第23話 小学生かよ
「うげ、寝すぎた」
何時間くらい寝ていたのか。目覚ましをかけていなかったとはいえ、日が完全に上っている。相当疲れていたらしく、爆睡してしまった。
オレはベッドから飛び起き、寝間着姿のまま部屋を出た。
五十坪ほどある敷地の三分の二を酒場に、残りの三分の一を居住に使っている。大通りから見て、手前に酒場、奥に母屋という間取りだ。母屋の裏手には馬小屋があるらしいが、今は馬を飼っていないそうなので、ミノコ専用の住まいとなる。
昨日のうちに聞けた説明は、これくらいだ。
母屋に人の気配は無い。家人は、とっくに一日の用事を始めているだろう。
早起きの予定はなかったけど、居候の身としてはバツが悪い。
足早に廊下を進み、母屋から酒場へ入るための、木目のついた扉を開けた。
「おはようございます! すみません、寝坊しました!」
思ったとおり、オレが最後だった。
バーカウンターの向こうにはエプロンをつけたエリムがいて、野菜などの食材を包丁で切っている。店で出す料理の仕込み中だろう。
フロアの方では、木組みのイスに、ロングスカート姿のスミレナさんが腰かけていて、そのすぐ傍にミノコが座り込んでいた。ミノコが店に入って来られるよう、他のテーブルやイスが隅に寄せられている。
「おはよう、リーチちゃん。今日くらい、もっとゆっくりでもよかったのよ?」
木漏れ日の深緑が背景に浮かびそうな穏やかな微笑みを添えて、スミレナさんが朝の挨拶を返してくれた。それなのにオレは、昨夜見てしまった彼女の裸と自分の痴態を思い出してしまい、カアッと顔が熱くなるのを感じた。
「リーチさん、おはようございます」
エリムは仕込みを中断し、バーカウンターとフロアを仕切っている戸を開いて、わざわざオレの前まで駆け寄って来た。
「あれ? リーチさんの着ている寝間着って」
「ああこれ? スミレナさんに聞いてなかった? 上だけエリムのを借りたんだ」
両腕を左右に伸ばして、着心地は悪くなかったということを伝えようとしたが、袖が余りまくっているため、みっともなく手が隠れてしまっている。
「ちょっとサイズがでかかったかな。はは、ぶっかぶか」
「そ、そうですね」
笑ってもらおうと思って自嘲気味に言ったのに、エリムはオレがスミレナさんにしたみたいに視線を泳がせ、目を合わせるのを避けた。
「勝手に使ったの、悪かったかな?」
「ち、違っ!」
「乳が何? あ、もしかして、また乳首浮いてる?」
昨日のワンピースよりも布地が厚いから、その心配はないと思ったのに。
「ではなく! リーチさんが、そんな……可愛すぎる仕草をするから……」
「なんて? 後半聞こえなかった」
「や、ええと、とにかく悪いなんてことは全然ありません。むしろ」
「むしろ?」
「そそ、それより! 変な臭いはしませんでしたか!? リーチさんにお貸しすると知っていたら、徹底的に消臭しておいたのに」
あんまり申し訳なさそうに言うもんだから、オレは寝間着の袖に鼻を近づけて、クンクンと匂いを嗅いでみた。その様子を、エリムがはらはらと見守っている。
別に臭くなんかないけど、エリムが料理をする人だからかな。洗剤の匂いの他にも、微かに食材の匂い、食用油の匂い、調味料の匂いなんかがする。エリムに染みついた匂いが寝間着に移ったんだろう。なんとなく、人間だった時よりも鼻が利くようになっている気がする。
試しに、エリムの胸元にも鼻を近づけてみた。
「リリリリーチさん!?」
普段着なだけあって、寝間着よりも匂いが強い。
エリムの匂いを嗅いでいると、ふと、
食いてーなあ。二度と食えないと思うと、余計に食いたくなる。
懐かしむように言うと、エリムは「いひぇ!?」と声を裏返した。
「あ、言っとくけど、匂いフェチだとか、変な意味に取らないでくれよ。男の体臭には慣れてるし、気にならないってだけだからな?」
「男の体臭に慣れてるって……。な、何故ですか!? ご兄弟がいたんですか!?」
「いや、オレは一人っ子だよ」
「では、タクトさんですか!? 匂いを覚えるほど頻繁に逢っていたんですか!?」
「
「気になるんです! 教えてください!」
エリムの剣幕に、思わずたじろいでしまう。
「そ、そんな四六時中会ってたわけじゃないけど。週に一、二回ってところかな。オレ、あんまり外に出なかったから」
「つまり、一回一回の……密度が……くッ」
どうしよう。エリムが何に悔しがっているのかわからない。
エリムは「絶対負けない」と意味不明な独り言を呟きながら、またカウンターの向こうへ戻って行った。
そんな遣り取りを見ていたスミレナさんが、くすくすと上品に笑った。
「リーチちゃんてば、小悪魔なのねえ」
「はい、まあ。残念ながら、もう人間じゃありません」
「うふふ。そういう意味で言ったんじゃないけれど。でもそこが可愛いわ」
「また可愛いって言いましたね……。控えてくれるんじゃなかったんですか?」
「ええ。でもね、あれから一晩考えたのよ。そしてアタシなりに結論を出したわ」
「……どんな?」
「可愛いものを、素直に可愛いと言えない世界なんて、滅んだ方がマシだって」
「そんなスケールのでかい話でしたっけ?」
なんにせよ、言うのをやめるつもりはないってことだけは伝わってきた。
溜息をついていると、オレの腹がくるると鳴った。
ミノコにも何か食べさせてやらないと。
――と、思いきや、ミノコは既に何やら口にしていた。美味しそうにぺろぺろとスープ皿を舐めている。水、じゃなさそうだな。色が琥珀色だ。
「それ、なんですか?」
「ミノコちゃんが興味を持っているみたいだったから、新作の味見をお願いしているのよ」
「新作?」
「お酒のことよ。既製品をそのまま出したりもするけど、アタシは何種類かのお酒を組み合わせたり、果汁を使ったりして、新しい味を作るのが好きなの」
「カクテルみたいなものですか?」
「かくてる? アタシの趣味みたいなものだから、特に決まった呼び方は無いわ。たまに料理にも挑戦するんだけど、こっちはてんでダメね。エリムの足下にも及ばないわ。こんなんじゃ嫁の貰い手が無いわね」
そう言うスミレナさん本人に気を落とした様子はない。でも女性が自分を貶めるようなことを言ったら、すかさずフォローするのが男――ではないけど、この場に限るなら、それは弟のエリムではなく、オレの役割だろう。
オレはフェミニストとして、優しくも頼り甲斐のありそうな太い声を意識した。
「もしかしたら、こちらの世界にも同じような言葉があるかもしれないですけど」
無理でした。オレの声、超可愛いです。
……気を取り直して。
「オレのいた世界に〝失敗は成功のもと〟ということわざがあるんです。失敗から学べることもある。失敗だったとしても、それはちゃんとスミレナさんの経験値になっているはずです。苦手意識を持たず、毎日少しずつエリムに基本から教わってみるのはどうですか?」
うん、我ながら良いこと言った。
「〝ちっぱいは性交のモットー〟だなんて、大胆で面白いことわざね。貧乳に価値を見出(いだ)した格言なのかしら。アタシのちっぱいなんかで学べるものがあるかは不安だけど、よかったら、今からアタシの部屋で軽く性交してみる?」
「朝から冗談が重すぎるんですけど」
「ふふ、ごめんなさい。半分冗談よ」
そこは全部であってほしかった。
オレに呆れられることすら楽しそうにカラカラと笑う。掴みどころのない人だ。
「ミノコが飲んでいるのも酒なんですよね?」
「ええ。この子、相当イケるクチよ。いい酒飲み友達になれそうだわ」
アルコール度数はわからないが、確かにいい飲みっぷりだ。オレが酒場に現れた時でさえ一度も顔を上げず、一心不乱に酒を味わっている。
その様子を見ていると、無意識にごくりと喉を鳴らしてしまった。
「オレも、ちょっと飲ませてもらってもいいですか?」
「こっちの世界では、お酒は
「や、向こうでも二十歳からでしたけど」
「じゃあ、ダーメ」
「でもほら、それは人間内でのルールですし、今のオレには適用されないんじゃ」
「都合のいい時だけ他種族であることを利用するのは感心しないわねえ」
正論すぎて、ぐぅの音も出ない。
「とはいえ、酒場で働く以上、何かの拍子に間違って飲んでしまうことも考えられなくはないから、自分がどれくらいお酒に強いか知っておくのは悪くないけれど」
「でしたら!」
「ただし、もしそれで酔い潰れた場合、アタシはリーチちゃんを自室に運び込んでニャンニャンするわ。誰にも邪魔されないようカギを閉めて、場合によってはお子様に見せられない道具も使って上から下まで余すことなくニャンニャンするわ。それでもいいなら――」
「やっぱりルールは守らないとですね。この話は無かったことにしましょう」
ニャンニャンって何かな。専門用語かな。わかんないや。
「賢明ね。でも本当、お酒には気をつけなくちゃダメよ?」
「急性アルコール中毒になる危険があるからですか?」
「それもあるけど、女の子の場合、何よりも貞操の心配をしなくちゃダメ。女性にお酒を勧めてくるような男は、ほぼ100%下心ありだと覚えておくといいわ」
「いや、純粋にお酒を一緒に楽しみたいって人もいるでしょう」
「そんな甘い考えじゃ、リーチちゃん、確実にお持ち帰りされちゃうわね」
「確実にって……」
「されるわ。200%される。断言してもいい」
スミレナさんの台詞には、一点の迷いも感じられない力強さがあった。
カウンターに立つエリムも鍋に火をかけながら、うんうんと頷いていた。
オレって、そんなちょろそう?
「女の子にとって、外は危険がいっぱいよ。特に、リーチちゃんみたいに田舎から出てきたような世間知らずの娘さんな場合、その危険度は計り知れないわ」
「お、脅かすようなことを言わないでくださいよ。そんな風に言われたら、一人で夜道を歩けないじゃないですか」
「待って待って。歩けると思っていたの? 言わなきゃ歩くつもりでいたの?」
「ダメ……ですか?」
「ダメに決まっているでしょう。リーチちゃんみたいな子が一人で夜道をふらふら歩くという行為は、オークとトロルとゴブリンとスライムとペロメナの群れの中を全裸で横断するくらい危険なことなのよ?」
「どうなるんですか?」
「それはもう凄いことになるわ。べとべとのぐちょぐちょでめちゃめちゃよ」
「……ペロメナってなんですか?」
「触手の生えた水棲モンスターよ。十本ある触手のうち、一本だけ先端が生殖器になっているの。これを雌の体内に挿入して受精させるわ。他種族間では受精なんてできないんだけど、雌なら種族に関係なく襲ってくるの。理由は、その触手が生殖器官であると同時に摂食器官も兼ねていて、そこから雌が分泌する愛え――体液を好んで摂取するためだとか」
「詳しい説明をありがとうございます。ぞっとしました」
「触手に襲われるのは未経験でも、オークに襲われたことのあるリーチちゃんならその怖さは理解しているわね? 若い娘さんには、そんな危険が常につきまとっているの。それなのに、もし呑気に一人で夜道を歩いている子がいたら、アタシなら即持ち帰――保護して一晩中お説教するわ」
この家って、本当に安全地帯?
身近なところで危険を感じていると、エリムが「心配には及びません!」と声を大にした。
「リーチさんが出かける時は、ぜひ僕を供に連れて行ってください。リーチさんに不貞を働こうとする輩は、この僕が命に代えても近づけさせませんから」
ドン! と自分の胸に拳を当て、そんな頼もしいことを言った。
「あぁ、うん、ありがと」
喉元まで出かけた、「でもお前、めっちゃ弱いじゃん」という身も蓋も無い台詞は空気を読んで飲み込んだ。
「リーチちゃん、これも覚えておくといいわ。ウチの弟みたいにね、一見人畜無害そうな奴ほど危ないのよ。女慣れしていないから、逆に歯止めがきかないの」
「姉さんは誰の味方なのさ!?」
「可愛い女の子の味方よ。決まっているじゃない。弟とか、ちょっと意味がわからないわ」
「こっちの台詞だよ!」
この姉弟の遣り取り。どこまで本気で、どこまでが冗談なのかわからないため、オレは苦笑いで場をやり過ごすしかできなかった。
それでも一つだけ決まり事ができた。
――オレの門限は十七時。
異論は認めてもらえなかった。十七時って、小学生かよ。
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