第8話 初めてだから優しくしてね
次にオークが顔を上げた瞬間、舌を噛み切ってやる。
オレの壮絶な死に様を、トラウマになるくらい目に焼き付けやがれ。
オークの体重が、完全に下半身へと移ってきた。
それと同時。
不意に、腕に圧し掛かっていた重みまでもが消えた。
何故かオークが、押さえつけていた両腕の拘束を解いたのだ。
どういうつもりか知らないけど、それならそれで、自決する前にブサイクな面を殴れるだけ殴りつけて、ちょっとでもマシに見えるよう整形してやる。
そう思い、左手をベッドについて上体を起こし、拳を作った右腕を振り被った。
そこで、息継ぎをするようにして顔を上げたオークと目が合った。
……え?
振り下ろそうとしていた拳を、オレは途中で止めた。
オークの目に、はっきりと困惑の色が浮かんでいたのだ。
ズリリ……。
と、オークの体がさらに下へ落ちた。
それはオークの意思ではなく、何か別の力で引っ張られていた。
何が起こっているのかわからない。そんな顔をしていたオークが後ろを向いた。
オレも、その視線を追った。
ごきゅり。
ごきゅり。
「フ……フォ、フゴ、フゴォオオオオオオオオオオオッ!?」
自身に起きている事態を知ったオークが、悲鳴とも取れる絶叫を轟かせた。
オレも、思わず口元を手で覆った。
「…………嘘、だろ」
信じられない、目を疑う光景がそこにあった。
ごきゅり。
ごきゅり。
食っていた。
オークの腰から下は、既に見えなくなっている。
食われていた。
オレにとって、絶対的な強者であったオークが。
ミノコに……食われていた。
ミノコの喉が波打つたびに、オークの巨体が少しずつ飲み込まれていく。
「顎の関節はどこいったんだよ……」
そういう次元の問題じゃないだろうと思いつつも、冷静さを保つために、そんなツッコミをした。限界以上に開いたミノコの口が、オークの下半身にかぶりついている様子は、まるで蛇が獲物を丸呑みにするかのようだ。
オークはオレから完全に剥がされ、ついにはベッドからも引きずり落とされた。
「フガッ、フゴゴォオォオ!!」
死に物狂いでベッドにしがみついているが、そんな抵抗はまるで意味を成さず、シーツをビリビリと破いてミノコに飲み込まれていく。
オレとオークの間に埋めがたい力の差があったように、
オークとミノコの間にも、生物として決定的な差があった。
「ミノタウロス……」
ミノコのパワーを目の当たりにしたオレは、自然とその名を呟いた。
「た、助けで、ぐレ!」
力で敵わないことを悟ったのか、オークがオレに助けを求めてきた。
ついさっきまであった、弱者をいたぶる余裕の表情は跡形もなく消えている。
この状況では、オークこそが弱者であり、被食者だった。
「頼ム! やめサせでぐヘ! もうジナイ! ジナイがらあああああ!!」
オークは恥も外聞も投げ捨て、必死に訴えかけてくる。
その無様な姿を見ていると、ふつふつと、自分への怒りが湧き上がってきた。
こんな情けない奴に、いいようにされていたのか。
「やめさせてくれ、か」
オレは、ゆっくりとベッドの上で立ち上がった。
オレが命じれば、ミノコは捕食をやめるかもしれない。
でも、それは虫が良すぎる話じゃないか。
「お前は、オレがやめてくれって言っても、やめるつもりはなかったんだよな?」
その台詞が死刑宣告にでも聞こえたのか、オークの瞳から光が消えた。
絶望を感じた時、表情豊かな動物はこんな顔をするんだろう。
「ゆ、許しで……。ゴベン、ナザイ」
もう肩から上しか見えていないオークは、それでも懇願を続けた。
哀れに思う気持ちが全く無いわけじゃない。
「もっと、よく顔を見せて」
本当に反省しているのか、根っからの悪人かどうかは、目を見ればわかる。
図体に似合わず、顔を上げたオークは目に涙を浮かべていた。
生きるために、仕方なく食料を奪った。
その際に、勢い余って人を
罪であることには違いないけど、そういう理由なら、オレは目を瞑るだろう。
では、このオークはどうか。
オレは膝を曲げ、ベッドから飛び降りるようにしてジャンプした。
こいつは奪いたいから奪い、殺したいから殺した。
そして、凌辱したいからオレに襲いかかってきた。
そんな奴を、
「誰が許すか、この強姦魔がッ!!」
「ンブッフ!?」
情状酌量の余地ナシだ。狙いやすいよう、自ら持ち上げさせたオークの顔面へ、オレは全体重を乗せた渾身の飛び蹴りを浴びせた。
ぐしゃり、と鈍い音がする。
「女を力ずくで犯そうなんてクソ野郎は、そのままケツから牛に食われてしまえ!!」
ちゅるん。
オークの最期は呆気なく、うどんでもすするように口内へ吸い込まれていった。
床に着地したオレは、その場で腰が抜けたように倒れそうになる。
正面からミノコの首に寄りかかることで、かろうじて転倒を免れた。
「モゲェェップ」
ぱんぱんに腹を膨らませたミノコが、特大のげっぷをした。
「……あんなのを食って、腹を壊すんじゃないか?」
食べ方も凄まじかったけど、あれだけのサイズが腹に収まるなんて。
本当に胃袋が四次元になっているんだな。
横腹をさすってやると、ミノコが「モ~ゥ」と不満げな声を出した。
「不味かったって? そりゃそうだ」
苦笑し、そこでオレは口を閉ざした。
小屋の中に静寂が訪れる。
もう大丈夫。
もうオークはいない。
それを実感できるようになるまで、オレはミノコに抱きついていた。
やがて、張り詰めていた緊張の糸が切れた。
「…………ひ、ぐ……ふぐぅぅ……」
感情の抑えが利かなくなり、嗚咽が漏れ出してしまう。
死ぬほど怖かった。比喩でもなんでもなく、死ぬつもりだった。
でも、初めてだ。
初めて、強い自分に変われた気がした。
「オレ……少しは頑張れたかな……」
どれくらいそうしていただろうか。
オレが落ち着くのを待ってくれているのか、ミノコは身動き一つしなかった。
ぐいっと腕で目尻を拭い、ミノコから体を離した。
「助けてくれて、ありがとな」
命の恩人。恩牛? なんにせよ、感謝の気持ちでいっぱいだ。
お礼を言うと、ミノコがペロリとオレの頬を舐めた。
気にするな。無理するな。
言葉にせずとも、そう言ってくれているのが伝わってきた。
「モゥン」
「え、マジで?」
ミノコがオレに体の側面を向け、「今なら乳出るよ」と言った。
心が通じ合った証拠だろうか。なんかもう、ミノコの言葉がはっきりわかるようになっている。
「し、搾っていいか?」
「ンモォ~ン」
ミノコも少しは緊張しているのか、「初めてだから優しくしてね」と鳴いた声は、なんとなく艶めかしかった。
オレは、おっかなビックリ、乳房の一つに手を伸ばした。
慎重に握り方を確認しながら、一搾り。
ドブシュッ、と水鉄砲のように勢いよく乳が出て、板張りの床を打った。
驚いた。一回で出る量が、昔牧場で体験した時とは段違いに多い。
「ちょっと待ってて! 容器を探してくるから!」
食器棚の中に、木で作られたジョッキを見つけた。
転生支援課の職員が、牛乳で栄養を賄おうとしたら、一日に500mlは飲まなきゃいけないと言っていた。このジョッキなら、ちょうどそれくらい入る。
ジョッキに息を吹きかけて埃を落とし、ミノコの腹の下にセットする。
「改めまして、いきます」
ブシュッ! ブシュシュッ! ブシューッ!
たった三回搾っただけで、ジョッキから零れそうなくらいなみなみになった。
殺菌処理ナシだと、搾り立ては腹を壊すかもしれないと聞いたことがある。
けど、今はそんな悠長なことを言っていられる状況じゃない。
搾った乳の色と液体の揺れ具合からして、相当な濃さであることがうかがえる。
鼻を近づけても、牛乳特有の臭みはほとんどない。
ぺろりと液面を舐めてみた。
「ちょっとだけ甘い、かな」
ミノコには失礼な話だけど、舐めた瞬間、舌が痺れるとか、「うっ……ガハッ!」みたいなサスペンス展開も、少しだけ心配した。だって普通の牛じゃないですし、腹を膨らませたのが、緑色のクソ野郎なわけですし。
でも、これなら問題無く飲めそうだ。
今度は舐めるだけじゃなく、ジョッキを傾けて口いっぱいに牛乳を流し込んだ。ごくりと喉を通すと、リンゴを食べた時とは違う、飲み込んだ物が確かに胃袋へと下りてくる感覚があった。
それだけじゃない。これは……ッ。
オレはジョッキから口を離すことなく、残りをあおっていった。
くぴ、くぴ、くぴ。
見た目以上に濃い。飲んでいるのに、食べていると言っても過言じゃない食感がある。胸を打つほどの濃厚さが、口も食道も胃も、全て白く染めていくイメージが脳裏に浮かんだ。
ごきゅ、ごきゅ、ごきゅごきゅごきゅごきゅごきゅん。
中身を一気に飲み干し、空になったジョッキで、ダンッ! と床を叩いた。
「ぷはっ! 美味い!! 何コレ、すっげえ美味いんですけど!?」
ボキャブラリーが貧困なので、それ以外に表しようがなかった。
とてつもない充足感だった。この一杯だけで、牛乳という飲料が、自分にとって生きていく上で必要不可欠な食材なのだという確信を得るほどに。
とにかく、伝わってくる味の強さが凄い。深いコクと旨味が、これでもかと舌を刺激してくるのだ。今まで飲んでいた牛乳が、ただの水道水に思えてしまう。
「もう一杯! もう一杯いいかな!?」
オレはいそいそと、おかわりをジョッキに注いでいった。
乳を搾ると、ミノコも気持ち良さそうにしていた。
ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ。
ああ、幸せ。
腹を満たすという行為が、こんなにも至福だったなんて。
このままでも最高に美味いけど、例えばこれをキンキンに冷やして、風呂上がりに飲んだりしたら、いったいどこまで美味さが跳ね上がるんだろう。
調子に乗って三回もおかわりをした。
「おぅぅ……けぷ。もう飲めない……」
ミノコの乳はまだまだ出そうだけど、さすがにこれ以上は無理だ。腹が重くて、動くとちゃぷちゃぷ音がする。
そして、大量の水分を摂取したことにより、当然の自然現象に見舞われた。
「やべ、漏れそう」
トイレ、トイレ。人が住んでいた小屋だし、あるはずだ。
小屋の中を裸足で調べて回ると、オークが食料を取って来た辺りに、もう一つ扉があった。カラカラと扉を横にスライドさせると、和式の便器を発見した。
「あー、やっぱり水洗式とはいかないか。森の中だし、仕方ないよな」
幸い、異臭はしなかった。小屋の散らかり具合を見るに、オークが潔癖症というよりは、便器のサイズが合わなくて使用されていなかったんだろう。
「なんにせよ、一難去って、腹も膨れて、ようやく人心地がついた感じだな」
森を抜ける道はわからずじまいだけど。
オレは立ったまま、ワンピースのスカートを捲り上げた。
「あれ?」
いつもどおりに構えようとするが、掴める物が何も無かった。ナニが無かった。
「ゲッ、そうだった」
牛乳の味に感動して、とうにムスコと別れを告げていたことを綺麗さっぱり忘れ去っていた。完全にスタンバイしていたので、もう止められない。
犬が電柱にするみたいに片足を上げたりしてみるが、正確に的を狙えているのかすらわからない。その間にも尿意は押し寄せる。
「ちょ、これ、どうすれば!? ダメだ、ダメだ、待って、ダメダメ、ダメだってばホギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
とりあえず、しゃがめよ。
それに気づいた時には、尿意はすっかり消えていた。
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