三十. 反転
「……すみません、ただ今戻りました」
長い時間をかけ、ようやくなんとか絞り出せた言葉はたったのそれだけだった。それも消え入るような小さな声だ。
不貞腐れているのだろうか、ゼフィー自身もその辺りがよくわからなくなっている。ただ、帰還するということに納得ができなかっただけかもしれない。
──帰りたくなんか、なかったのに。
しかし、結局のところ、ゼフィーとグラディールの二人では到底敵わぬ相手だった。先の騒動により少ないながらも警備は増し、忍び込めるような状況では既になくなっている。もう引き返すより他なかったのだ。
頑なに下を向き、拳を固く握り締めるゼフィーを見て、クラレッタは思わず声を上げる。そして、直ぐに駆け寄ると彼女を強く抱き締めた。
「ゼフィー……! よく戻ってきてくれましたね!」
報告を聞き、急いで駆けつけたのだろう。彼女の息は乱れ、肌から伝わる鼓動はそれを証明するかのように速く波打ち、そして、何よりとても熱かった。
「ごめんなさい」
その感触でようやくゼフィーは理解する。
──私は、心配されていたのか。
途端に、報告をしなかった自分に情けなくなってくる。彼女が独り善がりをしていた間も、砦の仲間は心配してくれていたのだ。それに、もしもすぐに連絡をしていればフィアッカだって──。
良からぬ、後悔にも似た感情が彼女の心を蝕んでいく。
──もう、合わせる顔がない。
「あなただけでも無事で良かった」
「でも、私が──そのせいで、フィアッカさんが捕まっちゃって私……私が助けに行かなきゃ!」
ゼフィーは弾かれるように、クラレッタから飛び退いた。心配そうな顔、そして声を聞くのが堪らなく辛かったのだ。
「ゼフィー……」
クラレッタが心配そうであり、困った表情をする。こちらを見ているのがわかったが、ゼフィーからは目を合わせることなどできそうもなかった。
──ここには要られない。こうしてはいられない。行こう、グランバリーへ。
「落ち着いて、ゼフィー」
突如、制止するかように肩に手を置かれ、ゼフィーは思わず顔を上げる。まるで心の声を読まれでもしたかのようだ。
「キュロロさん!」
「あなたとグラディール、何の為に戻ってきたの? 二人では敵わないと思ったからでしょう。それに、頼りにしているようだけど、グラディールは戦闘があまり得意ではないの。だから、戦っていたとしてもきっとそうなっていたわ」
「な、なんてことを……キュロロ」
ここに共に来てからというもの、そのほとんどを傍観に徹していたグラディールであったが、唐突に名前を出されたことで、目を丸くして驚いている。挙げ句、一瞬のうちに切り捨てられており、なんとか渋い表情は作ったものの、それが精一杯のようですぐに大人しくなった。当然ながら不満気ではある。
その後、なんとか抗議をするように、悲痛な声を上げながら一歩踏み出すが、何故かその動作に勢いはなかった。
「それにグラディール、あなたは何よ。何故ここでフラフラしているの? ミレディを見捨てたっていうの?」
「うっ……あの状況ではやむを得なかったのだ。彼女なら上手く切り抜けているさ。これは信頼である」
なんとか口を動かしてはいるが、彼の態度が萎れているのは誰の目にも明らかだった。相変わらず、その所作にも力は感じられない。
つまり、……弱そうである。
「まさか寝返るとは思っていなかったでしょうね。ミレディも」
「うぅ……」
それが止めとなり、グラディールは完全に項垂れてしまった。もちろん、彼としても本意で退いたわけではないことは彼女とて理解している。それでも、言わずにはいられなかったのだろう。
そんな様子を見ているうちに、ゼフィーの気持ちも少しばかりは落ち着きを見せ始めた。自身に注目が集まっていることが、知らずの内に彼女を追い詰めていたのかもしれない。
「そういえば、キュロロさんはグラディールさんのことをご存知だったのですか?」
気になったので、ゼフィーはキュロロに聞いてみることにした。
「同じ村の出身なのよ。だから幼なじみっていうのかしら」
「幼なじみ……」
視界の隅のほうで、グラディールが少し寂しそうに繰り返しているのが見える。しかし、話に入ってくる元気はないよう。無論、一喝されて黙り込むのが目に見えているからだろう。
ゼフィーは段々と彼が気の毒に思えてきた。
「ゼフィー、とりあえず今は無茶をしないでね。クラレッタに状況を説明して、それから最善を尽くしましょう。……後、彼は少し借りていくわ」
「はい。……あの、なるべく優しくしてあげて……」
「心配無用よ。彼はこれくらいが丁度良いのよ」
キュロロはそう言い残し、引きずるように、グラディールをどこかへと連れていってしまった。
大男がまるで小動物になったようだ。
「お疲れさん」
「元気だしな」
見えなくなっていく二人に気を取られている間に近付いていたのだろう、声と共に両の肩に置かれた掌の感触に、ゼフィーは思わず飛び上がってしまう。
「イッキさん、フッキさん。あっ! あっ?」
慌てて振り返ると、そこには指が待ち構えており、頬がそれに当たると形を変えた。逃れるように、慌てて逆方向へ首を回すも、今度はそちらにも同様の罠があり、ゼフィーの頬は再び形を変えることになる。古典的ないたずらだった。
彼らはイッキとフッキといい、ゼフィーより歳が少し上の兄弟である。彼女にとっては兄のような存在でもある。双子であり、常に互いを意識しては張り合っており、よく周囲を騒動に巻き込んでいた。
「残念。俺の勝ちだ」
「いーや、俺は負けていない」
そのままエスカレートすると、次第に力の加減がなくなってくる。ほんの数秒後には刺さるような力となり、両の頬へと二つの指が押し迫った。
もはや、振り返るまでもなく、指のほうが頬を貫くが如く突き進んで来るのだ。むしろ、動かないというほうが余程正しい。
「痛っ! あっ! そろそろ痛い! 痛いです! ふぐっ!」
涙目になり必死に訴えたところで、双子が同時に口を開く。おそらく、白黒をはっきりさせぬ限りはこれが離れることはないのだろう。
「ゼフィー! 決めてくれ!」
「ゼフィー! 引き分けはないぞ!」
予想通りの展開に、ゼフィーは困惑する。
この場合の勝ちとは、先に指を当てた方だろうか。それとも頬に当たる指の押しの強さだろうか。
なにより、そろそろ頬……顔の痛みが限界だった。
「イッキ! フッキ! いい加減にしないか!」
大きな雷が落ち、離れはしないものの、二つの指の動きは瞬時に止まる。
軽くパニックになりかけていたゼフィーは、たまらず声のほうへ目を向けると助けを求めた。この声は彼に決まっている。
「マードックさぁん……!」
「うっ!」
両頬に指を食い込ませ、目には大粒の涙を潤ませながら、必死に助けを求めるゼフィーの形相は相当なものだった。
マードックは思わず立ち止まって息を呑む。
「あっ! 引きましたね! 絶対そうだ!」
「これは酷いな。何も引くことはないでしょうに」
その様子を見るや否や、二人はさっとゼフィーから飛び退く。そして、これ見よがしにマードックに非難の目を向けて囃し立てた。
「しょうがない、今日の勝ちはマードックさんに譲ろう」
「ああ、マードックさんなら仕方ないな」
彼女から離れ、瞬く間に近くに寄ってきた二人に、マードックはポンと肩を叩かれる。その態度に彼の怒りが再び爆発しようかというその時だった。
「ゼフィー、どうかしたのですか?」
少し離れた場所にいたクラレッタの声が凛と通り、その場に一瞬の静けさが訪れる。それは緊張……ともとれるほどの張りがあった。
その場数人が関心を寄せる中、ついにゼフィーの口から新たな言葉が放たれる。
「クラレッタ様ぁ!」
ゼフィーは叫ぶと、迷わずその胸へと飛び込んでいく。
「あらあら……」
「ぐすっ……マードックさんが……マードックさんがぁ!」
必死に説明しようとするが、うまく言葉が出てこず、最初の名前だけが繰り返される。
──マードックさんが助けてくれて、マードックさんが助けてくれなかった。
もはや、説明もできそうにない。
「マードック!」
「うっ!」
今度は鋭く睨み付けられ、またもその場から動くことができないマードックが硬直する。
「おい、今は駄目だろう? わかるよな?」
一喝と同時にその場の空気が凍り付き、すすっと双子が彼の傍を離れていく。誰もがそれぞれの視線を合わせなかった。
そして、──音が消える。
いつしか、場が完全に二人の空間へと変貌していた。
──おいっ! 嘘だろ?
心の中で叫ぶマードックであったが、ゼフィーと同じく一度取り乱してしまっては、当然まともな説明などできるはずがなかった。
「ち、違うんです」
──駄目だ……言葉が出てこない。
マードックは目を閉じた。とてもクラレッタを見ていられなかったのだ。
──ゼフィーよ……せめて……後から訂正……を……。
それは、覚悟……ではなく、諦めだった。
「ちょっと、クラレッタ! そこまでにしておきなさいよ!」
マードックが諦めかけたその時、遮るように彼の前に誰かが割り込んだ。……キュロロが戻って来たのだ。
「キュロロ。退きなさい」
「できないわ。それにそんなに怒ることじゃないはずよ。ね? ゼフィー」
激変した事態に狼狽えるゼフィーだったが、キュロロの言葉にすがるように頻りに何度も頷いた。彼女とて、本意ではないのだ。
「ほらね。マードックには私のほうから言っておくわ」
キュロロの目が、真正面からクラレッタを捉える。彼女の視線もまた強かった。
殺気でこそないものの、クラレッタの怒りは度を超えている。そう、彼女の怒りは唐突な、いわば、ヒステリックな類いになるのだ。
しばらくそのままの状態が続いたが、やがてクラレッタが先に観念する素振りをみせた。今は仲間割れをしている場合ではないとわかってはいるのだろう。
「いいでしょう。では、後は彼女にお願いすることにしましょうか。行きますよ、ゼフィー」
そのまま挨拶代わりに頭を軽く下げると、ゼフィーを連れて歩き始める。
「うっ!」
途中で一度立ち止まると、マードックの肩に手を軽く置いた。
「もう怒っていませんから。わかっていますね?」
にこやかにそう告げると、そのまま部屋を後にする。ゼフィーは何度も振り返っては頭を下げた。
その後、しばらくの間は沈黙が訪れる。誰も動こうとしなかったのだ。
◇
「うっ!」
しばらくして、その沈黙を破る第一声を放ったのは、マードックだった。
突如、呻き声が辺りに響き渡る。
「よし、足はあったぞ!」
「おっけー。頭上に輪も見当たらないぜ」
イッキがマードックの足を掴み、フッキが背中に飛び乗ったのだ。
「お、お前らぁぁ! ……元はといえばぁぁ!」
「大丈夫です、まだ生きてますって」
「助けてもらってよかったですね」
すぐ二人へ掴み掛かろうとするも、ぐっと我慢をして耐える。再び騒ぎを起こしてクラレッタが戻ってくるような事態だけは懲り懲りだった。
マードックは恨めしそうに、双子を睨む。対し、二人は楽しそうに手を振っていた。
「キュロロ、助かったよ。面目ない」
マードックは項垂れるように肩を落とす。駄目なのだ、この二人には何を言っても応えないのだ。それよりも、彼女に助けてもらわなければ自分は今頃どうなっていたことか。
「誤解ならちゃんと自分で解けるようになければ駄目よ、マードック。特にあの子の場合はね」
子供のように、ポンッと叩かれる。年齢でいえば遥かに彼のほうが上なのに、まるで子供のような扱いだった。もちろん、嫌味な感じはない。
──あぁ、なんてことだ。
「キュロロよ、そうは言うが、あの状態のクラレッタ様に真っ向から向き合えるのはお前くらいしかできないと思うのだが」
動くことができなくなるのだ。足が竦むなどという程度ではない。イッキとフッキにしても、器用に避けるように逃げているほうが余程不思議なくらいだった。
「そんなことはないと思うわ。例えば、イッキとフッキに教わったらどう? 彼らは大丈夫そうに見えたけど」
「うっ!」
そうなのだ。この二人は要領が良いというのか、何でもそつなくこなしてしまうのだ。
……しかし、この二人に教わるというのは。
「む、無理だ。とにかく自分でなんとか解決できる道を模索することにする」
それに、聞いたところで真面目に教えてくれるわけなどない。期待するほうが間違いだというものだ。散々馬鹿にされてそれで終わりだ。
「そう? まぁ、追いつけるようにならないとね」
「うっ!」
今のは、何だったのだろう。ひょっとして、二人に追いつけるように、とでも言われてしまったのだろうか。
──確かに、なるべく考えないようにしていたのだが、まさか他人に言われる日が来ようとは……。
一通りショックを受けると、マードックは気持ちを切り替えて自室へと向かうことにした。
この後クラレッタのほうから今後の作戦が決められるだろう。それまでにちゃんと立ち直っていなければ。それが自分の仕事なのだ。
「フィアッカ、俺達は本当にこれでいいのか?」
脳裏に浮かぶにやけた顔に、マードックはそう問い掛けた。
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