三十九. 齟齬

 落ちているのだろうか、または浮かぶように漂っているのだろうか。どこかフワフワとしているが、気持ちのいいものでは決してない。察するに不安定なところにいるのだろう。目を開ける力は体に残っていなかった。

 そんな中、何者かが体に入り込んでくるような異質な感覚で目が覚める。


 “私”は長い夢を見ていた。それも悪夢だといっても間違いではないと思う。しかし、はっきりそうまで思えるのに何も覚えていないのだから、夢とは不思議なものである。

 時折苦しくなる胸や、今も我が身に残っている汗や倦怠感。そして固く握りしめていたのであろう、爪が深く食い込んだ掌。これらを省みれば、誰が考えてもおめでたい夢だった、などといえるだろうか。


「気持ちいい」


 思わず言葉が漏れる。

 心地の良い風が吹いたのだ。先程までの感情をすべてさらってしまうように、穏やかにフワリと。


「いえ、これは“魔法”のようだね」


 何者かが守ってくれているのだろうか。それとも、そう“私”が命じていたのだろうか。


 少し感覚を研ぎ澄ましてみると、何者かの柔らかい気が周囲に漂っているのがよくわかる。自分のそれでなく、どちらかといえば落ち着いた気持ちにさせてくれる誰かのものであるのは間違いなかった。

 改めて思い返すが、まさか、こんな中で悪夢を見ていたなんて、どう解釈をすれば納得できるのだろうか。よもや、悪夢など見ていなかったとでも思い直すべきなのではないだろうか。


 ──今、落ちるのなら。


 色々と思うところはあるが、ざっくりと結論を付けるというなら、すべて自分次第ということなのかもしれない。何せ、何も覚えていないのだから。それをわざわざ悪く捉える必要がどこにあろうか。

 覚えていないものに良い悪いがあるなんて、それこそ自己満足なのではないか、と。


 ようやくそこで、“私”はふと、思う。そして、同時に胸に痛みを覚える。


 ──何も無かったのかもしれない。


 そうだ、これは覚えていないのではない。そもそも、何も無かったのだ。

 ただ不安定な感覚に逆らうように、手に力を入れていた。それだけのことだ。

 ……何故ならば。


 ──何もわからない。


 “私”の頭は壊れてしまったのかもしれないから。夢だけでなく、ここにはもう何も残っていないのだから。


 ◇


 子供の頃は、ずっと同じだと思っていた。同じように生活をしているのだから、同じように成長し、この先もずっと同じように過ごしていくものだと。


 ──そんなわけないのは、わかってる。


 キュロロは思考を振り払うように頭を降った。戦場に出ると、時折に頭に浮かんでくるのだ。

 トラウマ? いや、ショックだったのは間違いないと認めるが、そこまで大層なものではないと思う。


「そんなことより……どこにいるのかしらね」


 探るように周囲を確認すると、すぐに目星が付いた。ぎわつきもそうだが、一際密集しているのがそれを示している。

 囲んでいるのだろうか、輪になり押し潰すかのように一つの隔離された空間が形成されているのをキュロロは見た。


「気味の悪いやつがいる! マチビ隊が交戦中だ!」


 既に何人もが向かっている様子だが、一体どういうことだろうか。気味の悪い、その言葉が妙に頭に引っ掛かる。戦場では、あまり使わない言い回しに思うからだ。

 また、気になるといえば、戦況もそうだ。客観的には今ですら過多に思えなくもない。しかし、現場はそうでないという。まだ援軍が必要だと。余程の猛者が率いる隊がいるということだろうか。


「私が抑えます!」

「キュロロさん! マチビさんを頼みます!」

「了解」


 返事をすると、脳内の地図を確認する。特に特殊な戦闘を強いられるような地形ではないはずだ。

 気になるのはマチビ隊の位置である。交戦しているとのことなので、彼がそこにいるのは確かだろうが、本来の持ち場からは大きく外れているのは間違いない。


「敵は……一人です!」

「一人……?」


 一人で何が出来ると思っているのだろうか。しかし、そんな不気味な人物に狙われるなんて、普段慎重なマチビからは想像出来ない。

 もしかすると過去に因縁があったではないか、とつい余計な詮索までしてしまう。


 ──知り合い? まさかね、そんなことないわよね。


 自分は何を言っているのだ、と呆れた様に思考を打ち切るとキュロロは気を引き締める。痴話喧嘩を戦場まで持ち込むなど言語道断であるし、何よりそれで実行に移すなどとは考えられなかったからだ。


 ──ドガッ!


 そんな時、一際大きく、爆発が起こったような音が耳に飛び込んでくる。

 叩きつけられたであろう衝撃により、大地からはいくつもの様々な破片が弾かれたように空へと舞い上がる。石や割れた大地、それに、ここで散っていった者達が懸命に戦った証もあるかもしれない。


 ──あそこね!


 その破片を避けて転がるように、一つの影が飛び出すのをキュロロは確認する。離れていたのが幸いしたようで、遠目にはそれがはっきりと窺えた。

 それを見た瞬間に、この人物がそうなんだろうと直感が告げる。彼女がきっと、そうなのだ。


 その影は目標、すなわちマチビがいるであろう方へとなんの躊躇いもなく飛び込んでいく。思わず目で追ってしまうような淀みのない足の運びであった。

 既に何人もが進路を阻むように立ち塞がってはいるが、躊躇うことなく斬り捨てられている。これではまるで戦いになっていない。


「許せない!」


 キュロロはその影を睨み付けると、追い掛ける足に力を込めた。これは、彼女の掲げる正義では、到底許されざる行為なのである。


「止まりなさい! あなたの行為は虐殺よ! これ以上は許さないわ!」


 聞こえているのか、いないのか。それは何事もなかったように、しばらくの間は動き続けていたが、徐々に、緩やかにその動きを静めていく。

 彼女も無視をするか迷っていたのかもしれない。何せ、良し悪しはともかく、余裕はないと推測される。


「……許さない?」


 注目が集まる中、ゆっくりと、そしてはっきりと言葉が放たれた。決して大きな声ではないのであるが、それでも十分な範囲に届く声だった。

 心なしか皆がその言葉に聞き入っているかのように、今、戦場は静まっている。


「ようやく、ね。追い付いたわ」

「そう。それで、さっきのはあなたですか?」

「ええ、そうよ。私はキュロロ。あなたは?」

「……ファニル」


 彼女は動きを止めたファニルへと向き合うように距離を詰めると、話し掛けるように口を開いた。対し、ファニルはそれを振り払うように背を向ける。


「目的を聞くわ」

「大将の首。そう言えば、わかってもらえますか?」

「わからないわ。状況はわかっているの? あなたは今、危険なのよ」

「ええ」

「一人でなんとかなる、と?」

「まさか。でも、百人に匹敵するほどの損失を与え続ければ、どうでしょうか」

「……あなたにそれが出来ると?」


 キュロロは違和感に目を細めた。

 目の前のファニルは、つい先程まで捨て身さながらの無茶苦茶な戦いを仕掛けて来ている。確かに、止まれと声は掛けたが、そんな彼女がどうしてその一声で素直に動きを止めたのだろうか。彼女に限らず、止まれと言われて止まる人は通常いない。


「どうして勝てると……我々が負けると、決めているのですか?」


 キュロロの質問には答えぬまま、今度はファニルの態度が吐き捨てる。苛つきだろうか。

 彼女は今、耐えていた。


「残念だけど、既にあなた達には戦い続けるだけの人数が残っていないからよ」

「……なるほど。では、何が許せないのですか?」

「力の差があるのに、あなたがわざわざ致命傷を狙っているところよ」

「優しいのですね。でも……」


 ファニルが振り向いた。


「死にたくなければ、出て来なければいい」


 キュロロとファニルの視線が激しくぶつかる。真っ向からファニルが挑み、それをキュロロが受け止めたのである。


「どうぞ、逃げてください。見逃してあげます。……ああ、そうすれば、丁度数の不利も解決出来そうですね」

「あなた……!」


 畳み掛けるようにファニルが言葉を投げつけた。今の彼女にとって、言葉は凶器と同じ意味を持っている。


「ここは戦場ですよ。何があるかなんてわかるはずがない。そんなところで手を抜け、だなんて、筋違いにも程があるとは思いませんか?」

「……なるほど」

「勝ったつもりで考えているのではありませんよね? 無駄な犠牲者を出したくない、と」

「それは……!」

「勝負はまだついていませんよ」


 言い終わると、ファニルが短刀に手を添える仕草を見せた。

 爆発した苛立ちを静かに、そして、より鋭角に発散する。彼女とて、勝つためにここにいるのだ。遠慮など、もはやするつもりもなかった。


「……そうね。わかったわ」


 察したキュロロが、周囲へ合図を送る。


「皆! ここは私に任せて下がりなさい!」

「はっ!」

「あの人は逃がしません」


 相も変わらず、マチビを目掛けて飛び出すファニルをキュロロが制する。

 立ち塞がる彼女をファニルは冷たく睨み付けた。


「ファニル! 私が相手よ。もし私が負ければ、クラレッタまでの道を空けると約束するわ」


 ファニルはピタリと止まると、再び遠くのマチビへと視線を移す。そして、少し考えると頷いた。


「そうですね。いいでしょう」

「決まりね。でも、一つだけいいかしら?」

「聞くだけなら」

「充分よ」

「どうぞ」

「もし逃げたくなったら、いつでもそうしてくれて構わないわ」


 キュロロは真剣だった。

 戦わずに済むのならそれに越したことはないはずだから。敵味方問わず、犠牲者を減らすことこそが、今彼女が背負う使命だったのである。


「逃げる?」


 最後に、ファニルの唇がその発音、意味を確かめるように、そう動くのをキュロロは見た。

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