九. 郷愁
夕刻と共に徐々に景色が変わっていく。瞳から溢れるようであり、そうならない“何か”を通して見る世界は酷く不安定だった。
しかし、一度それが流れてしまうと、今度は荒野に残る水溜りが夕陽を浴びて鮮やかに輝く。
──綺麗。
そう思った頃には、再び世界が揺れていた。この繰り返しである。
「バルビルナへ行かなくちゃ」
やがてエステルはふらつく身体に鞭をいれるように歩き始める。熱がでているのだろうか、視界はぼやけ身体はうまく動かない。
「エステル、悪いが連れて帰るぞ」
上手く撒いたつもりだったが、どうやら追いつかれてしまったようだ。
「フリット、あたしは行かなくちゃ」
「ボロボロで何言ってるんだ」
「バルビルナへ……行かなくちゃ」
その時にエステルはようやく気付いた。頬を伝うものがあるということに。そして、それが涙であるということに。
自分はどうしてしまったのだろうか。
立ち尽くし、涙で滲んだ瞳から見る水溜まりは、驚くほど幻想的で儚いものに見えた。これも涙もきっとすぐに消えてしまうのだろう。
だったら──
──雨は……誰かの涙なの?
そう思わずにはいられなかった。
◇
バルビルナではメンバーの選抜が行われ、各々が迎撃体制を整えていた。もちろん、ナツノもそうだ。
話し掛けることはなかったが、何度もシリウスに手を添えては軽く撫でている。どこか落ち着いていないのかもしれない。
敵将のイルヴァルトはその強靭な肉体の故、どんな不利な状況でも前進を止めないといわれている。タフで強いというそのシンプルさは意外にも対応が難しく、戦場で対峙するとなかなか無事ではいられないのだそうだ。
そして、ナツノ、イルイ、ルルカス、シグマを中心とした囮部隊は、敵からよく見えるよう少し高い位置に布陣を取り開戦を待っている。
「皆、引き付けることに集中することを忘れるな。突破されても構わないが、可能な限りは耐え目標地点に誘導せよ」
シグマが鋭い目で檄を飛ばす。
「突破してきた者は我々の部隊が引き受ける。任せてほしい」
「僕らも援護しよう」
一足先に駆けつけてきたグィネブルの将、ソルシャッテが名乗りを上げ、傭兵のリファルスも弓を構えながら片目を閉じる。
「囮部隊の撤退の合図はトレイズに任せる。状況を見て判断を頼む」
「了解したよ、うん」
「以上。各自、御武運を!」
シグマが拳を胸元で握り締め、続けて高らかに掲げた。
◇
「マグナード砦、開門!」
報告が上がると同時に、シグマは腰からサーベルを引き抜くと天に向かって突き上げた。
大きく湾曲した刃が夕焼けを反射させ華麗な茜色を演出する。
「開戦だ! 喰らうぞ、マーキュリアスを!」
その掛け声が合図となり、兵士達は飛び出していく。士気は相当に高いだろう。
その様子を眺めながら、ナツノは心の中で呟いた。
──思ったよりも状況が確認しづらいな。
少しの不安を拭いさるように汗ばむ手で強くシリウスを握りしめると、向かってくる相手に注意を移す。思ったより、自分はこの中に紛れていないのかもしれない。
「風の精よ」
少しばかり集中し、風の精をシリウスに纏わせると、そのまま語りかける。手元に流れる風の波が少しの安心感を与えてくれる気がした。
──シリウス、この状態を維持するよ。
──承知した。サポートしよう。
確認するが早いか、ナツノは混戦の渦中へ飛び込んでいく。悩むのも少し違う気がしたのだ。
視界には既にマーキュリアスの兵が紛れており、ここは戦場なのだということを再認識させられる。初陣の洗礼のようなものかもしれない。
しばらくはシリウスを振るうイメージを強く持つことを心掛けた。いくら相手が頑丈であっても、顎に入れさえすれば崩れるだろう。後は実際自分はどれくらい戦えるかを見極めていかなければならない。少なくとも、狙った通りに動けないようではここに来た意味も薄くなる。
幸いなことに、風を纏ったシリウスは速度を帯びて真っ直ぐにマーキュリアス兵の顎へと向かってくれるようだった。ある程度ナツノの意を汲んでくれているのかもしれない。
その一撃のあまりの早さにマーキュリアスの兵達は反応することもなく崩れ落ちていく。そう、意図的に相手の近くで加速をさせているのだ。
一人が倒れてもまたすぐに次の兵が剣を振り下ろしてくる。それをまたシリウスで払い退け、続け様に打撃を加えてはまた構える。この流れをしばらく繰り返す。
あちこちで同じような戦闘が繰り広げられており、既に誰がどこにいるかを確認するのも容易ではなくなってる。
もうどれほど時間が経っただろうか。何度目かの集団の足元を目掛けて、シリウスを思い切り振り抜くと、鈍い音が響き渡り密集地帯に少しの間の隙間が生じ、見知った姿を発見する。
少し離れたところで奮闘するルルカスとイルイもようやくナツノに気が付いたようだった。
「ナツノ! こっち」
イルイがナツノに合図を送る。シリウスを頼りになんとか二人に合流すると、戦線の状態を確認する。
思ったより突破されてしまったようだが、ソルシャッテやリファルスが上手くやってくれたのだろうか、目標地点までは突破されていないようである。
「そろそろ撤退の合図がくるかもしれない」
ナツノはルルカスとイルイに目で合図を送る。
「撤退せよ! 各自速やかに撤退するのだ!」
「ルルカス! イルイ! 退くよ!」
「おうさ!」
「退くの」
ナツノは大きくシリウスを振り回すと勢いよく前方に叩き付ける。横目には、ルルカスやイルイも同様に周囲への牽制を行っているのが見えた。
◇
作戦本部ではシゲンが戦場を眺めていた。
シンプルな作戦だが、現状を見る限りイルヴァルトは罠に掛かるだろう。しかし、大事なのはその後である。
というのも、罠に掛かったところでイルヴァルトが簡単に退くとは到底思えないのだ。では、果たして彼を仕留める者がいるだろうか。
「……戦場に出ることになるやもしれぬな」
シゲンは一人呟いた。
先日負傷した右脚はそう重症というわけではない。多少の痛みは残るが、動こうとすれば特に問題なく行動出来るだろう。
──あの構えは……。
そこでふっと思い出す。
フリットと名乗ったあの青年は、まだまだ荒削りではあったものの将来はきっと大物になるだろう。
飢えた獣のような眼差しを思い浮かべると、シゲンは一人ほくそ笑んだ。
「また相見えるなら、それも良かろう」
彼はそこに、自身とは袂を分かつようになった息子の姿を思い出していたのかもしれない。
◇
「な……どうなっている!」
マーキュリアス軍は突如混乱に見舞われていた。
勢いのまま順調に追撃をしていたはずが、いつしかぬかるんだ足場に気をとられてしまっており、ついには四方からの挟撃を受けているのである。
形勢はすでに防戦一方となり始め、士気は壊滅的なダメージを受けている。もはや突破を試みようとする者はおらず、更には武器を手放した者さえ見える。
勝敗が決したと思われた頃、一つの影が沼地を飛び出した。
「シグマ! 出てこい! 先程の決着をつけるぞ!」
その声が戦場に響き渡ると、一度は戦意を失った兵達が再び動きを取り戻していく。
「ちっ、やはりあいつを倒さねばならんか」
シグマは舌打ちすると、周囲を見渡し声を荒げる。
「ルルカス! ナツノ! 手を貸せ! 指揮官を喰らうぞ!」
「任された!」
「すぐ向かうよ」
返事をすると二人は再び戦場に飛び込んだ。
「シグマ! 何人来ても同じだ!」
すでに沼地を突破したイルヴァルトは槍を頭上で振り回すと、夕暮れの戦場に咆哮を放つ。
最初に仕掛けたのは、ルルカスだった。
滑り込むような勢いから飛び上がると頭上から鉞のような戦斧を叩き込む。
「ふん!」
渾身の一撃は目にも止まらぬ速さに達し、イルヴァルトに向かって急降下をする。しかし、イルヴァルトはその一撃を身体を後方に半歩ほど反らすことで回避を行い、今度は攻撃に転じてみせた。
「当たらぬ! そして……畏れるがいい!」
空振りにより、無防備になっているルルカスへ光のような鋭い突きが襲い掛かる。
「武器を無力化出来れば!」
ナツノはルルカスを狙う凶刃目掛けて横からシリウスを割り込ませる。
──折る! ……弾く!
「飛べ! そして……戦け!」
ルルカスを狙っていたはずの槍は軌道を変えると流れるようにシリウスを避け通り過ぎる。そして、次の瞬間にはナツノの目の前に、イルヴァルトの足が迫っていた。
「避けられない!」
「させるか!」
回し蹴りが直撃するかと思われた瞬間、シグマがナツノを引き寄せる。
間一髪のところで回し蹴りから逃れたナツノはイルヴァルトから少し距離を取って体勢を整えシグマに礼を言う。
「助かったよ」
「すぐ攻めるぞ! ついて来い!」
そう叫ぶとシグマはイルヴァルトに突進する。まるで雷のような速さで距離を詰めると、腰よりも低い姿勢から足元目掛けてサーベルを凪ぎ払った。彼もまた、とびきり速い。
イルヴァルトがすかさず飛び上がって回避すると、シグマは叫んだ。
「いいか! 一撃でやれ!」
次の瞬間、反射的にナツノは渾身の一撃を空中のイルヴァルトに向けて振り抜いた。
「守っても無駄だ! 風の精よ! 絡み取れ!」
咄嗟に槍で防御を取ったイルヴァルトの手からは、あえなく得物が吹き飛ばされる。それも、不自然に。
「お前……今……一体何をした?」
それでもすぐに体勢を整えながら着地をしてみせ、イルヴァルトはナツノを睨み付ける。また、シグマやルルカスも動きをも止めてしまっていたらしく、一瞬の静けさがこの場を支配していた。
「この隙は逃さん!」
その声を区切りに再び時が動き始めると、ルルカスが距離を詰め、戦斧を振り上げながらイルヴァルトに猛進する。
「二度と忘れん!」
忌々しげにそう告げると、イルヴァルトはすばやく撤退を始める。追撃する者はいなかった。
「皆の者! 此度の戦は退却だ!」
その号令を区切りに、残っていたマーキュリアス兵も一斉に撤退を始めていく。その引き際は見事であった。
「防衛は果たされた! 皆、御苦労!」
ナツノは思わず倒れこんだ。
疲れて見上げた夜空にはすでにいくつもの星が煌めき始めている。いつの間にか夜になっていたらしい。
何だかもう随分と遠いところに来てしまった。本当にこれで良かったのかは誰に聞けば分かるのだろうか。トウカなのかそれとも……。
──この星もまた、魔法だろうか。
伸ばした手は空を掴んだ。
その後もバルビルナは歓声に包まれ、しばらく止むことはなかった。
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