第9話 だから言わんこっちゃない

 水道なんて上等なものは小屋の中に備わっていなかったので、近くの林の中に、浅く水のたまった沢があったのを思い出したオレは、そこで後始末をした。

 冷たい水で足をすすいでいる間、オレの表情は死んでいた。


「この世界に神はいない……」


 声が高くなったことより、筋肉が消えたことより、身長が低くなったことより、巨乳になったことより、ムスコが旅立ったことより、オークに襲われたことより、この年で漏らしてしまったことが、今のところ地味に一番ダメージがでかい。


「モフッ」


 離れた場所で水を飲んでいたミノコが、オレの痴態を見て失笑した。

 牛にまで笑われ、オレのなけなしのプライドは修復不可能なまでに粉々だ。


「男はピンポイントで狙えるのに、女って、なんであんな……うぅ……」


 構造的な違い。出した後、男は振るだけでいいけど、女は拭かなきゃならない。その理由がよくわかった。身をもって理解した。させられた。

 慣れろ。これ以上、人としての尊厳を失いたくないなら。

 自分に言い聞かせ、この世界に来て、何度目かわからない溜息をついた。

 それにしても。


「……やっぱり……下も金色なんだな」


 なんてことをうっかり呟いてしまった直後、ミノコの冷えた視線が飛んできた。


「な、なんだよ!? 自分の体なんだから、やらしいことなんかないだろ!?」

「ンモォ」

「べべ、別に興味津々とか、全然そんなことないし! ただちょっと、もう立ったままではできなくなったんだなって思っただけだし! 嘘じゃないし!」


 懸命な弁解をするも、ミノコは含み笑いを残しただけで、また水を飲み始めた。

 言葉だけじゃなくて、表情まで読み取れるようになってきたのは喜ばしいけど、早くも主従関係に支障をきたしている気がしないでもない。

 汚名返上、名誉挽回……今後の課題だ。


 気を取り直して、これからどうするか。

 できれば、腹が膨れているうちに森を抜けてしまいたいところではある。

 オークが人間の行商を襲い、奪った食料を小屋に運んだりしていたことからも、そう遠くない範囲に、馬車なんかが通れる道があるはず。

 ただ、小屋に着いた時よりも、少し日が落ち始めているのが気がかりだ。

 森の中で夜を迎えるのは賢くない。オークじゃなくても、狼なんかが出ないとも限らないし。まあ、ミノコなら、それもペロッと食べちゃえるんだろうけど。


「小屋で一泊して、明日の朝に出発した方がいいか。でも、んー」


 襲われかけたベッドで寝るのと、安全かどうかもわからない森の中で野宿。

 どちらが熟睡できるだろうか。


 苦渋の二択に頭を悩ませながら、一旦林を出て小屋へ戻ろうとする。

 と、そこでミノコが足を止め、耳をピンと立てた。

 オークの接近に気づいた時と同じ仕草だ。

 オレは息を殺し、ミノコと一緒に茂みに身を潜めた。

 話し声が聞こえる。


「小屋の周りに、誰かいるみたいだな」


 四人、いや……五人か。

 距離はここから20mといったところ。まだこちらには気づいていない。

 オークに仲間がいたのかと警戒したけど、種族が違う。あれは人間だ。


 しめた。あの人たちに事情を話せば、森を出られるぞ。

 全員が男。一人だけ、オレと同い年くらいの奴がいる。他は30代から40代のオッサンだ。日本人と比べると、顔の彫りは若干深いけど、髪の色は黒や茶だし、アジア系と言えなくもない。

 そして、明らかに戦う相手がいることを想定した前掛けや胸当てといった防具を身につけている。背中には弓と矢筒、手には長物。木こりというよりは、マタギに近い恰好だ。

 そんな彼らの表情は真剣そのもの。

 オレは耳を澄ませ、出て行くタイミングを窺うことにした。


「食事をしていた形跡がある。今しがたまではいたようだな」

「出払ったばかりなら、しばらくは戻って来ないだろう。中で待ち伏せするか?」

「それより林の中に隠れて、オークが寝静まるのを待った方が」

「絶対に仕留めてやる」


 待ち伏せだの、仕留めるだの、物騒の会話だ。

 だけど、彼らの目的はすぐにわかった。


「オークを討伐しに来たみたいだな」


 なのに、肝心のオークがいなくて肩透かしを食っているわけか。

 でも、それなら話は早い。


「オークはもういないって、教えてあげないと」

「モォ~ゥ」

「様子を見るべき? なんでさ。そんなことしているうちに、あの人たちがどこか行っちゃうかもしれないじゃないか」


 それでもミノコは首を横に振り、同じように鳴いた。


「相手の素性がわからないうちは危険? それは……そうかもしれないけど」


 相手は人間だ。話くらいはできるはず。

 それに、悪いオークを倒そうとしている人たちなら、正義の味方かもしれない。

 敵の敵は味方という言葉もあるし。

 オレはごくりと息を飲んだ。ミノコの言うことも一理あるけど、多少のリスクは承知で動かないと、手をこまねいているだけでは現状を変えることができない。


「ミノコがいきなり顔を出したら驚かせてしまうかもしれないから、お前はここで待っていてくれ。オレが話をしてみる」


 ミノコが止めるのも聞かず、オレは茂みから出て行った。


「……あ、あの!」


 姿を見せて声をかけた瞬間、男たちは鳩の群れみたいに散開して、各々の武器をオレに突きつけてきた。

 オレは脊髄反射でホールドアップ。消えた玉袋が、ヒョッ、と縮み上がるような感覚に襲われた。相手の動きと殺気が本物すぎて、また漏らしそうだ。


「…………こんな森に、娘?」


 男の一人が呟いた。


「あ、怪しい者じゃありまひぇん!」


 ここで噛むとか……。

 武器を突きつけられているプレッシャーも相当だけど、オレみたいな引きこもり上がりには、自分から赤の他人に話しかけるだけでもハードルが高いのです。


 そんなマヌケを晒す奴が脅威になるわけがないと思ってくれたのか、男たちは、とりあえず武器を下ろし、いくらか警戒を緩めてくれた。


「こんな所で何をしている?」


 何をしているのかと訊かれると、遭難していると答えるしかない。

 でも、相手が一番知りたいのは、そんな情報じゃないだろう。オレも転生やらについて上手く説明できる自信がないので、いきなり核心に入ることにした。


「ここにいたオークのこと、知ってます」


 そう言うと、男たちは眉をひそめて互いに顔を見合わせた。

 見たところ、一団の真ん中にいる眼帯のちょびヒゲさんが一番強そうというか、このチームのリーダーっぽい。


「お嬢ちゃん、もしかして、オークに捕まっていたのか?」


 ちょびヒゲさんが見当違いなことを言った。

 でも言われてみれば、オレは裸足だし、オークの隙をついて、命からがら逃げてきたように見えても不思議じゃない。ていうか、お嬢ちゃん……お嬢ちゃんか。


「奴はどこにいる?」


 重ねて尋ねられた。


「えと、食べ……じゃなくて、一応、倒したって言うんですかね。だから、オレも逃げてきたわけじゃなくて、もうここに危険はないって伝えようと」

「倒した? お嬢ちゃんがか?」


 詳しいことは、ミノコを紹介してからでないとできない。

 だからまずは、怪しまれない程度にオレが何者かを説明しなきゃ。

 と、思った時。


「おい、見ろ! その娘、頭に角が生えてるぞ!」


 別の男が、オレを指差して言った。


「あ、はい。サキュバスですから」


 背中を向けて、小さな翼も自分から見せた。

 すると男たちは、またもや顔を見合わせ、ヒソヒソと何かを相談し出した。

 なんだか雲行きが怪しいぞ。「オークを倒すなんて、やるじゃねえか!」的な熱烈歓迎も、期待していなくはなかったのに。

 討伐の手柄を奪ってしまったのがまずかったのか。

 それとも、まさかまさか、人間と魔物は問答無用で殺し合っているとか、そんな殺伐とした関係だったりするんだろうか。


「あ、あの、オレ、悪い魔物じゃないですよ。人間にも友好的っていうか、むしろ人間社会で暮らしたいと思っているくらいでして」


 ヒソヒソ。

 ヒソヒソヒソ。


 ぬぐ。簡単には信用できないのかもしれないけど……感じ悪いな。

 しばらくして話がまとまったのか、ちょびヒゲさんが、眼帯をつけていない方の目を細め、じろりとオレを睨みつけてきた。


「油断させたところで、オークを呼び寄せるつもりじゃないだろうな?」

「そ、そんなつもりはありません! オレ、この森で迷っちゃって、皆さんに道を教えてもらいたいだけなんです!」


 声を荒立てている間も、ちょびヒゲさんの鋭い視線が突き刺さってくる。真偽を見抜こうと、頭の中まで覗き込まれているかのようだ。


「お前一人か?」

「えっと、はい」


 正確には、一人と一頭だけど。

 こうしていくつもの視線に晒されていると、高校入学初日、上級生に体育館裏に呼び出され、ちょっとジャンプしてみろよ、と言われた時のことを思い出すな。


「どうやら、嘘はついていないようだ。つまり、サキュバスの催淫能力でオークを籠絡し、無力化したということだな?」


 いや、全然違いますけど。

 否定するより早く、ちょびヒゲさんは続けた。


「それなら、確かに危険はなさそうだ」


 そう言って、ちょびヒゲさんをはじめ、男たちは険しい表情を和らげ、ニカッと破顔した。オレも、ホッと息をつき、上げっぱなしだった腕を下ろした。

 ちょびヒゲさんたちは、満面の笑顔でオレをぐるりと取り囲んできた。


「おお、本当にサキュバスだぞ。珍しいな」

「気をつけろよ。下手に刺激すると、催淫されちまうぞ」

「角と翼を見る限り、大した魔力は無いだろうに、よくオークを懐柔できたな」

「魔力はともかく、この体だ。骨抜きになるのも無理はないさ。これならさぞかし値も吊り上がるだろうよ」


 んん? 値?


「あ、あの」


 オレが話を振ろうとしても、男たちは耳を貸そうとしない。

 それなのに、距離だけはやたら近い。


「危険な討伐任務のはずが、とんだ掘り出し物になったな」

「オークは別の場所で大人しくしているだろう。そっちも後で始末しよう。正規の報酬と合わせて、がっぽり稼がせてもらおうぜ」

「売り払う前に、品質確認はしておかないとな。小屋の中に運ぶか?」

「狭苦しいし、このまま外でいいだろ」


 なんの話かと尋ねる間もなく、背後に回って来た男が、いきなりオレの両腕を乱暴に掴んできた。さらに正面に立った男によって、両足首を掴まれた。


「え? なんです? ちょ、うわっ!?」


 有無を言わせず仰向けに寝かされ、両手両足を地面に押さえつけられた。

 逆光のせいだろうか。

 オレを見下ろしてくる男たちの厳つい人相が、ドス黒く、凶悪に見える。


「わはは、こいつ、まだ自分の状況がわかってないみたいだぜ」

「サキュバスのくせに、えらくおぼこいじゃねえか。まさか初物か?」

生娘きむすめのサキュバスなんざ、存在するのか?」

「どっちでもいいさ。早く味見しようぜ」


 あ、同じだ。

 種族は違うけど、いつの間にかオッサンたちの表情が、あの時のオークと同じ、これから獲物をいたぶろうとするゲス面になっている。

 てことは……これ……そういうことなのか?

 おいおい。さっきの今だぞ?


「お、やっと自分がピンチだって気づいたみたいだな。顔色が変わりやがった」


 ちょびヒゲが傍らにしゃがみ込み、オレの頬に鼻先が触れそうになるくらい顔を寄せてきた。そうして、皿に乗せられた料理の香りを楽しむみたいに匂いを嗅いでくる。生温かい鼻息が顔にかかり、背筋を悪寒が走り抜けた。


「……は、なせ、放せよ!」

「おうおう、カワイイ抵抗だな。ほれ、もっと頑張れ」


 まただ。またビクともしない。

 相手がオークでも人間でも関係ない。

 単純に、この体が非力すぎる。

 てか、この世界の野郎どもは、婦女暴行をライフワークにでもしているのか?


「クソっ……たれ!」


 これが、ずっと憧れていた異世界かよ。

 世界規模で、夢見てんじゃねえ。現実を見ろと言われている気分だ。


「お、なんだ、急に大人しくなったな。諦めたか?」


 うるさい。こっちは世界の不条理と、自分の不運に嘆くので忙しいんだよ。

 どいつもこいつも、クソ喰らえだ。

 世界ごと滅んじまえと、何もかもを呪った。


 そんな中で、ただ一人。


「やめてください! グンジョーさん、こんなことは良くないです!」


 まだ少年と言っていいくらい若い人間だけが、男たちの蛮行を諌めた。

 近くで見ると、オレよりも、一つか二つ年下かもしれない。


「ガキが、口出しするな。ちょいと魔物を懲らしめてやるだけだろうが」


 ちょびヒゲの名前はグンジョーというらしい。

 しっしっ、と手を振って少年を追い払おうとする。


「その子は何も悪さをしていないじゃないですか! 人道に反します!」

「人道? 魔物相手に、そんなもん持ち出すんじゃねえ。いいから黙ってろ」

「魔物でも女の子です! 見過ごすわけにはいきません!」

「青臭い野郎だ。ああ、さてはお前、童貞だな?」


 少年を馬鹿にするグンジョーの言葉に、他の三人も大笑いした。

 カアッ、と顔を赤くした少年は、冷やかしに耐えるように俯いた。


「大人しくしてりゃ、後でお前にも回してやるよ。魔物の生態調査なんぞよりも、よっぽど勉強になる。俺様の熟練の技を見て学ぶがいいぜ」


 得意気に言って、グンジョーが自分のズボンを下ろそうとする。

 その肩を、後ろから少年が掴んだ。


「おっしゃるとおり、僕は童貞ですが、それとこれとは関係ありません」


 グンジョーの顔から笑みが消えた。


「……どうしてもと言うから、盾くらいにはなるかと思って連れて来てやったが、ここまで歯向かわれると、別の形で教育してやらんといかんな」


 半脱ぎ腰パン状態のまま、グンジョーが立ち上がって少年に向き直った。


「あんまり言うことを聞かねえようなら、お前だけオークに殺されましたってことにしても、いいんだ、ぜっ!」


 グンジョーの拳が、少年の鳩尾に叩き込まれた。

 かはっ……と、肺の中から空気が漏れ出すような声を出した少年は、その一発で地面に両膝をつき、崩れ落ちてしまう。


「クソガキが。大人の楽しみを邪魔するんじゃねえよ!」


 さらに、グンジョーが少年の横腹を蹴りつけた。二度、三度と繰り返し。

 誰も止めようとしない。それどころか、いい気味だと言って唾を吐いている。


 倒れた少年は、グンジョーではなく、オレだけを見ていた。

 その目は、蹴られ続けている間も、他人の身を案じていた。


「に、逃げ……て……」


 かすれた声を残し、力尽きて気を失うまで。


「さてと、待たせたな、サキュバスのお嬢ちゃ――……」


 少年から振り返ったグンジョーの声が詰まり、表情が固まった。

 その視線はオレじゃなく、別の一点に注がれている。

 頭上に、男たちのものではない、大きな影が差した。


「……ごめん」


 オレは申し訳なく言った。

 ただ、オークの時とは違い、男たちに組み伏されても、恐怖心は無かった。

 勝手な話だけど、絶対に助けてくれると信じていたから。


「後で……ちゃんと謝るよ」


 影の主は、「モォ~ゥ」と嘆息するように鳴いた。

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