二十二. 死神
かつて彼には、夢中にさせる存在がいた。
“夢中”というと非常に曖昧な言葉になるが、朝も昼も、そして夜も、加えて眠っている間でさえもそうなのだから、言い得て妙である。実際、寝ても覚めてもそれだった。
その出会いすらも運命……本気でそう思わせるくらいに溺れていたのは、もはや誰の目からも明らかだった。
「クローディア、今夜は月が綺麗だね」
「……そうだね。明日かも、いや、まだかな。明後日かもしれないな」
「うん、無茶はしないよ。あの人は、わからないけどさ」
「クラレッタ? フフ……心配いらないさ」
「僕達が果てる時なら、きっとまだまだ先だよ。フフ……フフフ……」
「心配しないで、ディア。僕は死なないんだよ……フフ……フフフ……」
薄暗い部屋からは、一人分の声だけがぽつりぽつりと、まるで誰かに話し掛けているかのように静かに外へと響いている。とても優しい声だ。
しかし、その声が聞こえてくると、巡回中の兵士達はこぞって息を潜めながら、そそくさとその場を離れていく。これが彼らの決まりだった。
「あの人はやばいよ……」
「近付くと命を取られるらしいぞ」
「声を聞くと呪われると聞いたことがあるよ」
「タフというか、剣で斬られても全く効かないらしい」
「不気味だよ……」
噂が噂を呼び、戦場では味方でさえ彼に近付く者は少なくなっており、いつしか彼は死神と呼ばれるようになっていた。
「フフ……フフフ……」
地下の一室からは不気味な笑い声がしばらくの間響き続け、その後、完全な静寂が訪れる。
これもまた……運命だったのかもしれない。
◇
最初に考えたのは、うまく逃げ切れたのかという心配だった。
しかし、次の瞬間には、まるで足首を掴まれて下へ下へと引きずり込まれるような悪寒が一瞬にして自分を呑み込んでいく。
──誰から?
──何から?
──どうして?
思いだそうと考えてみるが、何も思い浮かばない。
──記憶が……溢れてしまった?
全身には傷がたくさんできており、その体は倦怠感に包まれている。それはさしずめ、持ち得るエネルギーをすべて使いきってしまった後の空虚さともいえるだろう。
──自分は何かから逃げていたのか?
──もし、逃げているのなら、ここにじっと留まっていてはいけないのではないだろうか。
──私はどこを目指せばいいのか。
「わから……ない」
一度冷静にならなければいけないと必死に感情を抑え込む。何か一つ、一つでも思い出せれば、きっと落ち着くことが出来るだろう。
──エル?
しかし、考えれば考えるほど混乱は広がり、額からは知らないうちに汗が滲んで流れ、体はとても冷たいような感覚が支配している。まるで、今も記憶という砂が、指の間からどんどんと溢れ落ちていくような、そんな恐怖が絶え間なく彼女の背筋を冷やしているのだ。
「助けて……」
冷えた体に腕をまわし、自分自身を抱くようにして震えながら、消え入るようなか細い声で助けを求めた。
──エル。
何もわからない。忘れているのか、そもそも初めから知っていないのか。何かが耳に残っていたが、気に留める余裕など一切ない。むしろ、耳障りにすら感じてしまっている。
──エル!
ここにいてもおそらく何も変わらないのだろう。
彼女はなけなしの勇気を振り絞り立ち上がる。これから歩くのだ。
疲れた足で大地を踏み締めると、なんとか自分に語りかける。
「大丈夫。私はまだ大丈夫だから」
いつかその場所に着けば、自分はまたやり直せるのだろうか。
◇
「遅いですね……連絡もない。何かあったのでしょうか」
ブロンドの長い髪をさらうように何度も耳へとかけ直す。そんな仕草を繰り返す指先は、その迷いを体現するかのように止まることなく動いている。
窓の外、ここからでは見えぬ景色を眺めるクラレッタの瞳は憂いを帯びた光を宿していた。
──うまく進んでいるのなら……まだいいのだけれど。
どうにも不安が拭いきれずにいる。フィアッカだけなら心配もない。しかし、ゼフィーがいるとなるとそれが途端に心配へと変わってくる。やはり、連絡くらいは欲しい。
「ゼフィー……」
やがて一人では落ち着かなくなり、誰かに相談してみようと部屋から出ると、そこには見知った者達の姿があった。
「クラレッタ様、浮かない顔ですね。どうかされましたか?」
「マードックにイッキとフッキですか。……丁度探していたところなのです。よろしければ意見を聞かせてもらえませんか?」
居合わせた三人に尋ねると、返事も待たず部屋へ入るように促した。
「グランバリーへの偵察の件はご存知でしょうか?」
「ええ、フィアッカとゼフィー……あれ? ゼフィー? おかしいな、偵察のはずでは?」
「早速問題発生ですかね?」
「何をやらかしました?」
三人の反応を聞くなり、クラレッタは手で額を覆う。
「いえ……まだ何かあったかは、わからないのですが……ひとまず意見を聞きたくて……」
「そうでしたか。では、それはどういった事でしょうか?」
「先の話の続きになりますが、今朝方ゼフィーとフィアッカに偵察をお願いしたのです。しかし、一向に連絡がないまま、ついには夜中になってしまったもので……。皆さんは何かあったと考えるべきだと思いますか?」
クラレッタの問いに、双子がすぐさま反応する。
「大丈夫だと思いますよ。フィアッカさんのことですし」
「危ない気がしますね。ゼフィーのことですし」
「え?」
「だってフィアッカさん、単独任務は得意ですよね?」
「え、ええ。彼はうまくやっていると思うわ」
「でもゼフィーだよ? おっちょこちょいだと思いません?」
「え、ええ……。確かにそういった部分もあるかもしれませんね」
正反対の意見にクラレッタは困惑する。マードックを見れば、煮え切らぬ表情で二人を交互に見やっていた。
その間にも、双子は口論へと発展していく。
「フッキ! お前はフィアッカさんとゼフィーが失敗したと思っているのか?」
「イッキ! お前こそ冷静になれよ。上手くいっていないから何も連絡できないんじゃないのか?」
「いい加減なことを言うな! 上手くいっているからこそ連絡をする時間がもったいないんだ」
「一旦落ち着いてください。まだ何もわからないのですから」
今にも喧嘩を始めてしまいそうな二人をクラレッタは諌めると、窓から静かに外を指した。
「もう一度グランバリーを見てみましょう」
「そうですね。何か変化があればいいのですが」
「大丈夫だと思いますけどね」
「急いだほうがいいと思いますけどね」
「イッキ! フッキ!」
尚もぶつぶつと口を尖らせている二人をマードックが制止し、久方ぶりの静寂が戻ってくる。
「今夜は満月でしたか。とても綺麗ですね、なんだか少し不気味な位に……」
「クラレッタ様……」
「グランバリーは特に変化はありませんね。なにより真っ暗だ」
「まだ留守にしている可能性がありそうですね」
少し心配そうなマードックと、食い入るようにグランバリーを観察するイッキとフッキがそれぞれクラレッタへと視線を向ける。
「攻め込むなら早いほうがいいですね」
「救出するのも早いほうがいいですね」
「もう一度少数部隊を選定、派遣して救出、もしくは援護に充てるのも一つかと考えます」
クラレッタは一度考え込むように顎に手を当てると目を閉じた。瞼の裏にはまだ満月が残っている。
「攻め込む、ということは出来ません。この砦を空けるわけにはいきませんから」
「では、少数の部隊を編成致しますか?」
「部隊? いえ、救出のみを目的として精鋭による潜入を行いましょう」
「それなら、俺達にお任せください! なぁ、イッキ!」
「ああ、俺達に任せてください! なぁ、フッキ!」
即座に二人が反応し、我こそはと詰め寄るように一歩前へと進み出る。
「……二人では不安ですね。私も行きましょうか」
マードックは二人の首をがっちりと掴むと、強引に後ろへ引き戻した。
「いえ、あなた達はここに残ってください」
「まさか、クラレッタ様が?」
「いえ……彼女に任せてみようかと考えています。……キュロロに」
「キュロロが引き受けてくれますかね? よくフィアッカさんとはよく揉めていたようですけど」
「フィアッカさん、努力とか嫌いって言ってたからなぁ」
イッキとフッキがあーあ、と言わんばかりに顔を見合わせ、首を振る。
「大丈夫です。ゼフィーがいますから。それに例え嫌いな相手であったとしても引き受けてくれますよ、彼女は」
「とはいえ、一人で大丈夫でしょうか?」
「そうですね、人選は彼女に任せましょうか。もっとも彼女の場合、一人でも行ってしまいそうに思いますが」
クラレッタの言葉に三人が同時に頷いた。
遠くにそびえるグランバリー砦は、月明かりに照らされながらも不気味なほどに静かにそこにある。まるで何事も起こっておらず、ただいつも通りの姿で、何ら変わりなく、当たり前のようにそこにあるだけなのだ。
「グランバリー、一体どうなっているのかしら」
こんなに綺麗な満月だというのに、とぽつりと誰かが呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます