にあるのかな。そこから説明が必要?

 などと考えているうちに、スミレナさんが話を進めてしまう。


「エリム、アナタがどうしてそんなことをしたのか追及はしない。アタシだって、リーチちゃんにやましい気持ちの三つや四つや五つや六つあるから」


 多い、それちょっと多いですよね!?


「やましいことなんて何もないから! 僕はただ、リーチさんに美味しいものを食べてもらおうと!」

「まだ白(しら)を切るというの? サキュバスであるリーチちゃんに、より栄養価の高い食事をとってもらいたいと思うのは良いことよ。だけど、それでは勃ってしま――もとい建前でしかないわ。何故なら、一番大事なのは、リーチちゃん本人がそれを望んでいるかどうかだから。そこを無視しちゃダメよ」

「してないからあああ!」


 姉弟喧嘩? が終わるのを待っていたら、せっかくのシチューが冷めてしまう。

 エリムがそんなバカなことをするはずがない。

 だって今……オ●禁中……なんだろ? 昨日の今日だし、いくらなんでもね。

 それでなくとも、オレはエリムを信じている。

 だからさっさと食べてしまおう。


「姉さん、僕はね、こう見えて料理にプライドを持っているんだ」


 白熱していく遣り取りを横目に、オレはスプーンを口へ運ぼうとする。

 その時だった。

 スプーンを持っていた方の手首を、他ならぬエリムによって掴まれてしまう。

 シチューが口に届くのを阻まれたオレは、だらしなく口を開いたまま「へ?」と何事かを尋ねるようにしてエリムを見上げた。


「失礼します」


 そう言ってバーカウンターから身を乗り出してきたエリムは、オレの右手首と、その先にあるスプーンを自分に引き寄せ、ぱくりと咥えてしまった。

 今まさにオレが食べようとしていた一口が、エリムの口の中へ消えてしまう。


「――ごくり。……姉さん、これでわかったでしょう? 僕は料理でフザケたりはしない。変な物なんて入っていないよ」

「エリム、信じていたわ」


 毒見までさせたくせに。

 ここまで堂々とした手の平返しを、オレは見たことがない。


「リーチちゃんも、エリムを信じてあげて」

「疑っていたのはスミレナさんだけです」

「モ」


 スミレナさんは、オレとエリム、加えて、ミノコから向けられる冷やかな視線もどこ吹く風で、自分用の器とスプーンを持ってきた。


「うふ、いい匂いね。お姉ちゃんにも一皿もらえるかしら」

「いつものことながら、姉さんは調子がよすぎるよ」

「正直に言うとね、先を越された気がして悔しかったのよ。エリムはこうやって、牛乳を使った立派な料理を仕上げてきたじゃない? 同じように、アタシはお酒で試行錯誤しているわけだけど、成果が芳しくなかったから、負けたって思ったの」

「負けた? 姉さんが……僕に?」

「ええ、そうよ。エリム……立派になったわね」


 弟の成長を祝う優しい声音でスミレナさんが言った。

 それに少し遅れて、エリムが照れ臭そうに「へへ」と鼻の頭を指で擦った。


 一見すると感動的なシーンに思える。

 だけど、いくら先を越されたのが悔しかったからとはいえ、実の弟に、ザー●ン混入疑惑は普通かけない。


「お皿はそこに置いておいて。先にリーチさんに新しいスプーンを出すから」

「ああ、別にいいよ」


 言ってすぐ、オレは手に持ったままのスプーンで改めてシチューをひとすくい。煮込まれて柔らかくなった芋も一緒に乗っている。それをパクッと口に入れた。


「リ、リーチさん!?」


 ズキュウウウン!!

 そんな擬音語が、頭の中でフラッシュした。

 未知の味というわけじゃない。だけど牛乳とは違う、三日ぶりにまともな食事が食道を下りて行く感覚は、異性と初めてキスしたかのようなインパクトがあった。キスなんてしたことないけど。


 そして実証された。

 牛乳で作った料理は、サキュバスにとっても食事足り得るのだと。

 ホクホクの芋も、牛乳をたっぷりと染み込ませているからか、胃袋まで届く。


「う……美味ぃぃい……。美味すぎるぅぅ……!」


 オレは感涙しながら、ハグハグと、すくうのではなく、スプーンで口に掻き込むようにしてシチューを食べ進めていった。


「リーチさん、そのスプーン、僕が口をつけちゃったんですけど……」

「汚いって? オレ、あんまそういうの気にしないから。拓斗(たくと)とも普通に回し飲みとかしてたし。そんなことより、まだあるのか!? あるならおかわり!」

「は……はい。まだまだあるので……ゆっくり食べてください」


 ゆっくりとか無理。二杯目を用意してもらう時間すら待ち遠しい。


「リーチちゃん、牛乳を使った料理だけど、どうだったの?」

「食えます! 腹に貯まっていくのがはっきりわかります!」

「そう。よかった。本当によかったわ」


 オレのおかわりと、スミレナさん一杯目を皿によそっているエリムを、ミノコがじーっと見つめている。食べたいのかな。


「エリム、ミノコにも少しやってくれないか」

「いいですよ。牛さんのお腹をいっぱいにできるほどの量は無いですが」

「そんなたくさんやったらオレの分がなくなるだろ! 味見程度で!」

「ご要望とあらば、また作りますよ。気に入っていただけて何よりです」


 スミレナさんとミノコにとっては初めて味わう料理だったわけだけど、二人ともエリムのシチューに絶賛した。

 同じ料理を皆で囲む。それがこんなに早く実現するなんて。


「マジで美味いよ。エリム、本当にありがとう」

「いえ、リーチさんの嬉しそうな顔を見られたので、頑張った甲斐がありました。次の料理も楽しみにしていてください」

「今まで食べた、どんなシチューより美味い気がする。なんでだろ。オレのために作ってくれたってのが、特別美味しく感じさせるのかな。料理は愛情って言うし」

「あ、愛……ですか?」

「あれ、こっちの世界では言わない?」

「料理は真心といったことは言いますが。愛ですか。でも、うん、愛ですね!」

「愛情な。それより何かお礼がしたいんだけど。オレにできることなら、なんでもするから遠慮なく言ってくれ」


 瞬間、エリムと、オレたちの遣り取りを笑顔で眺めていたスミレナさんの表情がピシリと固まった。オレ、変なこと言ったか?


「な、なんでも……ですか?」

「まあ、オレにできることなんて、体を使った雑用くらいしかないけど」

「体を……使った!?」

「――ごくり。目の前にある豊かな肢体を舐め回すように眺めた僕は息を飲んだ」

「ちょっと姉さん!? 勝手に変なナレーションを入れないでくれる!?」

「でも想像したでしょ?」

「しちゃったけども!」


 そこでオレも、自分の発言が少しばかり危ういものであったことに気がついた。


「あの、なんでもとは言ったけど、常識の範囲でお願いできると……」

「リーチさんも、そんな心配はいりませんから!」


 オレの中身が男だってことをエリムが知っているなら、こんな心配はしないんだけど。転生前も女だったと思われているみたいだからな。

 すー、はー、と深呼吸をしてエリムが息を整えた。


「僕はこれからも料理の腕を磨いていきます。リーチさんは、僕の知らない世界の料理の味を知っていたりするわけですから、それと照らし合わせて率直な意見などいただけると嬉しいです。それがお礼ということで」

「そんなことでいいのか?」

「それがいいんです」

「……そか。ごめんな。味見くらいでしか役に立てなくて」

「気にしないでください。十分ですよ」

「――代わりに、起伏に富んだ、その美味そうな身体を隅々まで味見させてもらいますから。ぽそりとそう呟いた僕は、彼女の衣服に手をかける自分を頭の中で思い浮かべたのだった」

「今度は浮かべてなかったよ! 姉さんの頭の中だけだよ!」


 オレは無意識に、パジャマの胸元を、ぎゅっと手で押さえていた。


「リーチさん、この人の言うことに耳を傾けないでくださいね!」

「や、だ、大丈夫。その、オレはエリムのこと、信じてるから」

「今そういう風に言われたら釘を刺されているようにしか思えない!」

「――まあいい。時間と機会はいくらでもある。ゆっくり堕としていってやるさ。僕の中に棲まう悪魔がほくそ笑むのであった」

「ほくそ笑んでないから! 姉さん、もういい加減にして!」


 エリムが憤慨すると、スミレナさんは可愛らしく唇を尖らせた。


「だってエリムばっかり評価を上げちゃってずるいじゃない。いくら頑張っても、アタシの作るお酒はリーチちゃんに飲んでもらえないんだもの」

「だからって……。こっちの身がもたないよ」


 スミレナさん、そんなことを考えていたのか。

 馬鹿だな、と思った。

 この町でスミレナさんの影響力は計り知れない。ギリコさんも言っていた。

 オレが無事にスミレナさんの庇護下に入れたのは、信じ難いまでの幸運だって。

 それだけでも、感謝したってしきれないのに。


「オレはスミレナさんにも感謝しています。だからスミレナさんにも、何かお礼がしたいです。もちろん常識の範囲で。一般人の考える常識の範囲で」

「なんでもしてくれるの?」

「常識の範囲で」

「やけに常識を押すわね。でも、じゃあ早速一つ――」


 スミレナさんは、器にまだ半分残っていたシチューをいそいそと自分のスプーンですくい、オレに向けて「あーん」と言って差し出してきた。……食えと?


「これなら常識の範囲でしょ?」

「いや、でも、そのスプーン」

「間接キスだけど、それがどうかしたの? リーチちゃんは気にしないのよね? だったらアタシともしてくれるわよね?」

「だ、男女間ではちょっと」

「あら、おかしなことを言うのね。エリムとやったのが、その男女間じゃない」


 ……ほんまや。


「女同士だもの。平気よね? ほらほら、早くしないと冷めきっちゃうわ」

「オ、オレに構わず、スミレナさんが全部食べちゃってください」

「エリムの間接キスはよくて、アタシはダメなの!? 納得いかないわ!」

「間接キスって言わないでください! そんなつもりはなかったんです!」

「一緒にお風呂に入って裸だって見せ合った仲じゃない! 今さら間接キス程度で何を恥ずかしがることがあるの!? ほら一気、一気! リーチちゃんの、ちょっといいとこ見てみたい!」

「煽らないでください! オレからは、女性とそういうことはできません!」

「どうしても!? どうしても無理なの!?」

「すみません、無理です!」

「…………そう、わかったわ」


 珍しくエリムに後れを取ったことで気落ちしていたようだから、励ますつもりで礼がしたいと言ったのに、逆にもっと落ち込ませてしまったかもしれない。

 スミレナさんは寂しそうに、スプーンを器に戻した。

 その様子を見ていると、心がズキズキと罪悪感に苛まれる。


 が、何を思ったか、スミレナさんは左手に器を構えて立ち上がった。

 そして空いた右手で、オレの後頭部を抱きかかえるようにして添えてきた。


「な、なんですか?」


 壮絶に嫌な予感しかしない。

 スミレナさんは、ずず、と器から少量のシチューを口に流し込んだ。


「間接きふがダメはら、もう直接するひかないひゃない!」

「その理屈はおかしいですね!?」


 含んだシチューが零れないよう、すぼめた口をオレの顔に近づけてくる。


「観念ひなさい!」

「マジでマジでマジで勘弁してください!」


 緊急事態であったため、オレは力任せにスミレナさんを突き飛ばしてしまった。

 その拍子に、ごくん、とスミレナさんの喉が鳴った。

 よし。あとは器を奪ってしまえば、間接キスも口移しもできなく――


「リーチさん、危ない!」


 エリムが天井を指差し、切迫した声で危険を呼び掛けた。

 顔を上げると、そこにはスミレナさんの手にあったはずの器が宙を舞っていた。

 真っ直ぐ、オレに向けて落ちてくる。



 びちゃびちゃっ。



「熱、アチチチッ!」


 幸い、板張りの床に落ちても器が割れることはなかったが、オレは頭からもろにシチューを被ってしまった。髪に、顔に、首に、胸元に、どろりとした物が垂れていく。慌ててパジャマのボタンを二つ開け、風通しを良くした。


「アチ……チ……あれ?」


 最初こそ火傷するかと思ったけど、急速に冷めていったのか、もうそこまで熱く感じない。


「リーチちゃん、ごめんなさい、大丈夫!?」

「大丈夫です。言うほど熱くないので。でも、うわー、べとべとだ」


 今着ているパジャマもマリーさんの店で買ったものだ。新調したばかりなのに、変に匂いがついちゃったりはしないだろうか。

 オレは頬から顎に伝っていくシチューを指ですくい取り、舐め取った。


「「――――ッ!?」」


 すると、スミレナさんと、カウンターの向こうにいるエリムがビクリと跳ねた。


「どうかしました?」

「こっちの台詞よ。リーチちゃん、何をしているの?」

「何って、もったいないじゃないですか。せっかくエリムが頑張って出してくれた(料理な)んですから」


 ぺろり、ぺろりと、口の周りに付いているものは直接舌で舐めた。

 髪から滴り落ちそうなものは手皿で受け止め、それも舐めた。


「うへえ、胸のところがびっちゃびちゃになってる。これはどうしよう」

「……リーチちゃんなら、それも直接舐め取れるんじゃないかしら」

「いや、それはどうでしょう。あ、できた」


 胸を下から持ち上げると、余裕で口に届いた。ついでだし、このまま舐め取る。


「リーチちゃん、凄いわ。ううん、凄すぎる。でも絶対に外でやっちゃダメよ」

「それを言うならスミレナさんでしょう。さすがに今のはハシャぎすぎですよ」


 こんな惨事を招いたっていうのに、スミレナさんは反省するどころか、シチューまみれになったオレを、うっとりした表情で眺めている。というか、誰かそろそろタオルを持ってきてほしいんですけど。なんで黙って見てるの?


「姉さん、一つだけ言わせてほしい」


 エリムが神妙な面持ちと声で、場に緊張を走らせた。

 今回ばかりは誰が見たってスミレナさんが悪い。厳しく注意して、ちゃんと反省してもらおう。いいぞエリム、ガツンと言ってやれ。


「ありがとう」


 なんで?


「いいのよ。後片付けは、アタシがやっておくから」

「うん。少し外を走ってくるよ」


 しかも、え? いつの間にか仲直りしてる?

 エリムはどろどろのオレに小さく会釈をし、本当に店の外へ飛び出して行った。

 何故か内股で。


「リーチちゃん、お風呂に入って来なさい。ごめんなさい。そして、ありがとう」

「……はい」


 今度はスミレナさんからオレにありがとう?

 意味がわからない。

 店を出て風呂場へ向かう間、オレはずっと首を傾げていた。


「……この家の姉弟、謎すぎる」

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