第25話 大きくなったわね

「エリム……お前、まさか……」


 明後日の方角を向いているエリムの肩が、脅えるみたいにビクリと跳ねた。


「リーチちゃん、エリムを許してあげて。十代の男子が女子の胸を揉んだり、下半身丸出しの衝撃映像を見たりなんかしたら、それはもう如何ともしがたいことになるのよ。その気持ち、リーチちゃんならわかるでしょ?」


 …………わかる。


「これがサキュバスのレベルアップの真相。人間の場合だと、レベルは強さを表す指標になるけど、サキュバスの場合は魔力総量を表すと同時に、どれだけ異性を欲情させてきたかを示す戦績でもあるわけね」


 こうなると予想できていたのか、スミレナさんは、何も言えずにいるエリムに肩を竦めるばかりだ。ミノコは我関せずで酒をあおり続けている。

 オレがなんとかしないと。ここで選択肢を間違えたら、スミレナさんが言っていたように、エリムとの友達関係が崩壊してしまう。それだけは絶対に回避しなきゃ。


「えと、あんまり気にするなよ? 男がそういうことするのは普通だもんな。うん、生理現象みたいなもんだ。わかるぞ。オレだってその……何度もやったこと、あるし」

「え、リーチさんも?」

「い、言っとくけど、生まれ変わる前の話だからな」


 今はそんなことできない。やり方もわからない。

 

「僕を、許してくれるんですか?」

「オレが許すも何も、そういうのは個人の自由だと思うし」

「……だとしても……僕は、リーチさんを悲しませてしまいました」

「いや、別に悲しいなんてことは全然ないんだけど」

「ほ、本当ですか!?」

「ひたすら気持ち悪いと思っただけで」

「ぐふっ」


 しまった。立ち直らせるつもりが、つい正直に言って追い打ちをかけてしまった。

 オレは一縷の望みをかけ、スミレナさんに目で助けを求めた。


「エリム、後ろめたく思う必要なんてないわ。健全な男の子なら、一つ屋根の下で可愛い女の子が寝泊まりしている状況にドキドキしないはずがないもの。むしろ、しない方がおかしいわ。その流れで自慰に耽ってしまったのだとしても、それは水が高きから低きに流れるように自然なことだとアタシは思う」

「う、ぐぅぅ」


 あれ? さっきと言ってることが違う。


「リーチちゃんの魔性のおっぱいに一度でも触れてしまったら、その苦悩は等しく訪れるわ。にもかかわらず、サキュバスの滲み出るエロさに理性を失うことなく、自己処理という、最善かつ、平和的な手段を取ったことに敬意を払いたいくらいよ」


 果たして、スミレナさんの言葉はフォローになっているんだろうか。

 あと、魔性のおっぱいとか、滲み出るエロさとか、こっちにもダメージ飛んで来てます。

 スミレナさんの、泣き面に蜂としか思えない説得は続く。


「安易に夜這いをかけなかったことも評価したい。単にヘタレだっただけということも考えられるけど。それと念のため、この後リーチちゃんの部屋に鍵をつけることを勧めるけど。それでもアタシは、姉として弟の成長を誇らしく思う。エリム、大きくなったわね。昔はこんなに小さかったのに」


 慈しんで言ったスミレナさんが、人差し指と親指で5cmほどの間隔を作った。

 それ、なんのサイズですか? どう見ても身長じゃないですよね?

 というか、エリムがそろそろ死にそうなんですけど。


「一人エッチは男の本能よ。恥じることじゃない。だからいつまでも顔を背けていないで胸を張りなさい。たとえ、リーチちゃんがエリムを軽蔑して、不潔! 汚らわしい! 二度と顔も見たくないわ! この下半身直結野郎! と、そんな風に思っていたとしても」

「がふっ!」


 ライフルで心臓を撃ち抜かれたかのように、エリムがテーブルに沈んだ。

 実の姉にトドメを刺されるとは、哀れな……。


「リーチちゃん、ごめんなさい。なんだか失敗しちゃったみたいだわ」

「途中から、わざとだとしか思えなかったんですけど」

「……嫌われた。……完璧に嫌われた」


 テーブルの上に、エリムの涙が広がっていく。

 その様子に、オレは呆れとは違う、同情に近い溜息をついた。


「嫌ってなんかないってば」

「……怒って……ないんですか?」

「怒ってないよ。男にそういう欲求があるのは理解してるんだから」

「……では……まだ僕と、友達でいてくれますか?」

「当たり前だろ。こんなの、ちょっとした猥談みたいなもんだって」

「う、うぅ、そう言っていただけると……」


 実際、元男のオレにとっては珍しくもない、慣れた話題だ。

 なんせ、拓斗たくとは口癖のように「彼女欲しい。彼女欲しい」と言うからな。

 おっぱいは大きい方が好みだの。ブロンドの美人を彼女にしたいだの。ちょっとアホっぽいくらいがカワイイだの。あいつはオープンスケベなので、そこから猥談に発展することもしばしばだった。基本、オレは聞いているだけだったけど。


「あんまり気にするなよ。ただの慰めだと思うなら、今度、オレと猥談しようぜ」

「リ、リーチさんと、猥談ですか?」


 知っているか?

 男同士で猥談するとな、ビックリするくらい友情が深まったりするんだぞ。


 ――と、拓斗が言っていた。

 せっかくできた友達だ。オレはエリムと、もっと友情を深めたい。


「あ、でも」

「でで、でも、なんですか!?」

「一個だけ言っておいてもいいかな?」

「な、なんでしょう?」

「えっとな、アレのやり方に、あんまりとやかく言うつもりはないんだけど」

「は……はひ……」

「友達をオカズにしてアレするのだけは…………もうやめてほしいかなって」

「うああああああああああああああああああああああああっ!!」


 な、なんだ!? エリムが壊れた!?

 叫びながら立ち上がったエリムは、そのまま店の出入り口についているスイングドアを破壊しかねない勢いで、猛然と外へ飛び出して行った。


 呆然とするオレをよそに、スミレナさんが「やれやれね」と言って嘆息し、埃を立てられたミノコが苛立たしげに、「モフッ」と鼻息を荒らげた。


「上げてから落とす。リーチちゃん、容赦無いわね」

「え、オレのせいなんですか?」

「エリムを庇うわけじゃないけれど、女友達をオカズにっていうのは、別におかしなことでもないんじゃない? そりゃあ、面と向かってオカズにしてます、なんて言われたら、さすがに殴っていいことだと思うけど」

「さあ。オレ、女友達が一人もいなかったんで」

「あらら」

「というか、気になったんですけど」

「何かしら?」

「もしかして、オレの前世が男だってこと、エリムに言ってなかったりします?」

「言ってないわよ?」

「うぇ、なんでですか!? 風呂場でスミレナさんには言ったから、てっきりエリムにも伝わっているものだと!」

「リーチちゃんこそ、どうして自分から言わなかったの?」

「それは、サキュバスにされた理由が、死ぬほどアホらしい理由だったので……」

「死ぬほどアホらしい理由。興味はあるけど、無理には訊かないでおくわ」

「最初に言っておくんでした……」


 オレのミスだ。見た目はこんなでも、中身が男だと知っていたら、エリムだって妙な考えは起こさなかっただろうに。


「過ぎたことを悔いても仕方ないわ」

「エリムが戻ってきたら、ちゃんと説明します」

「いえ、それはやめた方がいいわね」

「どうしてです?」

「言わない方がおもし、コホン」

「今、面白いって言いかけました?」

「気のせいよ。言えば、そう、重しになってしまうと言おうとしたの」

「なんの重しですか?」

「心の重しよ。リーチちゃんの心は、今も男の子なのよね?」

「はい。益荒男ますらおの魂が宿っています」

「益荒男はともかく、それなら考えてみて。話せば、エリムは男で自慰行為をしたという業を背負うことになってしまうのよ? そんなことになったら、あの子の心はきっと耐えられない。さっきの様子を見てもわかるでしょう? 廃人になってしまうかもしれないわ」

「そ、そこまでの事態に……」


 メンタル弱すぎじゃなかろうか。いやでも、そういうものだと言われると……。


「そこで、アタシからお願いがあるの」

「お願い?」

「リーチちゃんは、前世でも女の子だった。しばらくでいい。そういうことにしておいてあげてほしいの」

「エリムに、真実を打ち明けても大丈夫だと判断できるまでですか?」

「ええ。そのタイミングはアタシに任せてほしい。悪いようにはしないから」


 エリムのことは、姉であるスミレナさんが一番よくわかっているだろう。

 そのスミレナさんが言うんだ。言うとおりにした方がいい。


「……わかりました。それでエリムが、これ以上傷つかずに済むなら」

「リーチちゃんって、ホント可愛いわ」

「なんで今言うんです?」

「んー、なんとなくかしら」


 深刻な話をしていたはずなのに、どうしてそんなに楽しそうなのか。


「まあ、今の時点で話しちゃっても大丈夫だとは思うんだけどね」

「オレは信じています。エリムなら、何があっても友達でいてくれるって」

「友達……友達ね。道のりは険しそうだわ」


 それでもオレは、オレたちは乗り越えてみせる。

 友達の、さらに先――親友と呼び合える仲になるために。


「それにしても、少し惜しかったわね」


 スミレナさんが頬に手を添え、残念そうに言った。


「何がですか?」

「リーチちゃんの経験値よ。ポイントを得る対象が男性に限定されていなければ、(0/2)じゃなくて(1/2)になっていたのにね」

「それ、どういう――」


 訊き返そうとしたが、オレは途中で言葉を切った。

 ……深くは考えまい。

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