第5話 フラグ回収は迅速に

 股間のムスコが旅立ったと言っても、その跡地は具体的にどうなっているのか。

 確認するのが怖い。

 だから、今は確認しない。

 幸い、生理現象は催していないし。


「そうさ。まだ慌てるような時間じゃない。焦ることなんて全然ないない」


 問題を先延ばしにしているだけだと罵りたければ罵るがいい。

 心の準備期間っていうのは必要なんだよ。


 ともあれ森の中だ。

 ジャングルみたいに鬱蒼うっそうとした窮屈さはなく、胸のすくような清涼感があった。

 足場は苔し、生い茂る樹木も緑一色だけど、樹木の間から零れてくる柔らかい木漏れ日が色の濃淡を演出していて、妖精が住んでいるとしても不思議じゃない。そんな幻想的な光景を作り出している。

 ミノコの背中で大きく伸びをし、物静かで、しっとりとした森の空気を肺一杯に吸い込んでみた。……美味い。体内の淀みが一気に抜け落ちていくかのようだ。

 とはいえ、深呼吸で腹は膨れない。


「【ルブブの森】だっけ。腐海の森って感じじゃないけど、下手に歩き回っても遭難するだけだろうし。というか、既に遭難してると言えなくもないのか」


 さて困ったぞ。

 近くに川でもあれば、とりあえず喉の渇きだけでも潤せるんだけど、それを探し当てるサバイバル知識なんて、オレには無い。自力で火をおこすことすらできない生粋の現代っ子だ。

 いきなりの手詰まりに唸っていると、ふと、牧場体験で、園長さんが牛の特性について語っていたのを思い出した。


『鼻がいい動物と言えば犬を思い浮かべるだろうけど、実は牛も嗅覚が鋭いんだ。匂いにとてもデリケートな生き物で、エサが臭いと食べてくれなくてね。その点、人間は臭い食べ物が好きだよね。チーズとか、納豆とか、OLが丸一日穿いていたストッキングとか。え? 最後のはオジサンだけだって? いやいや、これが意外といるんだなあ』


 あの牧場、ニュースになった記憶はないけど、今も経営しているんだろうか。

 余計なことまで思い出してしまったが、どうやら牛の嗅覚は、人間よりもずっと優れているらしい。それなら闇雲に散策するより、進路はミノコに任せてしまった方が賢明かもしれない。どうせ、もう迷子も同然なんだし。


「ミノコの好きに動いていいぞ。果物の匂いとか、お前の鼻で探してみてくれ」

「ンンモォ~」


 言葉が通じる前提で、普通に話しかけてしまった。

 早くも自分の中にある常識のかせが外れそうになってきている兆候だろうか。

 でも、本当に通じているんじゃないだろうか。

 オレには、ミノコが気怠そうに、「仕方ないなあ」と返事をしたように聞こえた。

 ミノコが、のっし、のっし、と歩き出す。


「はは、熊に跨った金太郎にでもなった気分だ」


 まさしく牛歩の速度だけど、手綱やあぶみが付いているわけじゃないから、走ったら振り落とされてしまうだろう。これくらいがちょうどいい。


 それにしても、と思う。

 一見、早朝のジョギングコースにしたいくらい爽やかな森なのに。


「迷い込めば、生存率50%未満の森か」


 原因として考えられるのは、やっぱオークだよな。オレが想像しているとおりのモンスターだとすれば、こんな細腕ではひとたまりもない。野犬一匹にだって負けそうだ。 遭遇しないことを祈るしかないな。


「なんとか人のいる町を探すなりして、安全な居住地を確保しないと」


 社会の歯車から解き放たれたいとか、ナメたことを言ってられる状況じゃない。漫画もゲームもネットも諦めるから、衣食住のある文明人らしい生活がしたい。

 そこに辿り着くまでの課題が多すぎて、頭が痛くなってくる。


「ん、なんだ?」


 かしかしと頭を掻いていると、指が何か硬い物に引っ掛かった。

 これって。

 えー。げー。うわー。


つの、生えてる」


 ミノコと同じ。と言っても、たけのこの里くらい小さいけど、左右のこめかみの少し上に一つずつ、人間であれば絶対に存在しない物が突き出ていた。

 そっかー。

 オレはとうとう、男でも、日本人でも、そして人間でもなくなったのか。


 …………まあ。


「胸に比べたら、それほどショックでもないな」


 むしろ、角ってカッコ良くない? 爪みたいに伸びてきたりするんだろうか。


「へへ、ミノコとお揃いだな」


 スン、スン、とミノコは鼻をヒクつかせるだけで、特に感想は無いようだ。

 そんな感じで、角については、わりとあっさり受け入れられた。

 他にも何かあるだろうか。

 鏡が無いので、見えない部分はぺたぺたと手で触れて確認していくしかない。

 目と耳と鼻と口は、以前と数も位置も同じ。パーツにおかしなところはない。

 第三の眼が額に――。

 とか、ちょっとドキドキしたけど、そんな物は無かった。

 でも手探りじゃ、どんな顔つきをしているのかまではわからない。

 カッコイイ系とか、もう高望みはしない。

 だからせめて、人里に下りても違和感が無い程度に普通であってください。


「あ」


 考えてる間に、人間とは違うところを、もう一個発見。

 背中に何かついてる。

 強引に首を後ろへ捻ると、肩甲骨の辺りに黒い物が見えた。


「これは、羽かな」


 ……………………え、羽?

 鳥みたいな羽毛じゃなくて、蝙蝠のような翼だ。

 翼があるってことは、まさか。


 そうだよ。淫乱なイメージが先行して忘れてたけど、サキュバスは飛べるんだ。

 じゃあ、オレも? オレも大空を自由に飛び回れちゃうの!?

 ドラゴンじゃないけど、飛行能力なら大大大歓迎なんですけど!!

 果てしなく膨らんでいくロマンに輝く目で、もう一度背中の翼を見た。

 そして、すぐに落胆した。


「あー」


 …………これは、ちょっと無理かな。

 角もそうだけど、ちんまい。

 肩幅よりも小さく、とても自重を浮かせられそうにない。

 試しに肩に力を入れると、ピコピコと翼を動かすことができた。

 でも、飛べそうな気配は全くなかった。


「飛べないなら、翼なんてあっても邪魔にしかならないっての……」


 一瞬でも夢を見た分、がっかり感もひとしおだ。

 ぐでーっと、ミノコを抱き締めるようにしてうつ伏せになると、胸が圧迫されて苦しかったので、余計に気が沈んだ。


 そこから、体感で一時間くらい歩き回っただろうか。

 のんびりした散歩も悪くなかったけど、収穫は何も無かった。

 収穫は何も無かった。食べ物も、人工的な道も見つからない。時折、地面に生えている草木にミノコが鼻を近づけたりはしていたが、一度も何かを食んだりはしなかった。


「うー、腹減った……。天逸てんいちのラーメン食いたい……」


 そういや、食べてる途中で死んだんだっけか。

 最後の晩餐くらい、ごちそうさまをするまで待ってほしかった。


「ミノコ、オレに気を遣わなくてもいいからな。食べられそうな物があったら食べちゃえよ。お前の腹が膨れてくれないと、オレも……て、どうした?」


 ミノコの耳がピンと立ち、足を止めて顔を真横に向けた。

 つられて、オレもそちらに目をやった。


 ガサガサ。


 風もないのに草葉の動く音がした。

 次の瞬間、体中から、ドッと汗が吹き出した。

 密集した樹木の向こうから、ゴフッ、と何者かの荒い息遣いが聞こえたのだ。


 近づいてくる。

 狼の遠吠えに羊が怯えるように、本能が警鐘を鳴らしている。

 やって来るのは、リスやウサギみたいな小動物じゃない。

 生物として、自分よりも圧倒的に強大な何かだ。


「勘弁してくれよ……」


 茂みを掻き分けて現れたのは、森の中では保護色になる緑色の太い腕だった。

 人間の首くらいなら、簡単にへし折ってしまえるだろう大きな手が、樹木の幹を掴み、バキッ、と抉り取った。


「――――っ!?」


 そのアクションだけで、心臓が止まりそうになった。

 オレは今、心底ビビってる。

 向こうの世界にだって、熊だとか、虎だとか、自分の力が絶対に及ばない動物は存在した。だけどこんな風に、檻を隔てるでもなく正面から相対したことなんて、ただの一度だってない。だから、全身を射竦める本物の恐怖というものに、オレは生まれて初めて直面している。


「ゴフゥッ……グフゥ……」


 白い息を吐きながら、ヌゥ、とそいつは顔を出した。

 目に映る威容に気圧され、オレは瞬きどころか、冗談抜きで呼吸を忘れた。

 巨漢も巨漢。ミノコに乗っているオレと、目線がほぼ同じ高さにある。

 腕と同様に、禿頭に至るまで全身が緑色。眼光は鋭く、牙は口内に収まらない。温厚な性格を微塵も期待できない、凶悪極まりない形相。

 身に着けているのは、動物の皮で作ったと思われるボロボロの腰巻のみ。人間のプロレスラーが、スレンダーに思える胸厚な上半身は、見せつけるようにして外気に晒されている。

 どうしてくれるんだよ。マジで遭遇しちゃったじゃないか。


「ゴッフ……グゥフフゥ……」


 獲物を見つけたことを喜ぶように、現れた怪物が口の端を吊り上げた。

 ああ……終わった。あの職員、恨んでやる。

 やり直したばかりの人生なのに、もう幕を下ろすことになりそうだ。

 父さん、母さん、先立った先で、息子がさらに先立つ不孝をお許しください。


 あれがオークだという確証はないけど、まあ、オークだろう。

 漫画やゲームだと豚面で描かれたりもするけど、この世界のオークは鬼みたいな顔立ちをしていた。

 強面なのはともかく、豚よりは多少なりとも人間に近いと言えなくもない。

 案外、世間話が好きで、気さくな性格をしていたりなんてことは。


 ない、だろうな。完全に捕食者の目をしていらっしゃる。

 どうにも、頭が全力で現実逃避したがっているらしい。


「ゴフゥゥ…………――――グフォッ!?」


 自分の最期が頭にチラつく中、対峙していたオークが突然、喉を詰まらせたみたいな声を出し、逃げるようにして後方に飛びすさった。

 何事かと思いきや、距離を取ったオークは、剥き出しになっている牙をギリギリと擦り鳴らし、喉を唸らせて警戒心を露わにした。

 チワワの如く脅えきったオレのどこに敵意を感じたというのか

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