三十八. 自信
人が集まってくるのを肌で感じていた。自身の所作からは到底信じられない程の無骨さが騒音となり、その存在を彼女へと知らしめていたからである。
熟練されているにも関わらず、嫌いな響きだった。ひょっとすると、もう勝った気でいるのかもしれない。まるで、浮わついた気持ちを醸しているような不快さだった。
ファニルはもう何度目かわからない溜め息をつく。
相手には自由に動ける者がこんなにもいるのに、こちらの味方はその気配すら希薄である。これは一体どれくらい劣勢な状況となっているのだろうか。
──違ったわ。
そう考えていたが直ぐに改めた。そもそも、抜け出して来たのだから、いるはずがないのである。自分が味方を置いて来たというのが余程正しい。
とはいえ、戦線をこじ開ければ続く者も出てくるだろうと考えていたのも事実ではあった。
ファニルは今、マチビと呼ばれる相手に“治水”を傾けている。言葉はもう必要なかった。というのも、彼女の中では既にその段階を終えており、今や彼は、標的としてただそこにあるだけなのである。
対し、相手は得意気につらつらと口上を述べ始め、油断をしているのが窺える。
「改めて、すまないと言わせてもらおう。私の名はマチビ。マチビ・バルバルリラである。念を押し、隊を以て相手をさせてもらうつもりでいる。私は用心深いのだ。しかし、もし降参するなら、悪いようにするつもりはないぞ、どうするか?」
彼は辟易とするファニルの表情にはまるで気が付かぬようで、得意気に刃を彼女へと向けて声を張り上げては降伏を促していた。彼はすでに勝利を確信しているかのようだ。
盾を構えてはいるものの、もはや攻撃されるとは思っておらず地に突き立てている。慎重なようで、自信家なのだろうか。
「……足りますか?」
彼女は脅すように唇を歪めた。笑っていたのだ。
「え?」
マチビが訝しげに聞き返す。理解ができず、聞き間違えたのかと思っているのかもしれない。
「それで、足りますか?」
今度はゆっくりと、その意味を問い掛けるように発声する。すると、どう思ったのか、相手の表情に呆れの色が浮かび始めた。
「足りる? 気味が悪いな、君は」
気味が悪い、と言われたことに、ファニルは内心で腹を立てる。性格も含め、自分なんてまだまだ可愛いほうだろう。しかし、これで心は決まった。
「悪いようにするつもりはない、そう言いましたね?」
「如何にも。では、降参するのなら、まずは武器を離したまえ」
彼女が諦めたと判断し、マチビが一歩だけ前へ踏み込んだ。しかし、続く言葉でそれが止まる。
「私は、そうはしない」
「なに?」
警戒したのだろうか。マチビは再び盾を構え、対峙するように距離を図った。
「私は違う。あなたが泣こうが喚こうが、死ぬまで手を止めるつもりはありませんから」
「全く……本当に気味が悪いな。出来れば大人しくしておいてもらいたいものだが……」
最後の忠告、ということだろう。マチビはもう一度だけファニルと目を合わせ、ぼそりと小さく呟くと隠れるように後方へと引き返し始める。あろうことか、今になり衝突を避けたのだ。
その事実が一層彼女を滾らせる。
「掛かれ! この者を捕らえておくのだ!」
マチビの声が号令となり、止まっていた周囲が再び動き始める。周囲に仲間は未だ見えず、もはや一帯のほとんどがファニルを狙っているのは間違いなかった。
「捕らえる?」
──もう殺してしまおう。
ファニルは短く考えを纏めた。初めから、手加減するつもりなど毛頭ないが、むしろこれだけ増えれば心置き無く戦える。
──だって、手を抜けばこちらがやられるのだから。
僅か数秒で、辺りは地獄と化した。
◇
考えていた通りにはいかないが、目標にたどり着いたのは間違いない。後は速やかに仕留めるだけだ。
ファニルは人混みに消えていくマチビをしっかりと捉えていた。逃げながらも、一応の仕事は果たしているようで、細やかな指示を飛ばす姿が小憎たらしい。
見れば見るほど、他の者よりもがっちりとした防具に身を包んでおり、その性格が如何に慎重であるかが窺える。ただでさえ鍔迫り合いを嫌う彼女は、どこから斬り付けるのがいいだろうか、などと思考を張り巡らせては舌打ちをしていた。
そう、ファニルの短刀は攻めのためのものである。守りはない。速さで補うのが彼女の流儀なのだ。
混戦とはいえ、混乱というわけではない。というより、伝達がしっかりしているのだろう、グランバリーはある程度の士気は取り戻している。
奥へ入り込むほど、わらわらと敵が押し寄せてくるのがその答えだろう。伝令が走り、少なからず彼女の存在を知らせて回っているのだろうが、これではまるで一人で戦っているかのような錯覚に陥ってしまう。孤立無援。……否、彼女とて、助けを望んでいるわけでなく、この場に長居をするつもりも更々ない。逃げるから、追っているだけなのだ。
──ヒュッ!
隙間を縫うように、機動力を奪うために下方を狙う突きが、時折視界の端に飛び込んでくる。ファニルは丁寧にステップをし、それらを順番に回避すると更に奥へと踏み込んだ。見えているうちは当たらない。彼女とて、そう思えるくらいの自信は持っているのである。そうでなければ、飛び込むような真似はしない。
「さぁ、行きましょう」
何度目かの隊をくぐり抜けると、ようやく敵の攻撃の手が止み、それと同時に周囲の見晴らしが良くなった。ファニルはそのまま駆け抜けると、一度仕切り直すように距離を取ってマチビを探す。
「目標確認。……少し自由にさせ過ぎたかしら」
相変わらず、相手はファニルから一定の距離を取り、しっかりと仲間に守られるように囲まれながら、彼女を見ていた。まるで、引き寄せて罠へと誘っているのかもしれない。
実際、こうして深いところにファニルはいる。彼女としては攻めているが、マチビからは誘っているのだ。
──ヒュッ!
再び突きがファニルを襲う。今度は一人だけが飛び出して来たようだ。戦功を求めてだろうか、はたまた何かを理由があるのだろうか。彼は隊からも外れ、決死の形相で彼女へ向かって斬り込んでいた。
「ギャァァッ!」
その直後、戦場に一際大きな悲鳴が響き渡る。一瞬にして周囲が色めき立ち、そして、収束するように静寂が訪れた。
「ッァアッアァァッ!」
やはり悲鳴なのだろう。放たれたそれは、静かな水面に放たれた一つの波紋のように、再び周囲へと広がっていく。
「決めた」
ファニルは、手にした“腕”を放り投げた。そして、もう一方の手に握られている血にまみれた短刀を体の前に突き出し宣言する。
「知っていますか? 魔剣が血を求めるように、妖刀もまた同じく、血を欲するということを」
新たな波紋は戦場へと放たれていく。その場の誰もが、黙ってファニルの言葉を聞いていた。いや、誰も口を開くことができなかったのだ。
「そう。この“治水”は血を求めている。殺すつもりでないのなら、道を開けてください」
そう言うと、“腕”の持ち主へと目を向けた。もがくように強烈な悲鳴を上げていたが、今は静かに動かなくなっている。気絶したのだろうか、それとも……。
「だって、割に合わないでしょう? こんな風に体の一部を失うというのも」
道を開ける者こそいなかったが、徐々にざわつきが増し、手を出そうとする者もいなくなった。とりあえず様子を見てからといったところだろうか。
「わっはっは! 黙って聞いていればぬけぬけと! この人数に何か出来ると思っているのか? 聞け! 恐れることはねぇよ!」
声が先に聞こえ、しばらくしてから、まるで動かない味方を掻き分ける様に、一人の巨漢が現れる。その装いからするに指揮官ではないようだが、一般の兵士というわけでもなさそうだ。
「はぁ、あなたが叫ばなければ、散らずに済んだ命もあったと思いますが」
威勢のいい男の登場により、場の兵士達に少しの元気が戻る。これでは、折角脅した意味が薄れてしまうとファニルは溜め息をついた。
「マチビを狙っているらしいな?」
「マチビ……」
記憶をたどる。確かに追っている男はそう呼ばれていたような気がする。いや、名乗っていたか。
「お前がそんなに頑張ったって、お前らは負けるんだよ。今だってそうだ、この場にはお前以外に残っているやつなんざ見当たらねぇ。ちょっかいを出しに来ただけなら見逃してやる。さっさと引き返しな!」
大きい男だ。体も大きければ、その声もまたとびきり大きい。男が発する声に鼓舞されるように、沈黙していた戦場に再び活気が戻っていくのをファニルは感じた。
「見逃す?」
「ああ。そうだ。お前らは負けたんだ。けどな、俺達は鬼じゃない、可哀想だから逃がしてやるって言っているんだよ!」
苛ついたように、吐き捨てるように、男はファニルに言葉を叩き付ける。抑えているようだが、言葉の裏には強烈な感情が潜んでいるのがありありと伝わって来た。彼もまた、何かを背負った者に違いない。
「可哀想?」
それでも、ファニルは退かなかった。あろうことか、彼女も苛ついたように言葉を返したのだ。
仲間は──自分の隊長は、一体何をやっているのだ。しっかりしない味方のおかけで自分が憐れみを受けることになるなんて。
彼女が感じていたのは屈辱だった。
「あんた、気味が悪いよ。さては“死神”のお友達だな? もしそうなら逃げ帰ってあいつに伝えな! ゼダンギースが呼んでいたってな!」
「死神……フレヴァニール。残念ですが、私は知りません」
「そうかい。グランバリーのほうへ来ていると聞いていたんだけどな。……あんた、名前は?」
ゼダンギース。噛み締めるように、反芻する。一応注意すべきなのは確かなようだ。
沸々とする怒りを抑え、彼女は名乗る。
「ファニル」
「ファニルか。覚えておいてやろう」
豪快に歯を見せて笑いかけると、さっさと去れ、と言わんばかりに踵を返した。
「……覚えておく必要はありませんよ」
退いていく背中を睨み、ファニルは飛び出した。目標は……。
「ははっ! そう来るか! とんだ死にたがりがいたもんだな!」
周囲が、あっ、と声をあげるよりも早く、ゼダンギースは身の丈ほどの大きな戦斧を大地に叩きつけた。受けた大地が四散するように、その欠片を周囲へ飛ばす。
その一つがファニルへと向かった。彼女はそれを避けるために身を屈めやり過ごすと、改めて加速する。
「狩るものと狩られる者。その境界は曖昧です。少しは狩られる可能性も考えておくべきです。忠告ですよ」
「ははっ! 自信家だな!」
「そちらこそ」
叩きつけた斧を再び振り上げ、それと同時に振り返る。凶暴な獣が獲物を見つけたかのように、ギラリとした瞳がしっかりとファニルを捉えていた。
「逃げられねぇぜ?」
ゼダンギースが斧を振り下ろすまでの短い間に、一瞬だけ二人の視線が交錯する。
──ドガッ!
大地が裂けるかのように力強い一撃が、周囲の破片を一斉に打ち上げた。どうやら、ファニルには当たらなかったようであるが……その姿は見当たらない。
バラバラッと諸々の破片が降り注ぐ中、ゼダンギースがゆっくりと上体を起こす。そして、誰かを探すように振り返った。
「死ぬんじゃないぞ」
その瞳の先には、一体誰が映っているのだろうか。戦場では歓声が湧き起こっていた。
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