第34話 乳の間合い
「こんばんワン、来たったでー。儲かってまっかー?」
「いらっしゃい、マリー。ぼちぼち――と言いたいところだけれど、正直ぼちぼちどころの話じゃないわ。確実に、普段の倍は注文が来ているわね」
「そりゃまた大繁盛やな。まあ、理由は一目でわかるわ」
新しいお客さん? あ、マリーさんか。
直接カウンター前の一人用席に行ったので、対応はスミレナさんに任せる。急いで仕立ててくれた制服のこともあるし、挨拶をしに行きたいとこだけど、こっちはこっちで死ぬほど余裕が無い。
緊張でミスしたらどうしよう。
そんな不安に駆られていた頃が、オレにもありました。
それがいざ接客を開始してみたら、息をつく間も無い忙しさが待っていた。
緊張している暇があったら、一つでも多く注文を取れ。
開店してから二時間。自分にそう言い聞かせ、もはや営業スマイルなど見る影もないが、とにかく手足を動かさないと店が回らない。それほど多忙を極めている。
「【ラバンエール】お待たせしました!」
「次は【シャブシャブ鳥の香草焼き】一人前追加で」
さっき一緒に注文しとけや!!
客に対して、こんな不満を抱くべきではない。それくらい、今日まで働いたことのないオレでも常識でわかる。でも、言いたくもなる。
なんの嫌がらせか、ちまちました注文ばかり繰り返されるのだ。
まるで、一回でも多く酒や料理をテーブルに持って来させようとするかの如く。
なんなの?
新人いびり? オレがどこまでやれるか試してるの?
そんな陰湿行為をしかけてくる客が一人や二人じゃなく、ほぼ全てのテーブルで行われているのだ。
「店員さん、こっちお願い」「ねーちゃん、注文頼むぜ」「お水ちょうだーい」
「は、はひぃ! ただいま!」
助けを求めようにも、スミレナさんとエリムは、それぞれの戦場で戦っている。
頑張っているのは自分だけじゃない。
喉まで上がって来ていた弱音を、オレは無理やり飲み下した。
フロアはオレの持ち場だ。ここがオレの戦場だ。負けねーぞ、お客様!
「食器はそのままで結構ですので! お会計は7,500リコになります! ありがとうございました! またのお越しを!」
次々と客の要望を捌いていくオレは、意外と労働に向いているのかもしれない。
だけど、後になって考えると、勇み足だったとも言える。
それまで目立ったミスも無く、変に自信をつけ始めていたのも良くなかった。
そういう時こそが、一番危険なのに。
「空いたグラス、おさげしますね」
冒険者風の、野性味溢れる四人の男性客たちがテーブルを囲っている。でかい声で談笑している彼らの間から、オレは腰を曲げて空になったグラスに手を伸ばした。すると、
「ヌオ、オオオゥッ!?」
最初、男が何に叫んだのかわからなかった。
気づいた時には手前のグラスは倒れ、客のズボンをビショ濡れにしていた。
誰がやったのかと思い顔を上げると、男たちの視線はオレ一人に注がれていた。
「マジ……かよ……」
接客中であるにもかかわらず、オレは粗暴な口調で呆けたように呟いた。
初めての失敗だ。だけど驚いたのは、ミスしたこと自体にじゃない。
ミスしたことより、ミスの仕方が尋常じゃなかった。
それくらい信じられないことが起きていた。
だって、ぶつかるはずがない。それだけの間合いは確保していたのに。
肘がぶつかってグラスを倒すなんてのはよくあることだ。オレも経験がある。
つまりオレは、わかっているようで、まだ全然わかっていなかったんだ。
男から女になったこと。
より詳細に言うなら、乳の無い男から、巨乳の女になったことを。
意識と体の決定的なズレが生んだ悲劇――
オレは自分の乳で、客のグラスを倒してしまったのだ。
「オゥオゥオゥ、姉ちゃん、なんてことしてくれやがるんだ、オオゥ!?」
四人の男全員が一斉に立ち上がり、オレは瞬く間に取り囲まれてしまった。
「漏らしたみたいになってんじゃねえか、オオゥ!?」
「す、すみません! すぐに拭きます!」
「オオオゥ!? そんなことしたら、もっと大変なことになるだろォ、オゥオ!?」
え、なんで? 早く拭かないと、もっと被害が広がっていくじゃないか。
「オゥ、とりあえず、ちょっと向こうで話しようか」
「え? ひゃ! え!? あの!?」
突き飛ばされたわけでもないのに、壁のように迫ってくる男たちの圧に押され、オレはみるみる店の壁際へと追いやられてしまう。
「わ、わざとじゃないんです。本当に、ごめんなさい」
「わざとかどうかなんざ、どうでもいいんだよ、オゥオァ!?」
ズボンを濡らした男が眉間に思い切り皺を寄せ、不良がメンチを切るようにして凄んでくる。他の三人は自らが壁となり、周囲からこの状況を隠している。
揚々と仕事をしていたかと思えば、一転してこの有様。
突然の状況変化にテンパり、オレはエサを求める魚みたいに口をぱくぱくと動かすだけで、まともに声すら出せない。
「オゥ、ちょっとジャンプしてみろや」
デジャブった。
この展開、体育館裏で上級生数人にカツアゲされた時と同じだ。
「お、お金……持ってません……」
「オァア!? いいからジャンプしろって言ってんだろ、オゥオ!?」
オレは半べそをかきながら、言われるままに、その場でピョンピョンと二回跳んだ。
一銭も持ってないんだから、硬貨がぶつかる音なんてするわけがない。
「これで、わかってもらえましたか? それより、早く拭かないと」
「誰がやめていいって言ったんだあ、オォウ!?」
男はまだ納得できないらしい。
オレはやむなく、ピョンピョンピョンピョンとラジオ体操みたいに跳ね続けた。
「ううぅ、もういいですか?」
「ラスト五回だ! 頑張れォオオゥ!」
なんか応援されてる?
最後まで訳がわからないまま、計二十回ほどのジャンプを終えた。
乱れた息を整えながら、オレはさらに飛んでくるであろう罵声に備えたが――
「「「「ありがとうございましたあああああああああ!!」」」」
「は?」
飛んで来たのは罵声とは程遠い、試合後のスポーツ選手もかくやの爽やかな謝意だった。男たちは表情に怒りどころか、恍惚に満ち満ちた笑顔をたたえている。
「いやー、いいもん見せてもらったぜ。オゥ、姉ちゃん、拭く物だけもらえるか? 忙しそうだし、あとはこっちで片づけとくからよ。オゥ」
え、優しい?
男たちは何事もなかったかのように各々の席へ戻り、さっきより上機嫌になって酒宴を再開した。壁際に残されたオレは、頭の中が|?(ハテナ)で埋め尽くされた。
何これ。意味不明すぎて気持ち悪い。
そこでふと、バーカウンターに立つスミレナさんが、タオルを持って手招きしているのに気づいた。今の一部始終を見ていたようだ。
オレはマリーさんに会釈をし、スミレナさんからタオルを受け取った。
「飲み過ぎて、酔っ払っていたんでしょうか」
「うーん、アタシには、彼らの気持ちがわかっちゃうわー」
「ウチも、よぉわかるなー」
スミレナさんに続き、マリーさんまでうんうんと頷いた。
「教えるのと教えないの、どっちがオイシイかしら」
「ウチは後者に一票や」
「そうね。意識されすぎると、仕事にも差し支えるでしょうし」
なんだ? なんの話だ?
「そんなことより。リーチちゃん、ここで振り返るべきなのは失敗した原因。それはちゃんとわかっているんでしょう? 大切なのは、同じミスを繰り返さないことよ。違う?」
「あ、いえ。……そのとおりです」
「一度の失敗でくよくよしないで。リーチちゃんのおかげで、確実に収益は上がっているわ」
「本当ですか!?」
「リーチちゃんは、もはやウチの酒場のエースよ。三人しかいないけど」
「そこまでオレは期待されて……。そんなこと言ってもらえたの、初めてです。オレ、もっともっと頑張ります! こうしちゃいられません! 仕事に戻りますね! では!」
スミレナさんの激励に敬礼を返し、オレは客のいるフロアへ早足で戻った。
「やー、なんなん、あのカワイイ生き物」
胸が高鳴る。心が弾む。
なんだか上手くはぐらかされ、後ろでマリーさんが何か呟いた気がしたけど、今は世界が拓けたかのように晴れやかな気持ちとやる気に溢れている。
こんなオレでも店に貢献できている。
この実感こそが、労働の喜びってやつだろうか。
同時に、自分の成長も実感できる。気持ちの面だけでなく、体の面でも。
そう。初めての失敗を経たことで、オレは
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