二十一. 前進
巻き上がった砂塵のカーテンには、月光に照らされた一匹の鬼が映し出されている。そのシルエットはナツノでさえ見たことがないものだった。
人型でこそあるものの、明らかにただのそれとは一線を画す生き物であるということは、決して想像に難しくない。というのも、それには天を突くような角があり、獰猛な牙があり、そして鋭利な爪があったからだ。
本来ならば無用な戦いは避けるべきであり、ナツノも当然そうすべきである。“鬼”と戦うことが得策であるとは到底思えないし、当然ながら危険である。しかし、彼は動けなかった。
というのも、どうしたことか先程からエステルの様子がおかしいのである。彼女からは動く気配が一向に感じられず、ナツノもまたその場を離れることが出来ずにいるのだ。
「エステル?」
少しの焦りを感じながらも、幾度となく名前を呼び掛ける。固まるように立ち尽くす彼女からは、まともな返事などあるはずもなく、段々と加速する心拍の音にナツノはたまらず顔をしかめた。
「それじゃない……違うだろう!」
ついに砂塵を突き抜けたメアリードが不規則に弾むような動きで迫り、隠れていたその全貌が次第に明らかとなる。その速さ故、はっきりとはわからなかったが、背には翼が生えているようにも見てとれた。
元々速かった動きが更に強化されていることを確認すると、ナツノはようやく覚悟を決めてシリウスを握る。そして、ようやくメアリードへと向き直った。
本当はどこかでわかっていたのだ。もうここからでは、到底逃げ切ることなど出来ないということが。
「……近接戦闘は避けたいけど」
それでも、なんとか一定の距離を保とうとするナツノを一瞬で見極めると、メアリードは迷うことなくエステルへと襲い掛かる。爪か、拳か、いずれにせよ、立ち尽くすエステルに凌げるとは到底思えぬ一撃だった。
「お前には、“守れ”と言っただろうが!」
「──いけない! 間に合うか!」
メアリードの動きに淀みはなく、瞬きのその一瞬にもエステルへ向かって飛んでいく。
ナツノは動きを止めると、その両手に魔力を集中させ、掌に風の精を集結させる。
「風扇……」
そのまましっかりと踏み込むと、勢いよく右腕を振り、続いて左腕も振り抜くと、大きく叫んだ。
「双覚螺旋!」
ナツノ自身の魔力が疾風となる。その周りには風の精を纏うように従えながら、猛進するメアリードを目掛け飛んでいく。
「見かけによらずいい魔法を使うな! エルマ、こいつもアタリかもしれないぞ!」
メアリードは切り替えるように、飛来する螺旋へと向き直ると指先に魔力を集中させて声を上げる。荒々しい態度とは裏腹にその動きは繊細そのものであり、ナツノは人知れず息を飲んだ。
「幻炎輪!」
やがて、掛け声と共に振るわれた鬼の腕からは大量の炎が吹き出し、それが輪を形作りながら飛来する疾風へと集まっていく。
ナツノはその様子を確認すると、意を決してエステルに向けての第一歩を踏み出すべく飛び出した。
彼の掌には、収束した魔力がまるで扇のように残っており、巻き起こる砂塵により可視出来るほどの歪みを形成している。
──シリウス、君は魔力を温存しておいて。
心の中で一方的に告げると、寄り添うような風の精を先導する。
「風の精よ」
目の前に風渦が発生すると、それを目掛けて跳び上がり両手の扇で羽ばたくように大きく飛んだ。
◇
──エルマが転移してこない。……少し遅すぎではないか?
炎が一つ目の疾風を飲み込んだ時、急激に冷静な感情が戻ってきたことを自覚する。自分は何をやっているのだろう。
どうも熱くなりすぎたな、とメアリードは小さく呟いた。
その気性の荒さ故にわかりにくいところはあるものの、元来、彼女は戦いが好きだというわけではない。その本心はただ龍を知りたい、というところに偏っているのである。
そもそも、龍に変身出来る者は限られている。それは魔法使いであれば大抵が知っている事実であり、言い換えれば、変身魔法とは修行を積めば誰もが何にでも変身出来るようになるわけではないということを意味している。
──この惑星には、“それ”がいる。
ようやく龍の気配を漂わせる惑星を見つけた時、メアリードは感動でうち震えた。そして、何か手掛かりが見つかるかもしれないと喜んだ。そうしてやっとの思いで飛び込んで来たのだ。
その後、少々の悶着はあったが、ようやく“龍”を見つけた。見つけることが出来た。凛として立つその龍は、大勢に囲まれながらも表情を変えず、それでいて今にも全てを壊してしまいそうなほど、深く暗い表情を醸しながらも実在したのだ。
困っているとは思わなかったが、放っておけない儚さを感じたことをよく覚えている。
──あれが……私の龍。
そこですかさず助太刀に入ったつもりだったが、何故か敵意を向けられ、挙げ句には戦うことになってしまった。
戸惑いはあったが彼女の想像通り、その強さは本物だった。気が付けば、つい我を忘れて戦うまでに没頭してしまっていたのだ。
──エルマは無事なのか。
メアリードは意識を再び外へ向けた。
二つ目の疾風が迫ってくるのを確認すると、飛び上がることでそれを回避する。あれは動きを止めるための意味で放ったのだろう。
不規則に……まるで意志を持つかのように幻炎を避けてくる風刃を見送りながら、メアリードは目でナツノを追った。
驚くことにナツノの姿は既にエステルへと近付いており、彼女を守るようにその身をメアリードとの間に滑り込ませている。
「仕方ないけど、少しだけ見せようか。……敵うとは思っていないけれど」
月光に照らされたその姿は、普段の彼とはまるで別物だった。
◇
「そろそろいけるか?」
早々に支度を済ませたフリットが、確認するようにゼフィーへ振り向いた。
「うん。大丈夫、いけるよ」
日は既に落ち、月の光だけが眩く辺りを照らしている。今夜は満月だった。
「正面からは行かない。忍び込んで救出することが目的だからな」
ゼフィーはその言葉に頷くことで返事をする。
「もし見つかった場合は俺が相手をする。お前は救出に専念すればいい」
「……ううん。一緒に戦うよ」
──もう一人で離れるのは、嫌だった。
「俺はいざとなったら一人のほうが逃げ切れるんだよ。庇ったりは出来ないからな」
「わからないよ!」
──何故、皆一人になろうとするのだろうか。それは、私が足手まといだからだろうか。
「大丈夫だ。俺には仲間がいる。捕まっても平気なんだよ」
「なんで嘘付くんだよ……。仲間なんているわけないよ。そもそもグランバリーに行くことなんか誰も知らないじゃないか!」
「……嘘じゃないさ。なにせ、俺の仲間は──魔法使いなんだ」
そう言うフリットは、後ろを向いて頭を掻いた。
「だからお前は気にせず救出に行けよ。大丈夫だ、見つかるようなヘマはしない」
もうそれ以上は何も言えず、ゼフィーは押し黙る。そして、ただ離れていく背中を見つめながら、彼女は願うように天へと呟く。
「……無事にみんなで帰れますように」
流れ星は見つからなかったが、そう願わずにはいられなかったのだ。
◇
相変わらずグランバリーは静かなものだった。
前に来たときはすぐに見張りに見つかったものだが、夜ということもあるのだろうか、すんなりと近付くことが出来た。
「あそこに見張りにがいるな」
「え? ……あ、ほんとだ」
フリットが指を差す方には、確かに見張りらしき者が眠たそうに欠伸を漏らす姿が見える。
「よし、あそこから侵入する。何か投げ入れるような武器はあるか?」
「うーん、ないかな」
「仕方がない、近付いてみるか」
フリットは素早く砦に忍び寄ると、指を引っ掛けながら器用によじ登り始める。
「よし、私も」
ゼフィーも近付くが、そこで唖然と立ち尽くすことになる。どうすれば壁を登れるのか全く見当がつかなかったのだ。まるで、指を掛けるようなところなど見当たらない。
困ってフリットを見上げるとすぐに目が合う。間髪を入れずに、助けてと目配せをするが、あろうことか睨まれてしまう。まるで、待ってろと言わんばかりの形相だった。
「うぅ……」
ゼフィーはそのままで闇の中へと消えるフリットを見送ると、仕方なく腰を下ろして待つことにした。登れないのだから、今はどうしようもない。
ほどなくして、何かが視界の端でちらついたような気がしたので探ってみると、何かロープのようなものが手に触れた。どこかで固定されているようで、少し引くとしっかりとした張りが出来る。これを伝えば登れるかもしれない。
「……ふっ! ふっ!」
慣れぬ動き故に力が入り、少しの声が漏れ出てしまう。じんわりと響く自身の声を感じながらも、彼女は懸命に砦を登ることに集中した。
出てしまうものは仕方がないのだ。ここまでくれば後は、バレぬよう祈りつつ登りきるだけなのだ。
ゼフィーがようやく到着すると、早速フリットが出迎えてくれた。呆れた顔をしているのがわかったが、今は気付ぬ振りをしておくことにする。
「立派な隠密になれるぜ」
更に痛烈な皮肉を言われ、少しばかり腹が立ったが、彼女もここでむきになり大声を出して台無しにするほど馬鹿ではない。一生覚えておこうと心に誓い、ニッコリ笑って手を合わせた。
改めて周囲を見渡してみると、見張りと思われる者達が数名倒れている。
「ゆっくりしてると起きてくる。さっさと行こうぜ」
フリットは手際よく周囲を確認しながら、素早い動きで先へ先へと進んでいく。夜間は手薄になっているようで、特に誰にも遭遇しないまま城内へと侵入出来そうであった。
「さて、ここからどうするか」
「どこに捕らわれているか、わかりそう?」
「いや、片っ端から探すしかないだろう」
「うーん、地下に牢屋があるって聞いたことはあるけど……」
「わかった。どの道他に当てもない、一度行ってみるか」
フリットは止まることなく進んでいく。何度も置いていかれそうになりながらもゼフィーは必死に後ろを追い掛け続けた。
「ほんとに人がいないね」
ゼフィーがぽつりと言った。その音さえも大きく聞こえる。
「確かに。……まるで地下へと誘導されているような気分だ」
フリットは立ち止まると振り返ってゼフィーと目を合わせる。
「それでも進むか?」
「どうしよう……」
「シャキッとしろよ。決めたんだろ?」
「……うん! 進もう!」
そのまましばらく無人の廊下を駆け抜けると、今度は新たに地下へと続く階段が現れた。
「ここにフィアッカさんが……!」
嫌な予感が走り、フリットは横目でゼフィーを確認する。やはり、今にも飛び込みそうな勢いで階段を睨み付けている。段々と興奮してきたのか、うって変わって冷静さを失っているようだった。
「落ち着けよ。何があるかわからないんだぞ」
「そうよ、彼の言う通りよ」
どうやら頭上から声を掛けられたらしい。フリットはため息をつくと上を見上げた。
「なるほど、そうやって潜入するのが正しいわけか」
「まさか堂々と廊下を進んでくるなんて誰も思わないでしょう? ある意味ではそちらの方が正しいかもね」
「……まぁな。それより聞きたいことがある」
「……奇遇ね。私も聞きたいことがあるのよ」
二人ともが一呼吸を置くと、それぞれが同時に切り出した。
「──お前はどっちなんだ? ミレディ」
「──あなたはどちらなの? フリット」
顔を覗かせたミレディはフリットを見て嬉しそうに微笑んだ。
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