第26話 緊急クエスト開始

 外で頭を冷やしてきたのか、エリムは一時間ほどで帰ってきた。


「エリム、ちょっとそこでオナりなさい」


 そこへスミレナさんによる、ブッ飛んだこの台詞である。


「間違えたわ。そこへ直りなさい」


 その間違え方はない。

 エリムはそうしろと言われるまでもなく板張りのフロアに正座した。

 そしてとりあえずとばかりに、スミレナさんの拳骨がエリムの脳天に一発落とされた。


「エロム――いいえ、エリム。アナタ、リーチちゃんに偉そうなことを言っていたわよね? 僕を信じてください、とかなんとか。それなのに、さっきの逃亡は何?」


 エリム以上に恥ずかしい思いをした人は、この場にはいないかと。


「い、言い訳はしない。僕は男として、最低なことをしてしまった。後悔しているんだ」

「口ではなんとでも言えるわ。その誠意を、どうやって示すかが大事なの。まさかとは思うけど、なんの考えもなく戻ってきたわけじゃないわよね?」


 スミレナさん、弟には本当に厳しいな。

 対するエリムは、ぎりっと歯を噛みしめてから、震える唇を持ち上げた。


「自分への戒めとして、誓ったことがあるんだ」

「何を誓ったの? 言ってみなさい。もしロクでもないことだったら、手加減なしで、頬っぺたパチンってするからね」

「僕は……一週間、ううん、一ヶ月間、自慰行為を封印するっぱぶるあッ!?」


 痛烈な快音が店内に響き渡った。

 パチン、なんてカワイイもんじゃない。女性の細腕が繰り出したとは思えない、スナップの利いたビンタがエリムの首を90度以上回転させた。

 かけていたエリムのミニグラスが、カシャンと床に落ちる。


「何を言い出すかと思えば。それが遺言でいいのね?」

「ま、待って、姉さん!」

「気安く姉さんなんて呼ばないで。アタシに弟なんていない。いるのは妹だけよ」


 いや、妹もいないでしょうが。それ誰のこと言ってるんですか?


「さようなら、エリム。もし、リーチちゃんみたいに可愛い女の子に転生できたら会いに来なさい。そしたら妹にしてあげる」


 別れの言葉を告げたスミレナさんが、今度は拳を形作った。


「ス、スミレナさん、落ち着いて、冷静になってください!」


 オレは咄嗟に二人の間に割って入り、エリムを背中に庇った。


「リーチちゃん、どいて。そいつ殺せない」

「殺しちゃダメです! オレには、エリムの誠意が痛いほど伝わってきました!」

「たかがオ●禁で?」

「たかが? それは違います。思春期の男子にとって、自慰行為を封印するということが、どれほど過酷な所業なのか、スミレナさんは全然わかっていません」

「それは、確かに女のアタシではわからないけれど」

「一日二日なら、それほど苦もなく我慢できるでしょう。でも一週間ともなると、ただ強い精神力だけでは絶対に不可能です」


 この台詞、全部オレにも返ってくるんだけど、今はとにかくエリムを擁護だ。


「絶対に不可能? エリムは一週間どころか、一ヶ月と言ったわよ?」

「そうです。だからこそ不可能を可能にする、とてつもなく強固な信念が必要になるんです。想像を絶するような苦行に挑もうというエリムの覚悟を汲んでやってくれませんか!?」


 熱弁が功を奏したのか、しん、と店の中に張り詰めたような静けさが満ちた。

 スミレナさんが、オレの目と、後ろのエリムを交互に何度も見つめた。


「男の子にとってのオ●ニーって、そこまで欠かせないものだったの……」


 シリアスな空気の中でいちいち指摘しないけどさ、オレやエリムが自慰って単語を使って表現を和らげているのに、この人、普通に言うよね。


 オレの懸命な説得が通じてくれたようで、スミレナさんが肩から力を抜いてくれた。


「当事者であるリーチちゃんがそこまで言うなら、アタシにとやかく言う筋合いは無いわね。危うく、大切な弟を殴殺おうさつしてしまうところだったわ」

「失った信頼は行動で取り戻すよ。一ヵ月間、何がなんでも禁欲に耐えてみせるから」

「お手並み拝見ね」


 やれやれだ。一時はどうなるかと思ったけど、どうにか姉弟仲を取り持つことができた。


 肩の荷が下りてテーブルに突っ伏していると、床に落ちていたミニグラスを拾い上げたエリムが、「あの……」と遠慮がちに話しかけてきた。


「また、リーチさんに励まされてしまいましたね」


 また? ああ、森を出る時、童貞でも恥ずかしくないって言った時のことか。


「別にいいって。大したことはしてないだろ」

「いえ、そんな風に言えるリーチさんの偉大さを再確認しました。冷静に考えれば、女性には馬鹿げたことにしか聞こえないのに。リーチさんは馬鹿にするどころか、男の立場になって、姉さんに意見までしてくれて」


 いや、実際中身は男だから、オ●禁一ヶ月が、どれだけハードミッションなのか想像できるし。――とは言っちゃダメなんですよね。


「リーチさん、僕は必ずこの試練を乗り越えて、一皮剥けた男になってみせます。応援してくださいますか?」

「ああ、応援する。頑張れよ」


 そう言ってやると、エリムは直角に腰を折ってお辞儀し、きびきびとした動作で途中だった料理の仕込みに戻っていった。



 かくして、エリムの果てしなく辛い戦いが幕を開けたのだった。

 だがしかし、この時はまだ、想像もしていなかった。

 エリムにオ●禁させたことによって、まさか、あんなことになるだなんて。



「……スミレナさん?」

「なぁに?」

「変なモノローグを入れないでくれますか?」


 オレの耳元でぽそぽそと囁き、立てなくてもいいフラグを立てようとしてくる。


「リーチちゃん、呑気に応援なんかしているけど、気をつけないとダメよ?」

「気をつける? 何にです?」

「エリムに禁欲させたとしても、性欲がなくなるわけじゃないのよ? むしろ解消する手段を奪ったわけだから、性欲は日に日に高まっていくはず。ということは、暴発する危険だって高まるんじゃない?」

「そ、そうなる前に、さすがに自分で処理するんじゃ?」

「弟自慢になってしまうけれど、エリムは、一度した約束は必ず守ろうとするわ。だから絶対にやらないと思う。自分の意思とは無関係に、理性が飛んでしまわない限り。でも一週間でも難しいなら、一ヶ月なんて絶対無理よね? 飛ぶわよね?」

「理性が飛んだら……どうなるんですか?」

「そりゃあ、一番美味しそうなオカズに矛先が向くんじゃないかしら」

「エッチな本……とか?」

「もっともーっと美味しそうな、生のオカズがここにあるじゃない」


 笑顔で言い、スミレナさんが、ぷにぷにとオレの胸を人差し指で突いてくる。

 ふんふん、なるほどね。


「よし、やめさせましょう。うん、禁欲なんかしたっていいことありませんよね。体にも悪いし。人間、好きなことをして生きていかなきゃ」

「アタシは、エリムの覚悟を汲んであげたい。そう、姉として」


 いーやー。いやー。耳が痛ーい。


「それに、ある意味、いい練習になるんじゃないかと思うようにもなったわ」

「と、言いますと?」

「リーチちゃんは、まだまだ女の子の危機感が足りなすぎよ。だから手頃な狼を身近に置いておくことで、自分は常に食べられちゃう立場にあるんだっていう意識を養うの」

「れ、練習ってことは、本気で危なくはないですよね? 大丈夫なんですよね?」

「んふふ、いい感じで緊張感が出てきたじゃない。いざとなったらアタシが止めてあげるけど、リーチちゃんも、自分の身は自分で守れるようにするのよ?」


 どう見ても楽しんでますよね。他人事ですよね。


「さあ、緊急クエスト開始よ。リーチちゃん、狼に食べられないでね」


 あのさ、言っていいかな。

 この家、実は安住の地でもなんでもないんじゃないの?

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