第17話 麗しき姉弟愛
町で一番大きいらしい通りを挟み、商店街のように店が軒を列ねている。
日本では見慣れない石造りの建物ばかりなのに、その浮世離れした風情はどこか京の都でも歩いているような気分にさせた。時間帯が遅く、人通りがほとんど無いということも、気持ちに雅を飾る一役を買っているんだろう。
ホント、夜間でよかった。
日中であれば、さぞや人がごった返し、賑わいを見せるに違いない。引きこもりだったオレは、そんな雑踏を歩くことを想像するだけでも人に酔いそうになる。
町が寝静まるには早く、まだ営業中になっているところもちらほらある。
ある程度は店の種類によって区画分けされているのか、オレたちが今歩いている辺りには、飲食系の店が固まっていた。
その一つに、エリムの実家でもある酒場【オーパブ】はあった。
一階建てだけど、五十坪ほどの敷地面積があり、ちょっとしたファミレスくらいの大きさだ。この店を若い姉弟だけで維持しているというのだから、感嘆の溜息をもらさずにはいられない。
店の正面に、西部劇に出てくる酒場などによく見られる、仕切りのような両開きの木製扉がついている。
扉から外に零れてくる店の明かりは、ランプのそれではなく、昼白色の蛍光灯と瓜二つだ。電気を使用しないこの世界に蛍光灯は存在しないはずだから、おそらく別の技術によるものだろう。
店に明かりは点いているけど、扉には、英語の筆記体みたいに勢いのある書体で【閉店】と書かれた札が掛けられ――って、あれ?
「どうしました?」
「字が読める。それ、閉店って書いてあるんだよな?」
筆記体を例に出しはしたが、目の前にあるそれは見たことのない文字だ。
なのに、札に書かれている文字の意味が理解できてしまった。
「閉店で合っています。転生者の仕様というやつでしょうか。これは人間が使っている公式文字なんですけど。書くこともできそうですか?」
「…………。んにゃ、書くのは無理そう。自分の名前の字も浮かんでこない」
【薔薇(ばら)】みたいに複雑な字でも、読むだけならできる。
スマホで文字を打った時、同音異義語の中から正しい変換を選ぶことができる。
でも、ペンで紙に書くのは無理。そんな曖昧な感覚に近い。
「どうせなら、書けるようにもしておいてくれりゃいいのに」
「読むことができるんですから、書く方も、きっとすぐに習得できますよ」
「だといいけど。面倒でなけりゃ、時間の空いた時にでも教えてくれるか?」
「面倒だなんて、とんでもないです。むしろ、来たるべき戦いに備えて、こういうイベントは一つでも多くこなしておきたいところです」
お前、誰かと戦う予定でもあるのか?
勉強なのに、なんでそんな嬉しそうなんだ?
オレに字を教えたら、パワーアップでもするのか?
そんなことするより、筋トレした方がいいんじゃないのか?
ていうか、今の会話のどこらへんに頬を染める要素があったんだ?
ツッコミどころが多すぎて、逆にツッコめない。
「すみません。牛さんは、表で少し待っていてもらえますか? イスやテーブルを除けないと入れないと思うので」
エリムの待機指示を了承したミノコが、大人しく店の玄関前でしゃがみ込んだ。
ここまで乗せてくれたことを感謝しながらオレも地面に降りると、ひんやりした土の硬さを足の裏に感じて、確かに新鮮な気持ち良さがあった。
「女性を家に連れて来て家族に紹介するのって、なんだか緊張しますね」
「あー、そっか。オレなんかでも、そう見られてしまう可能性があるのか」
「なんか、だなんて。自分をそんな風に言わないでください」
「誤解されないよう、ちゃんと説明するから安心しろよ。エリムにそんなつもりは微塵も無いって。純粋な善意の施しで世話を焼いてくれているんであって、他意は一切無いんだって」
「リーチさん、もしかして……釘を刺してます?」
「何に?」
「……自覚は無いんですね。……じゃあ、まあ、入りましょうか」
エリムの台詞は気になるが、こっちはそれどころじゃなかった。
いよいよ、お姉さんとご対面だ。やっべ、超緊張してきた。
スイングドアを押し開け、エリムが先に入って行く。その背に隠れるようにしてオレも続いた。後ろで、ギィコ、ギィコ、と、呼び鈴の代わりみたいに音を立てて扉が揺れている。
店内に入ると、鼻腔をツンと刺激する木の香りがした。無機質な外観とは違い、床や天井、壁が全て板張りになっていて、それだけでいくらか暖かく感じられる。
エリムの肩越しに、内装をそっと覗き込んでみた。
店の入り口から見て左手の壁際には酒場らしくバーカウンターが伸びており、カウンターの向こうには色取り取りの酒瓶を並べた棚があった。奥の方にはシンクも見える。
「――あら、おかえりなさい。早かったのね」
店の奥から、鈴を転がしたような愛らしい声がした。
カウンターを隔てた先に、一人の女の子が透明のグラスを磨いている。
あの人がエリムのお姉さんか。美人――というより、可愛さの方が際立っている。
エリムのお姉さんは、確か二十二歳らしいから、年下のオレが〝女の子〟と呼ぶのは失礼に当たるかもしれない。だけど、もし転生支援課のアラサー職員が彼女を見たら、血涙を流して悔しがりそうな若々しさが、その人にはあった。オレやエリムと同年代だと言われたとしても余裕で信じられる。
弟のエリムより少し明るい亜麻色の髪は、腰の辺りまで届く一本の編み込みになっており、ぱっちりとした赤銅色の瞳は、オレの目線とほぼ同じ高さにある。
「リーチさん、紹介します。姉のスミレナです」
スミレナさんというのか。目が合ったので、ぺこりと会釈をした。
そのスミレナさんが、途中まで磨いていたグラスをカウンターに置き、フロアに飛び出して来た。カウンターに立っていた時は見えなかったけど、白いエプロン付きのスカートドレスを着ている。スカートを翻してパタパタと足音を立て、慌てたように駆け寄って来た。
「エリム……アナタ、どうして……」
オレもエリムも裸足での登場だ。ただ事ではない空気を感じ取ったのかもしれない。
きっとそうだ。オークが出るなんていう危険な森に入っていた弟の無事を、その目で見て、その手で触れて確かめたいんだろう。やっぱりエリムのお姉さんだけあって、思ったとおりの慈愛に溢れた。オレは、ホームドラマさながらの感動シーンを期待した。
エリムのもとに辿り着いたスミレナさんが、愛する弟を優しく抱き締め――
「正座」
――ることはなく、冷淡な声で一言告げた。
姉弟間では慣れた遣り取りなのか、エリムは特に不満を言うこともなく正座した。
「エリム、アタシはね、とても心配していたのよ?」
スミレナさんが、悲しみを滲ませた声で言った。
ただし、正座しているエリムの顔面にアイアンクローをかましながら。
「あれほど森に入ることを反対したのに、どうしてもと言うから、泣く泣くお店を臨時休業にしてあげたのに。それがいったいどういうことなの? 森に行くっていうのは嘘で、女の子とイチャコラしていたの?」
「あがが、ね、姉さん、話を聞いて!」
懇願するエリムのこめかみから指を離したスミレナさんが、何を思ったか、カウンター脇に置いてある酒瓶の詰まったケースを一つ、「よいしょ」と持ち上げた。
「エリムもお年頃だもの。そういうことに興味を持つなとは言わないわ。だけど嘘をついて、家族に心配をかけてまで性欲に走ってしまうのはどうなのかしら?」
溜息交じりに言い、運んできた酒瓶ケースをエリムの膝の上に載せた。
「ちょ、姉さん、重、痛いッ!」
「しかも、こんな夜遅くに他所様の娘さんを連れて来たのはなんのつもりなの? まさかとは思うけど、ウチを連れ込み宿として使おうとしているの? 今から部屋にしけ込むの?」
呆れたように眉間を揉み解し、スミレナさんは別の酒瓶ケースを取りに行った。
なんだろう。スミレナさんに抱いていたイメージが、がらがらと崩れていくような。
「お願いだから話をさせてよ! この人のことも説明するから!」
オレは予想外の状況を前に狼狽えるばかりで仲裁に入ることさえできずにいる。
そんなオレを、スミレナさんが一瞥した。
「……そうね。事情も聞かずに叱るのは違うわね。ごめんなさい」
「もういいよ。わかってくれたなら」
「弟を信じられないなんて、お姉ちゃん失格よね。反省するわ」
そう言いつつも、エリムの膝から重しはどかされず、二つ目の酒瓶ケースも構えたままだ。
「でも、話を聞く前に、一つだけ確認させてほしいことがあるの」
「大丈夫。特に怪我はしていないよ。実を言うと、オークとは遭遇しなかったんだ」
「ううん。お店の仕事に支障さえなければ、そんなことはどうでもいいの」
どうでもいいんだ……。
「それより、その子、すごく立派な胸をしているのね」
「そ、そう、だね」
姉弟の視線がオレの胸部に注がれ、咄嗟に女みたく胸を隠す仕草を取ってしまった。
「まさかとは思うけど、あの子に変なことしていないわよね?」
「へ、変なことなんて、何もし……テ、ナイヨ?」
「あらあら、その様子だと、何かしたわね? もしかして、胸でも触っちゃった? あらあらあらあら、目が泳いだわね。そう、揉んだのね? お店の仕事をサボって。外で女の子の胸を揉んできたのね? 揉みしだいてきたのね?」
馬鹿正直なエリムは、沈黙をもって肯定としてしまった。
ズシリ、と二つ目の酒瓶ケースがエリムの膝に積み上げられた。
「姉さん、これ、肉に食い込むよ!?」
「そりゃ、一つ二十キロはあるもの。そんなことより、エリムにはがっかりだわ。手を出しているなら有罪確定じゃない。これ以上は問答無用だと思うのはアタシだけ?」
「不可抗力だったんだ! 押し倒してしまったのも、わざとじゃなくて!」
「あらそう、押し倒したの。残念だわ。いつの間にか、弟が性犯罪者になっていただなんて。保護者として去勢――もとい性格の矯正が必要ね」
そう言って、三つ目の酒瓶ケースを取りに行く。
「話を聞いて! いや聞いてください!」
「いいわ。聞いてあげるから説明なさい。ただし、三十秒ごとに重しを追加していくわ」
「えっと、ええっと、予定どおり冒険者パーティーに加わって【ルブブの森】に入ったまではよかったんだけど(中略)
と、そこへ偶然リーチさんがアア――――ッ!?」
三つ目追加。
「あ、あの、お姉さん!?」
「リーチさん、ここは僕に……任せて、ください!」
「いや、でも」
「森でリーチさんが襲われそうになった時、僕はなんの役にも立てませんでした。あの時ほど自分の弱さを悔やんだことはありません。だから……今度こそ!」
「それはいいから早く説明しろってば! 四つ目くるぞ!」
冒険者にボコられ、オレに殴られ、そして実の姉に折檻され。
オレにとってそうであるように、今日はエリムにとっても厄日らしい。
一通り説明し終えるまでに、エリムは百キロもの重しをその身で体感することとなった。
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