7-3:灼熱カレーライス!

 私の横を、誰かが駆け抜けた。

 待てっと誰かが鋭く言う。

 どさり、と音がした。

 そちらに目をやると、コンクリートの壁際で、男性がゆっくりと起き上がるところだった。バランスを崩して、頭を打ち付けながら、手を使わずに起き上がろうともがいている。

 反対車線との間には壁があって、そちらは見えないが、くぐもったどさりどさりという音が聞こえるので、同じような状況に違いない。


 どさりどさりどさりと、ゾンビが降ってくる。


 前に落ちたゾンビの上に落ち、転がって車の下に滑り込んだやつが、唸って暴れて、車がギシギシと揺れ動く。


 私は、車の中に入れと叫んでいた。

 勇気を振り絞ったとか、そういう事じゃない。ただ単に麻痺した自分を動かす為の、呟きのつもりだった。だが、次々と車のドアが開く音が響いた。私も手近にあった車に乗り込むと、ロックをかけ、姿勢を低くした。


 どさりどさりという音が、どさどさという大きな連続音になった。

 な、なんだそりゃ!? ――まさか、全部降りて来てるのか。


 足音がし始める。


 大勢だ。


 革靴、ヒール、運動靴、そして裸足のぺたぺたという音が、徐々に近くなってくる。

 私はドアのロックがかかっていることを再確認し、体を捻って後部座席を覗いた。

 窓はぴったり閉まっていて、後も開いていない。

 よし、とりあえずは――姿勢を戻した私は、悲鳴を上げた。

 私がいる助手席側の窓の向こうに、ゾンビが五体いた。全員が中を覗き込んでいる。

 金縛りにあった私を見つめながら、ゾンビ達は窓やドアに手を伸ばした。ガラスや車体を撫でる音が嫌でも耳に入ってくる。

 ごつっという音に、私はまた小さく悲鳴を上げた。

 ゾンビ達が窓を叩き始めていた。いや、叩くというよりも、『手をぶつけている』と言った方が良い無造作な行動だった。窓が揺れ、血と油が混じったような液体がこびりつく。

 運転席側の窓も叩かれ始めた。フロントガラスの向こうでは、ボンネットに手を這わせるゾンビ達が、どんどん増えていく。

 車の透間を縫って、ゾンビはトンネルに溢れかえっているのだ。

 ばたん、と音がした。

 ゾンビの何体かが、右を向いた。

 一人の男性が、車の上をジャンプしながら進んでいた。

 ボンネットに群がるゾンビの手前でジャンプして、次の車のトランクに飛び移り、屋根に上がると、辺りを見回して、飛び移れそうな車両を探している。

 ゾンビ達が唸りながら、私の車から離れ、そちらに向かった。衣擦れの音が延々と続く。


 男性の目の前には、ジープが立ちふさがった。左右には軽自動車。どれも飛び移るには形が不安定すぎる。

 男性の乗った車の周りに、ゾンビが雲霞のごとく群がり、車体に体をぶつけ始めた。


 あのまま――あのまま立っていれば、あいつらは手出しができない、はずだ……。


 しかし、男性はあきらかに狼狽えていた。

 あちこちに目をやり、手を握っては開くのを繰り返している。

 まさか、とは思うが、強引に飛び移るなんてことは――


 男性は、私の心配通りの行動に出ようとした。

 車の屋根ギリギリまで下がると、腰を落としたのだ。間違いなく、助走をつけて前の車に飛び移るつもりなのだ。


 クラクションが鳴った。

 いや――クラクションを鳴らしていた。

 私はクラクションを鳴らしまくった。男性がはっとしてこちらを見る。ゾンビ達がゆっくりと振りかえった。私は後部座席にさっと目を走らせ、車の周りに一体もゾンビがいないのを確認すると、ドアを開けて外に出た。


 異臭が鼻に襲ってきた。

 汗と、涎と、腐った肉が混じったような、何とも言えない臭いだった。


 私はボンネットに飛び乗り、大声を出した。

 ゾンビがこちらに寄ってくる。

 慌てて屋根に上がろうとすると、フロントガラスで足を滑らせた。

 体を捻ってボンネットに尻餅をつく。だが勢い止まらず、体がそのまま前に滑ってしまう。

 まずい! と手の指全てに力を込めた。ぎゅっという音を立て、爪と指が離れたような錯覚を覚えつつ、私はなんとか止まることができた。

 顔をあげると、ボンネットからはみ出した爪先、三十センチの所にゾンビがいた。

 汗がどっと吹き出し、体重を支えていた手がぎゅっと嫌な音を立て少し滑る。


 クラクションが大量に鳴りだした。

 おらおら、こっちだ! と声が上がる。早く屋根に登れ! という声で我に返った私は、滑りながら慌てて四つん這いで屋根に這いあがった。

 べこん、という音に振り返ると、さっきまで私がいたボンネットをゾンビの群れが撫でまわしていた。

 息を整え立ち上がると、拍手が聞こえた。

 後ろの車の上に五人の人影があり、その人達が拍手しているのだ。


 ゾンビ達が唸りながらそちらに向かう。

 私も負けずに拍手をした。

 飛ぶのをやめた男性も拍手を始めた。

 クラクションも相変わらず鳴らされ続ける。


 ゾンビ達は分散して車を囲み始めた。だが、人数が少ない分、圧迫感が無かった。

 とはいえ、どさりどさりとまだ上から追加のゾンビが落ちてくる。


 どうするべきか? 

 このまま、ここにずっといるわけにはいかない。ならば危険を冒してでも移動するべきか?

 いやいや、さっきの男性のように冷静さを失っているんじゃないか? この数は、囲まれたらアウトだろう。

 だけど、このままずっとは――


 突如凄まじい音が響き、私は耳を塞いだ。

 一体何が――と体を伏せると、私の車の窓に体をぶつけていたたゾンビの頭の後ろが、ボコボコと弾け飛んだ。ドス黒い血が飛び散り、慌ててそれを避ける。

 ゾンビ達が落ちてきていた壁の辺りに、赤ゴーグルの人が立っていた。

「お疲れ様です! 救助します!」

 梁からロープらしきものが次々と垂れると、それを伝って続々と武装した人達が降りてくる。

 射撃音が木霊して耳を打つ。

 ゾンビが次々と頭から血を流して倒れる。

「その先の吹き抜けの所まで行ってください! 我々はこちらを三分後に離れます! 急いで!」

 気がつけば、車の周りのゾンビは皆倒れていた。

 私は慌てて屋根から滑り降りる。だが、足元にあった柔らかい物に足をとられ、顔をアスファルトに打ち付けた。

 鈍い音が頭の中で響き、まずい! という思考が浮かぶも、それがどこかにゆっくりと沈んでいく。

 私はよろよろと立ち上がると、車にもたれて頭を振った。

 ああ、痛い。

 鼻がつんとして、どろどろする。手をやらなくても鼻血が出ているのが判った。


 ああ、くそっ、ひでぇ――ティッシュは――


 私の手を誰かが引っ張った。

 途端に現実がさっと足元から昇ってくる。

 つんのめりそうになりながら、私は手を引かれて走った。

「さ、さっきは、ありがとう、ございました!」

 私の手を引っ張ってくれたのは、さっきジープに飛び移ろうとした男性だった。

 振り返ると、ばたばたと他の人達も走ってくる。

 射撃音が延々と響く。

 突然、上からの光が強くなった。

 新しい吹き抜けに出たのだ。

「来ましたよ! 何処ですか!」

 男性が叫ぶと、ゾンビが車の間を縫って、ぞろぞろと現れた。

 あうっと後ろで誰かが声を漏らす。


「こっちです!」

 女性の声にそちらを向くと、縄梯子がからからと音を立て、壁に垂れ下がった。

 あの武装した女性のようだった。

 彼女は梁にまたがると、銃身の長い銃を次々と発砲する。ゾンビの頭が吹き飛び、小さな金属音が響く。

「薬莢じゃねえか! 実弾じゃねえか!」

 誰かの叫びに、私は思わず笑ってしまった。

 私達は壁に駆け寄った。


「う、うわあっ!」

 悲鳴に振り返ると、髭面の男性の下半身にゾンビが組み付いていた。中年の女性のゾンビで、ぶよぶよした二の腕を震わせながら、男性のジーンズを掴み、股間に噛みつこうとしている。

 状況が状況じゃなかったら、笑ってしまう光景だ。

 だが、私達は足が凍りついたように動けなくなってしまっていた。


「ダメだ! 狙えない! 近接!」

 女性スナイパーの叫びに、ざあっと激しく物が擦れる音を立て、ロープを伝って兎のぬいぐるみが降りてきた。

 手には、その辺の店先から持ってきたらしい、のぼりが握られている。

 兎は鋭い動きで、髭面の男性とおばさんゾンビの間に『灼熱カレーライス!』と書かれたそれを突き入れると、思い切り振りまわした。

 男性は尻餅をつき、顎を引っ掛けられたおばさんゾンビは緑色の車のトランクに叩きつけられた。


 兎はくぐもった怪鳥音をあげながら、跳ね返ったおばさんゾンビの頭に回し蹴りをぶちかます。おばさんゾンビは水っぽい音を立てて壁に叩きつけられ、ずるずるとアスファルトにずり落ちた。

「早く行って!」

 兎に促され、髭面の男性が走ってくると、私達は抱き合って、それから縄梯子を登った。

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