第4話 今までありがとう。そしてさようなら
中学まではよかった。
だけど高校は学力的な違いもあって、拓斗とは別々になった。
入学してソッコーでイジメの標的になり、ごくごく自然な流れで引きこもった。
自分でも驚きの早さだった。
ただ、不登校になって引きこもったおかげで、自分を見つめ直す時間ができた。
オレの人生、これでいいのか? そう自問することが増えた。
学校が別れても、オレが引きこもっても、拓斗は変わらず友達でいてくれる。
通信教育って手もあるし、無理に登校する必要はないと親も言ってくれている。
だけど、このままではいけないという思いは強くなっていった。
弱い自分を変えたい。助けられてばかりの自分を変えたい。
だからオレは決心した。
来世で頑張ろう。
ダイエットは明日から、的な意味で。
もしかして、自殺するとでも思われただろうか。
いや、そんな勇気は無い。
もしくは、明日からは無理でも、せめて来週から頑張れよと思われただろうか。
いやいや、それができるような奴は、そもそも引きこもったりしない。
というわけで、生まれ変わりが本当にあったらいいなと思っていた。
あとできれば、こことは違うファンタジーな世界で生まれ変わりたい。
人間に生まれ変わると、どうしたって、人の作ったコミュニティーに属さないといけなくなる。それはもういい。現世だけで十分だ。
オレは、社会の歯車から解き放たれたい。
それを考えると、やっぱドラゴンとかベストだと思うわけですよ。
空を飛べるタイプだと、なお良し。
誰憚ることなく大地を闊歩し、自由気ままに空の旅を謳歌する。
そんな異世界ライフに憧れていた。
引きこもって、早一年。
オレは自分を変えようと努力することもなく。
親に甘え、友人に甘え、生産性のない空想に明け暮れていた。
来る日も、来る日も。
まさか本当に異世界で生まれ変わるなんて、思いもしていなかったから。
…………朝か。
閉じた目蓋に差す日の光が、目覚まし時計に代わって早く起きろと言っている。
だがしかし、引きこもりの生活リズムと太陽の傾きには、なんの関係性もない。
よって二度寝する。
目を閉じたまま、まどろみに身を委ねていると、
もふもふ。
うつ伏せの状態で身を
その感触が心地良くて、オレはぐりぐりと顔を押しつけた。
んう……気持ちいいんだけど、どことなく獣臭い気が。
「ンモォォ~」
「わひゃあ!?」
腹の奥まで響く重い音がしたかと思えば、音を発した何か、おそらく生き物が、くすぐったいとでも言うように、ブルルと身を震わせた。
振り落とされたオレは、ろくに受け身も取れず、尻を地面に打ちつけた。
強烈に痛い。ベッドから落ちたとは思えない痛みだ。
チカチカと視界に星が飛ぶ。一発で目が覚めた。
開いた目に飛び込んできたのは、白黒の斑模様だった。
もう少し引いて全体を見てみると、それは四足歩行で、尻には垂れ下がった筆のような尻尾が揺れていた。その反対側には、ニョキッ二本のツノがそそり立っている。
……牛だ。
これぞTHE・牛とでも言わんばかりの立派なホルスタイン牛が、穢れを知らない瞳でオレを見下ろしている。
どうやらオレは、ベッドじゃなくて、こいつの背中で眠っていたらしい。
周囲を見渡してみると、人の手が一切入っていなさそうな、自然そのものの森が広がっていた。ここが自分の部屋じゃないことは、疑いようがない。
ああ、全部思い出した。
本当に……来ちゃったのか。
――――異世界。
ていうか。
ていうかね。
何? さっきのめちゃくちゃ可愛い声。
オレと牛以外にも誰かいるのか?
それとも、まさか。
いや、さすがにそんなことありえないって。うん、ないない。
ありえないけど、一応確かめてみるぞ?
ごくりと息を呑み、オレは渇いた喉を湿らせた。
「…………………ォ…………オッス、オラ利一(りいち)」
オレの声でしたあああああああああああああああああああああああ!!
尻の痛みに続き、今度は羞恥による悶絶で、オレは地面を転げ回った。
こんなにも可愛らしい声が自分から出てきたのかと思うと、ただただ不気味で、キモくて、全身に鳥肌が立ちまくった。
いる。いるよ、こういう声。
おっとりゆるふわ天然系ポジションが似合いそうなアニメのヒロインキャラに。
他人の声として聞くだけなら嫌いじゃない。むしろ大好きだ。
声だけで好感度が五割増しになるくらい。
でも、でもでもでも。
自分の声がそうなるのは違うんだよ。ありがたみなんて全然ないんだよ。
「ないわぁ……。ありえないわぁ……」
嘆き悲しむ声でさえ、どこまでも可愛らしかった。
地面に手をついて打ちひしがれていると、新たなショックを見つけた。
変わり果てた自分の手だ。
白くて、小さくて、指も手首も二の腕も、簡単に折れそうなくらい細い。
「これが、オレの手?」
握ったり、開いたり、陽光にかざしてみたりしても、そこにあるのは見慣れない細腕で、どう見ても男のそれじゃない。元々ごつごつした感じではなかったけど、ここまで変化してしまったなら、完全に別物だ。
なんとなしに、二の腕の肉を指で摘まんでみた。
プニップニだった。
ムニッムニだった。
「勘弁してくれぇぇ」
拓斗みたいな体つきに憧れていた。見かけはスラリとしているのに、服の下には引き締まった筋肉質なボディーを隠しているのだ。あまりにも羨ましかったので、密かに腕立て伏せと腹筋を日課にしていた。成果はともかく、我ながら健康的な引きこもりだった。
そんな努力を嘲笑うかのように、見事なまでの柔肌になってしまっている。
「ちくしょう……。ちくしょう……」
心に深刻なダメージを負いながらも、よろよろとふらつきながら立ち上がった。
立ち上がったのに、地面が近くに感じる。
実際、いくらか近くなっている。以前の身長も160cmと、平均より低いものではあったけど、そこからさらに5~6cmは縮んでいそうだ。
「背は……せめて身長だけは、残しておいてほしかった……」
個人差はあれど、筋肉は頑張れば手に入る。だけど身長は……。
さめざめと泣き入っていると、牛が「ンモォ~」と低い声で鳴いた。
どことなく、「どうした?」と心配そうに尋ねられている気がしなくもない。
「お前、でっかいなあ……」
牛の背中が、ちょうど目の高さにある。肉付きもガッシリとしていて、溢れ出る野生の力強さが見て取れる。
なんてこった。牛相手に、本気で羨ましがっている自分がいる。
「オレは縮んじゃったよ。何もか……もぇ?」
例外発見。
がっくりと項垂れたことで、それに気づいてしまった。
「なん、じゃ、こりゃ」
縮むどころか、大幅に膨張した部分が一ヵ所だけあった。
服装は、肩剥き出しのノースリーブで、膝下まで丈のある、白いワンピース姿になっていた。靴は履いていない。格好については、もうツッコむ気にもなれない。スッポンポンで放り出されなかっただけマシだと思うことにする。
それよりも問題なのは、白い布地を山のように盛り上げている二つの物体だ。
どうして最初に気づかなかったんだというくらい、存在感がハンパない。
「……胸、なのか?」
疑わずにはいられない。
だって、山が邪魔になって、真っ直ぐ立つと、足の爪先が見えないんですけど?
え? どんだけ?
オレは産まれたばかりの赤ん坊に触れるように、布越しにそーっと、そーっと、両手で慎重に、膨らみを下から持ち上げてみた。
「うひぁ……」
触れた瞬間、ピリッと電気が走った。
今まで存在していなかった部位に備わる感覚がこそばゆい。
指に伝わる感触は、とにかく柔らかく、ズシリと重い。肉に沈む指を押し返そうとする張りのある弾力は、確かに自分の体の一部であることを主張していた。
「これ、何カップあるんだよ」
高校に入学してすぐ引きこもったからよく覚えてないけど、少なくとも同学年の女子で、こんなに胸の大きな子はいなかったように思う。
今のオレの体格は、女子の平均と比べても小柄な方だろうに、胸だけ不釣り合いなくらい大きい。
オレだって思春期の男子だ。人より少しだけ淡泊かもしれないけど、枯れているなんてことは絶対にない。胸の大きな女性が歩いていれば、つい目が行ってしまうし、見られるものなら生で見たい。触れるものなら触ってみたい。
だけど。だけどな。何度も言うけど、これじゃ意味がないんだ。
声と同じだよ。どれだけ大きな胸だとしても、それが自分に付いているんじゃ、なんの嬉しさも湧き上がってこない。それどころか、ただひたすら違和感と嫌悪感しかない。
人生で初めて触った【おっぱい】が自前とか。
「ふぐぅぅ、でかいよぉぉ……。巨乳だよぉぉ……」
本気で涙出てきた。
本当に、本当に、こんな右も左もわからない世界で女になっちゃったのかよ。
髪もいくらか伸びており、さっきから首を動かす度、毛先に肩をくすぐられる。お世辞にもショートカットとは言えない長さだ。
そして元の黒髪は、欧米人でも見られないくらい澄んだ黄金色に変わっている。
「オレは、日本人ですらなくなったのか……」
不安と心細さでマジ泣きしていると、ざらざらした物が頬を撫でた。
牛が、オレの顔をぺろっと舐めたのだ。
「……慰めてくれてるのか?」
いや別に? とでも言っていそうな屈託のない顔が、なんだかおかしかった。
オレから触れても大丈夫なのかな。
「噛んだり、しないよな」
そっと、オレは牛の額を撫でた。牛は目をつむり、じっとしている。
「あは……。よろしくな。オレ、
力なく挨拶すると、ほんの少しだけ、心細さがまぎれてくれた気がした。
「そうだ。名前、つけてやらないとな」
確か、ミノタウロスがベースになってるんだっけ。
乳牛なんだし、
腰を屈めて牛の腹を覗き込むと、でっぷりとした乳房がついていた。
おお、さすがは乳牛だ。オレの胸なんて足下にも及ばない。
「だから、なんで牛と比べてるんだよぉぉ」
一瞬喜んでしまった自分が情けない。
「……
自分でも安直だと思うけど、名前なんて必要以上にキラキラさせない方がいい。呼びやすさと覚えやすさ。牝なら、そこに少しの愛嬌が加わればそれでいい。
これから、このミノコと暮らしていくことになるわけだが。
ここがどういう世界なのかとか、知らなきゃいけないことは山ほどある。
でも、何よりも優先して確認しなければいけないのが、牛乳を飲まないとオレは生きていけないって話だ。
牛乳だけを飲んでいれば生きていけるのか。
人間同様、炭水化物、たんぱく質、脂質といった栄養も摂る必要があるのか。
「命に関わることなんだから、もっと詳しく教えてほしかったよな」
あの職員のことを思い出すと、また苛立ちが再燃焼してきた。
「会ったばかりで、いきなりこんなこと言うのもどうかと思うんだけど、ちょっとだけ、ミノコのおっぱいをしぼってみてもいいかな?」
「ンモォ」
ちょっとだけよ。と言われた気がした。
オレはミノコの側面で膝をつき、四つある乳首の一つに手を伸ばした。
小学校の遠足だったかな。牧場見学をした。そこで一度だけ、乳しぼりを体験したことがあるので、要領はなんとなく覚えている。
こんなところで役に立つなんて、なんでも経験しておくもんだな。
「えっと、最初の一、二しぼりは細菌の心配があるから、捨てた方がいいんだっけ」
手順を思い出しながら、まず、親指と人差し指で乳頭の付け根を押さえて、乳が逆流しないようにする。
次に、中指、薬指、小指と、上から順番に指を閉じていく。
そうして、下に引っ張り出すようにして乳をしぼり出す、と。
これで問題無いはずなんだけど。
「え、なんで? なんで出ないんだ?」
肝心の乳が一滴も出ない。オレのやり方が間違っているのか?
だけど、あの時は一発で上手くできたし、牧場の園長さんにも筋がいいと褒められた記憶がある。何か見落としているんだ。
もっとだ。もっとよく、園長さんの言葉を思い出せ。
『ボク、いい手つきだねえ。上手だねえ。そうそう、上下に優しくしごくんだよ。先生には内緒で、後でオジサンのもお願いしちゃおうかな、なんてね。ほらほら、牛さんのミルクがピュッ、ピュッて出てきたよ。牛さんから出たばかりのミルクは無菌だから、そのままでも飲めるんだ。さ、オジサンが隣で見ていてあげるから、しぼり立てのミルクを上目遣いでゴックンしてみようか』
あれ? 犯罪者じゃん。
当時は熱心な搾乳指導で感心されていたような気がするけど、今にして思えば、やたらと息が荒く、子供――特に少年を見る目が血走っていたような。
「…………深く……考えないようにしよう」
今となっては、考えても詮無きことだ。
ゴギュルルゥゥ~~~~。
乳が出ない原因に頭を働かせていると、体の中に雷様でも住んでいらっしゃるのかと思うほど豪快な音が、ミノコの腹から聞こえてきた。
「あ、そういうことか。生まれてから、まだ何も食べてないんだもんな。それじゃ乳だって出るわけないか」
そう言うオレの腹からも、キュゥ、と文鳥の鳴き声みたいな音が鳴った。
腹の音まで可愛すぎて、オレは膝を抱えたくなった。
「こんな情けない姿、拓斗に見られたら、大爆笑されるな……」
親友の名前を口に出すと、ぎゅっと胸が締めつけられた。
来てくれたら心強い。でもそれは、生と死の狭間で今も頑張っているあいつに、早く死ねと言っているのも同じだ。そんな身勝手なこと、どんな理由があろうとも考えてたまるか。
生まれ変わったら頑張る。前世で自分が立てた誓いだ。
「今度こそ、強くなってやるッ」
もし拓斗がこの世界に来るようなことがあれば、オレが助けてやれるくらいに。
くよくよしていたって仕方ない。
異世界ライフは、とっくに始まっているんだから。
「おし。まずは何か食える物を探すか。森の中だし、果物か木の実なら見つかるかもな」
変態職員が、なんでも食えるようにしておくみたいなことを言ってたけど、ミノコだって、どうせなら美味しい物を食べたいだろう。
よしよしと頭を撫でてやると、ミノコが後ろ脚を曲げて、体を低くした。
「もしかして、乗れって言ってるのか?」
ミノコは尻尾を、ぷらん、ぷらん、と振り子みたいに左右に振った。
特別だぞ。そう言っているように思えた。
「じゃあ、遠慮なく」
ありがたい。裸足で森の中を歩くのは辛いと思ってたんだ。
オレは高鳴る気持ちで、ミノコの背中に飛び乗った。
今の動きで、胸がブルンと揺れた。ちょっと痛かった。
尻の位置を調節してバランスを整えると、ミノコがゆっくりと立ち上がった。
「うは、たっけー」
目線の高さが2メートルを超えた。さっきは意識がなかったし、振り落とされたから楽しむどころじゃなかったけど、動物の背中に乗るという体験は、否応なしにテンションが上がる。
ただ、ミノコに跨った時、新たに気になったことがある。
そんな大層なことじゃないんだけど。
ホント大したことじゃないんだけど。
念のため、服の上から自分の尻をさすってみて、それを確認した。
うん、やっぱりそうだ。
「これ……パンツ穿いてない」
正真正銘、身に着けているのはワンピース一枚だけだった。
いや、いいんだ。これに関しては、むしろホッとしている。
もし、女体への覚悟もままならぬうちから女性用下着をつけさせられていたら、オレの中の自尊心的な何かが、きっと耐え切れずに崩壊していただろう。
あと、胸のインパクトに気を取られていたけど、もっともっと、もーっと深刻なことがオレの体に起こっていた。
そうだよな。女になるって、そういうことだよな。
はっきりと触ったり、見たりはしていないけど、間違いなさそうだ。
だって、なんかスースーするもの。絶対的に股間が頼りないもの。
想像すると、また泣きそうになったが、強くなると決めたばかりだ。
だから、涙の代わりに感謝の言葉を贈ろう。
17年間、ありがとう。
そして、さようなら。
オレは上を向いて涙を飲み込み、長年寄り添ったムスコに別れを告げた。
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