第35話 女の慎み
「リーチちゃん、こっちへ来て少し休憩なさい」
客席からブーイングが起こったが、スミレナさんが目を細め、フロアに向かってにこりと微笑んだだけで、それはピタリと止まった。
酒場【オーパブ】の営業時間は日付が変わるまでだ。
まだようやく折り返しというところだが、オレは初勤労に手応えを感じていた。
そこから得られるのは、この世界でちゃんと生きていけるという自信でもある。
「よっこいしょ」
オッサンくさい掛け声で、バーカウンターを挟んだスミレナさんの正面――一人用の客席に座らせてもらった。隣では、顔に赤みを帯びたマリーさんが、背の低い円柱グラスに入った空色の液体をゆらゆらと遊ばせている。
「リーチちゃん、それはアタシへのサービスなの? それとも無意識なの?」
「え? 何がです?」
「ぬほー、乳がカウンターに載っとるで。それ食べていいん? 食べてもいいん?」
「…………ダメです」
完全に無意識だった。
普通に荷物を置くような感じで、オレは自分の胸をテーブルに載せていた。
「ああっ、いいのよ。降ろさなくて。というか降ろさないで」
「一個おいくらでっかー? お持ち帰りおなしゃーす。なははは」
「マリーさん、酔ってますね。いや、この人はこれで平常運行なのかな」
「多少陽気になるくらいよ。飲み方を心得ているお客で助かるわ」
「やー、酒は美味い。店員さんは可愛い。【オーパブ】は安泰やな」
安泰か。スミレナさんとエリムの二人暮らしで、なおかつこの繁盛ならそうかもだけど、規格外の大食らいが居候しちゃったからな。もっと頑張らないと。
「――リーチさん、お疲れ様です」
凝った肩を自分で揉み解していると、エリムが水と氷の入ったグラスと、温かいおしぼりを持って来てくれた。
「仕事、キツくありませんか?」
「ありがと。キツいっちゃ、キツいけど、やり甲斐があるよ」
受け取ったおしぼりで顔を乱雑に拭いた。これもオッサンっぽいな。
「そう言っていただけると、同僚として、僕も気分がいいです」
「あーでも、この店に来る客って、皆あんな感じなのかな」
「あんな感じとは?」
「オレが新顔だからか、どれくらい動けるのか、面白半分で探りを入れられている気がしてさ。注文を小分けにしたり、わざと忙しくさせてるとしか思えなくて」
「ん、んー、お客さんたちは、そんなつもりじゃないと思いますけど」
「じゃあなんで、どうでもいいような理由で呼ばれまくるんだ? スプーンが落ちたとか、フォークが落ちたとか、ほっぺたが落ちたとか、途中から数えるのもアホらしくなるくらい落ちた物を拾わされるし。なんの捕球練習かと思ったぞ」
「ほっぺたについては、ありがとうございますと言いたいですが」
「あれがわざとじゃないなら、行儀悪すぎだろ」
「リーチちゃん、お客さんのことを悪く言わないの」
ふんすと鼻息を荒くしていると、スミレナさんがオレをたしなめた。
「すみません……」
「もうわかったと思うけど、接客業っていうのは、とても重労働よ。それなのに、リーチちゃんの拙い足運びは、見ていて不安になってくるの。アタシから見たってそう思ったんだから、より近くでリーチちゃんを見ていたお客さんたちなら瞬時に見抜いたはずよ。――ああこの子、足腰がなっていないなって」
「確かに筋力は、前よりずっと衰えましたけど」
「足腰の強さは日常生活を送る上でも基本中の基本よ。だからアタシはこう思うの。お客さんたちは、リーチちゃんを立派な店員へと育てようとして、あえて意地悪に思えるようなことをしていたんじゃないかって」
「いやいや、スミレナ、その理屈はさすがにリーチちゃんでも――」
「全ては、オレを鍛えるために!?」
「――信じるんやなあ、このアホ可愛い子は。お姉さん、ちょっと将来が心配や」
「マリーさんも、オレのことを案じて!?」
「まあ、うん、間違ってはあらへんけど」
なんてこった。金を払う客という立場でありながら、見ず知らずのオレの成長を助けようとしてくれていたのか。それなのにオレは、ただの嫌がらせだと……。
不甲斐ない。なんたる未熟。
このお詫びと感謝の気持ちは、誠意を込めた接客で返していくしかない。
「おーっと、リーチちゃん、ごっめーん、おしぼり落としてもうたー(棒読み)」
「あ、いいですよ! 任せてください、オレ――じゃない、わたしが拾います!」
しゅば、という効果音が鳴りそうな機敏さで、オレはマリーさんが床に落としたおしぼりを拾った。意識すればするほど、効果的に下半身への負荷を感じる。
「……なるほど。お客さんたちが見ていたのはこの角度なのね」
「これオプションにして、金取れるんちゃうの」
スミレナさんとマリーさんが、屈んだオレを見下ろして何やら納得している。
「なんの話です? スミレナさん、マリーさんに新しいおしぼりをお願いします」
「リーチちゃん、さっきはあんなこと言ったけど、屈む時は気をつけるのよ?」
「ぎっくり腰にですか?」
「なんでやねん。――と、思わずマリーの口調が移っちゃったわ」
「ああ、そういうことですか。スミレナさん、オレだって馬鹿じゃありませんよ。昼間に痛い失敗をしましたからね。今はちゃんと足を閉じてしゃがんでいるので、パンツが見える心配は、万に一つもありません。学びました」
「すごいわ。見てマリー。これが、アホの子が見せる会心のドヤ顔よ」
「こういうの、リーチちゃんのいた世界やと、なんや上手い言い方あるんかな」
「こういうのと言いますと?」
「一部を隠したんはええけど、他の大事なとこ隠せとらんことに気づいてへん、みたいな」
「〝頭隠して尻隠さず〟でしょうか」
「多分それや。〝パンツ隠して乳隠さず〟や」
「胸なら隠れてますよ? 制服とブラジャーの二重装甲で、透けもぽっちもありません」
「うん、せやな。そのとおりや」
なんでそんな優しい目を?
ああ、そうか、これが成長を見守る目か。ありがたい。
「リーチちゃん、ブラの具合はどう?」
「凄いですね。正直、性能を侮ってました。これだけ動いても痛くないです」
「ズレてきたりはしてない?」
「今のところ大丈夫ですけど、激しく動くとズレることもあるんですか?」
「男の子も、ちんポジを直したりするでしょ? 胸の大きな女の子もそれと同じでパイポジが気になったりするの。アタシのように、ズレる胸が無ければ堂々としたものなんだけどね」
アナタは別のところで堂々としすぎだと思います。
包み隠さないスミレナさんの言葉にいちいち反応しそうになるのは、オレがまだこのお姉さんに理想を求めているからなんだろうか。そろそろ諦めないと。
「おおきにやで。ウチの店で
「ええ。でも、さすがに可愛らしすぎる気が。オレはもっと地味な方が……」
「うふふ、これで洗濯物が華やかになるわ。女の子の下着はやっぱり手洗いよね。今から喉が――じゃなくて、腕が鳴るわ」
「自分でやりますから……」
人の下着を、さも当たり前のように手洗いするつもりでいたこの人が怖い。
「あの、三人とも、近くに男子がいることを忘れていませんか?」
おっと、エリムの存在を完璧に忘れていた。
「悪い、エリムには退屈な話だったよな」
「退屈とか、そういうことではなく」
「なははは。リーチちゃん、せっかくやし、エリム君に、どんな下着
「あ、そうですね。えっとな、こういうのを買ってもらったんだけど」
言って、オレはメイド服の胸元に指を引っ掛け、ぐいっと前に引っ張った。
そうして、ふんだんに刺繍の施された菫色のブラジャーを、エリムによく見えるよう、身を乗り出した。
「スミレナさんとマリーさんで選んでくれたんだけど、ちょっとばかしデザインが凝り過ぎな気がするんだよな。エリムもそう思わないか?」
「こ、こら、リーチちゃん、アナタ何してるの!?」
「え? マリーさんが見せてやれって」
「嘘やん! 冗談で言うてみただけやん!」
「まずかったですか?」
「「常識的に!」」
常識という単語が、この人たちから出てきたことに驚きを隠せない。
「でもスミレナさんたち、もっととんでもないことを普通にしてきますよね?」
「男と女では違うの! バカ! マリーが軽卒なことを言うからよ!」
「堪忍や! この子のアホっぷりをナメとった!」
「しかも見て、このキョトンとした顔! 事の重大さをまだわかっていないわ!」
「ほんまやばいで! 今みたいなん、よそでやらかしたらソッコーお持ち帰りや!」
「二人して、何を興奮してるんですか?」
オレは単に、「珍しい柄のトランクス穿いてみたんだけど」「お、粋だね」という遣り取りのつもりで、男友達のエリムに見せただけなのに。
「よく聞いて。アタシはね、リーチちゃんが口ではなんと言っていようと、女の子として、本当の本当の本当に最低限の慎みだけは備わっていると思っていたの」
「最低限の慎み、ですか?」
「確認のために質問するわ。心して答えてちょうだい。女であるアタシやマリーにおっぱいを揉まれるのと、男のエリムに揉まれるの、抵抗が少ないのはどっち?」
「エリムです」
「やだこの子、言い切ったわ!」
「スミレナ、大変や! エリム君が鼻血出して死にかけとる!」
エリムは立ったまま白目を剥き、鼻血を流してピクピクと痙攣していた。
「リーチちゃん、まだ営業時間なのに、なんてことを……ッ」
「ええ、オレのせいですか!?」
「アナタは、ただでさえオ●禁――険しい苦難の道を歩もうとしていたエリムに、さらに大きな試練を課してしまったのよ。この様子だと、耐えられるかどうかは、今夜が峠でしょうね……」
エリム死ぬの?
「問題はリーチちゃんね。これは重症よ。お説教でどうにかなるとは思えないわ」
「やっぱりウチらで、自分は女の子やてわかるまで開発するしかないんちゃう?」
「そうね。やむなしだわ」
「あ、そろそろ仕事に戻りますね 休憩ありがとうございました」
「リーチちゃん、待ちなさい! まだ話は終わって――」
身の危険を感じたオレは、逃げるようにして仕事に戻って行った。
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