三十七. 流
微かな記憶だ。それも本当に拙くて、もし例えるのならば……閃光。つまり、ほんのその一瞬だけ切り取ったようにだけ、朧気に、かつ鮮明に脳裏へと焼き付いているものだ。
その話に至るまでの経緯も何一つ覚えていない、たったそれだけのもの。
──この惑星はとても小さい。
幼い頃に一度だけ、そう聞いたことがある。
誰が言っていたのかは覚えていないし、その人がどんな気持ちでそんか話をしたのかさえもわからない。覚えているのは、そこが戦場だったということくらいだ。
──戦場、か。
撤回する。やはり自分の中に心当たりはあったのかもしれない。確か、兄の言い付けを守らずに飛び出した、あの時だったのかもしれない。
久方ぶりに考えてみた甲斐があった。また少し記憶をなぞれたのだ。
──ああ……もう一つ、あったな。
その人が動く度に、夜空には星が流れていたんだった。
あの時、自分は何を思ったのだろう。あの時、空を舞っていたものは何だったのだろう。あの時、兄は何故夜を恐れたのだろう。
小さな惑星とは、どういう意味だったのだろうか。答えは未だにわからない。
◇
上手く紛れることはできたのか。その答え合わせをしたいと思うが、振り返ってはいけないと警告する本能がその気持ちを上書きする。自分が今すべきことは部下を守り抜くことだ。不必要な動きは極力行うべきではない。
何せ、相手は鬼のような復讐者なのだ。少しでも隙を見せれば、そこで全てが終わる可能性すらあり得るのだから。
ヴィルマは駆ける。
振り返る暇があるのなら、一秒でも速く部下の安全を確保すべく動くべきだ。
今、彼の目には時折大きく跳ね回るラウリィの姿だけが映っている。
──ここからは、ノンストップで走りますよ。
幸いに、しばらく派手な動きは起こっていない。つまり、イッパツは大人しくしているのだろう。対し、ラウリィは悪目立ちをし過ぎている懸念が大きい。
現にヴィルマ自身も手間なく彼を見つけることができているのが、それを証明しているのである。
問題はここからだった。まず、接触することが前提であるが、できたところで素直に言うことを聞くかどうかに確信がない。
今回は対応の速さに懸かっているので、それができなければ生存への可能性は極端に下がるだろう。下手をすればそこで終わる。
──まるで、鬼ごっこ、ですか。
人波をすり抜け、ラウリィまであと少しという時に、ふと妙な声がヴィルマの耳を通り過ぎる。
「マチビさんの援護へ向かってくれ! 奇妙な女がいるらしい!」
足は止めなかったが、すぐに察しは付いた。
「はぁ、今度はファニルですか」
振り切った優先順位という篩が脳裏を掠めるが、それでもヴィルマはイッパツを目指す。作戦に変更を認める余裕など疾うになかった。
「まずはイッパツからです」
今迷っていては全滅もあり得る。ならば、最善とは、決めたことを順にこなすことだろう。
ヴィルマは散りかけた意識を一つに纏める。
ほどなくしてイッパツの姿を捉えた。こちらは良い意味で予想に反して早く見つけることができたようだ。
少しふらついているようにも見えなくはないが、力強さは消えておらず、想定していた最悪の事態は免れたと思っていいだろう。
「イッパツ、今は退きますよ。直ぐにラウリィも連れて行きますので、ついて来れますね」
ヴィルマはイッパツの正面へと回り込むと、制すように掌を向け、口早に告げる。
「いえ……まだこれからです」
しかし、イッパツは従わない。
「ならば、露と消えるのもいいだろう。そう、それが選択だ」
──追ってきましたか!
ヴィルマがイッパツへと飛び込むよりも早く、声と共に影が流れるようにイッパツへと纏わり付く。
「……いけませんね!」
狙われるなら自分からだろうという油断がどこかにあったのかもしれない。一瞬遅れたことをヴィルマは悔やんだ。しかし、すぐに武器を引き抜くと、その救出へと切り替える。
時間にしてはほんの一瞬であるが、その間にもイッパツは転がされ、無情にも地に顔面を押し付けられるように上から足で踏みつけられていた。
「イッパツ! くそっ!」
異変に気付いたラウリィが声を荒らげ、自身もその場へ駆け付けようとする。幸いにも彼はヴィルマに気付いたようで、すんでのところで踏み留まると方向を改め合流を選んだ。
……いや、幸いというのならば、相手がイッパツに止めを刺さなかったことに対してなのかもしれない。
「ラウリィ、イッパツを救出したらそのまま手早く撤退してください。動けますね?」
ラウリィが近付くのを見計らうと、ヴィルマは小声で確認をする。
「ヴィルマ隊長は?」
「彼を足止めしなければいけないので、俺はここに残ります」
「足止め? どういうことです?」
「既に状況は変わっているのですよ、ラウリィ。彼はユーゲンフットと呼ばれている危険人物です。もはや君たち、いえ、俺たちの手に負える相手ではない」
「龍鬼殺し……あの、ユーゲン……」
ラウリィが言葉を詰まらせ、頷いたのを確認すると、ヴィルマは手にした短剣をゆっくりとユーゲンフットへと差し向けた。
「そろそろ教えてくれないか? ラウンデルはどこだ?」
ユーゲンフットは小突くように一度だけイッパツの頭を弾くとそこから離れ、再びヴィルマの前へと歩み寄る。
解放はされたものの、直ぐに動くようなことはできないようで、イッパツは倒れたまま動かない。
「先に答えた通りですが。わからない、と」
「そうだったな。では、彼に聞いてみるとしようか」
その視線が流れ、次第にラウリィへと向かうとそこで止まる。
恐怖だろうか。ラウリィは目を逸らすことも睨むこともできなかった。当然、受け止めることもそうである。
そんな絶望の中、崩れていたイッパツがゆらりと起き上がるのを、ラウリィは視界の端で微かに捉えた。
彼のことだ。起き上がったということは、仕掛けるつもりでいるのかもしれない。
極限まで広がっていく緊張の中で、ラウリィは必死に考えた。自分と対面しているユーゲンフットからは、その背後にいるイッパツは見えていない。つまり、死角となっている。
もし格下だと油断しているのならば、彼がこんなに早く起き上がることを想定していないのではないだろうか。よもや、反撃してくるとは思っていないのではないだろうか。
ラウリィの胸の奥が熱を帯び、次第にその緊張感さえも心地良さへと変え始める。内なる鼓動と共にエネルギーが全身へと行き渡っている感覚を自覚する頃には、比較的自由が戻っていた。
危険だが……少し自分が引き付け、囮となるべきかとラウリィは考える。しかし、負傷しているイッパツばかりにすべてを託すというのも難しいかもしれない。
もちろん、隊長も動くものとは思われるが……。何よりコミュニケーション、連携が取れていないのが現状である。
「僕達もわからない。最後に会ったのはラザニーだし、何より一度しか会っていないんだ」
なるべく戦わずして、もし会話で時間を稼げるなら、できるだけはそうしておくほうがいいだろう。
そう判断すると、ラウリィは早速口を開いた。
「ほう、ラザニーか。グランバリーの砦ではないところがあいつらしいな」
「ラウンデル様を知っているんです?」
「ああ。知っているとも」
いざ話始めると、特に威圧感は感じない。むしろ、人当たりの良さそうな気さえする。これが凶悪だといわれている、あのユーゲンフットなのだろうか。
確かに底知れぬ恐怖感じていたが、聞いていたより遥かにまともな印象だとラウリィは思った。
「会ってどうするんです?」
「会ってから決めるさ」
「……あなたは敵ですか?」
「ふふ、それを聞くのはおかしいと思わないか? こういった場合、その答えはお前自身が握っている」
「僕、自身が?」
「話すか、話さないか。それだけだ」
そう言って、ユーゲンフットはニヤリと笑う。
「……僕に知らないと答える選択肢は?」
ラウリィの額からは一筋の汗が流れていた。また、それを拭う手さえも汗で濡れている。
驚いたことに、再び彼に呑まれていたのだ。
「自分で決めればいい」
目を見られている。ただそれだけなのに、まるで押さえつけられているような気分だった。一瞬でもいい、とにかく切り替えるような間が欲しい。
ラウリィは唇を強く噛む。
「……リル」
──届いた。小さいが、はっきりと聞き覚えのある声をラウリィは聞いた。
はっとして、一瞬動いてしまった目をなんとか抑える。戦場の騒音に紛れ、ほんの微かな声だったが、果たしてユーゲンフットは聞き流しているのだろうか。
「……ブリル」
彼の言う、ラブリル、とは一体何なのかはわからない。しかし、彼が放つそれは、いつも想像を超えた世界をラウリィに見せてくれるのである。
「……ラブリル!」
三度目のラブリルと同時に各所からの動きが加わった。ラウリィもそうだ。今だ、というタイミングで体が飛び出していた。
確証はないが、動いたならきっと彼はそれを叩き込みに来るはずなのだ。
「恐ろしくて震えましたよ。こんなスリルは滅多にない」
ラウリィの隣でもまた“何か”も動きをみせていた。ヴィルマもまた察知したのだ。
何か物でも飛ばされたのか、そう思えるほどアンバランスで大きな影が砂埃を起こしながらの疾走をみせる。
「牙を出したか。久しいぞ、その姿とやり合うのは」
その姿を捉え、ユーゲンフットが目を少し細める。未だ、得物を構える様子はまだない。
「本来これは止められているんですが、今回は仕方ないとしましょう」
「ヴィルマ隊長! その姿は?」
「ラウリィ、見てはいけません。今、ここで仕留めますよ」
簡単なやり取りの後、ラウリィは跳躍し、ヴィルマはその体に不釣り合いな筋肉を纏う、盛り上がった太い腕を振るった。
二人は勢いのままユーゲンフットへ肉薄する。
「ラブリル!」
そして、その背後からは、ついにイッパツが捨て身の拳を放つ体勢に移行していた。
これで正面、上空、背後から、それぞれが全力の一撃を仕掛けることになる。一人でも当てることが出来さえすれば、続く連撃も望めるだろう。
「……ストレイトォォ!」
口火を切るのは、背後からの一発だった。もう何度目だろうか。放たれた一撃は、空間ごと吹き飛ばすように強烈な威力を予感させる。
一瞬であり、たった一撃。それも、当たれば勝負はそこで決まるほどの強撃。そうでなければ……。
「ラブリル? まさか、声が聞こえているのか?」
ユーゲンフットは機敏に察知し、振り返るとすぐに受け止めるような素振りを見せるが、直撃の瞬間にはすり抜けるように受け流していた。
──外れたのか!?
上空からそれを確認したラウリィは、間髪を容れずに踵を振り下ろした。
「体勢くらいは崩れてほしいね!」
唯一、彼は自身の攻撃が必殺の一撃にはなり得ないことを感じている。ラウリィはこの戦場で、自分の攻撃に“重さ”がないことを痛感していたのだ。
「駄目だぜ、そんな半端では。直ぐに流されるぞ」
声と共に、ラウリィの視界は回転していた。落ちたのか、それとも叩き付けられたのか。それすらもわからず、ただ地面を転がっていた。
視界の端で、激突するヴィルマとユーゲンフットが見え、その近くではイッパツが再び力を溜めている。
──力が欲しい。
知らずに食べた土の味は、ラウリィにそんな気持ちを渇望させた。
覚えた自信は、流水にさらされた岩の如く、彼の身からは削れて消えた。
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