四. 英雄
ある国境付近の砦では、厳めしい一人の老将がまだ多くの若く垢抜けない新兵達に訓練をつけていた。ここではよくある風景である。
時折辛辣に叱咤する声も聞こえており……いや、この場合は激励ともとるべきか。ともかく、相当に過酷な訓練であるのは間違いない。しかし、そんな中でも絶えず活気のある掛け声が轟いており、図らずとも現場の士気の高さが窺える。これがもし敵方まで響いていれば、気軽に攻めてこようとは誰も思わないだろう。
ここバルビルナ砦は、マーキュリアス王国とグィネブル王国の国境に位置している。
「マクナード方面、異常なし!」
現在、両国の関係は良好とは言い難く、ここ最近では小競り合いも頻繁に起こっている。
有事の際には、いわばここが最前線ということになる。
──綺麗だなぁ。
見張り台から一望出来る景色は、グィネブルに住む者にとって憧れの地であり、そして、羨望の地でもある。この場所に登るものは、必ず一度はそう思う。
そう、ここバルビルナはグィネブル王国の拠点だった。
最前線であるが故か近年は常に人員不足に悩まされており、ここしばらくは若者が増えているのにもそういった事情がある。だが、実はそれ以外にももう一つ大きな理由があるらしい。
というのも、ここには"生ける伝説"が実在しているからだ。
彼に師事する為に訪れたという者は、言葉にしないだけで相当な数にのぼるだろう。
やがて訓練が終わると、その老将は新兵と和やかに談笑をはじめる。
良かったこと、反省すべきこと、覚えておかねばならぬこと。日々の訓練から得られることは沢山あるということ。彼が伝えること多くある。
今でこそ、新兵に語りかけるその表情は温和そのものであるが、若き日の彼を知るものからはそれは想像も出来ない光景だろう。
というのも、かつては強さや称号、そして新たな技術を求め日夜闘争に明け暮れる鬼の様な、それはもう荒れきった生活を送っていたらしい。
現に、未だ彼を恐れる者は決して少なくはないと聞く。
戦場で舞い踊るような動きは流れ星を連想させ、いつしかそれは、流れるようなつかみどころのない剣技、とまで称えられるようになった。
老将は晴れ渡る空を見上げて思う。
「ふむ、決戦の日は近い」
彼の名は、流剣。バルビルナの英雄と呼ばれている。
◇
軽い衝撃とともに一気に熱気が身体を襲う。あまりにも一瞬の出来事だったので、まるで炎の中にでも放り込まれたのかと錯覚してしまいそうだった。
──思ったより暑い。
どうやら、転移はうまくいったようだ。
ナツノは注意深く周囲を見渡しながら、状況を確認する。
自分はクレハの転移魔法により、無事にヘブンリー・ブルーに着いたようだ。
──トウカは?
周囲を見渡すが、やはり近くにはいないようだ。あわよくば、とは考えていたが、どうやらそう上手くはいかないらしい。
トウカの無事を願いつつ、今度は狼の精霊のことを思い出す。
「シリウス、いるかい?」
「……ああ」
確かめるように呼んでみると、背後から落ち着きのある返事が返ってくる。今更ながら、一人ではないことに少しホッとしたように思う。
「こちらの世界で魔法の存在を確認できるまでは、我は姿を隠すように努めよう」
「そうだね、魔法があるかもわからない。まずはどんなところかを確認しておかないとだね」
姿は見えないが、確かにそこにいるのはわかった。簡単にシリウスと現状確認を済ませる。
「ナツノよ、魔法樹を召喚しておくのだ」
「そうだった。うまく出来るかな?」
ナツノは指先に魔力を集中させると魔法樹を呼び出すことにする。呪文は必要ない。クレハが仕込んでくれたものを発動させるだけだ。
魔法樹は魔法使いの技量により召喚時の大きさは異なるが、成長することで膨大な魔力を宿すようになるといわれている。
「……よし、出来たぞ!」
ナツノの魔法樹は小さなものであったが、ひとまず成功したと言える
安堵の溜息をつきながら、続けて深呼吸をし、シリウスに声を掛ける。
「さて、これからどうしようか」
ところが、シリウスからの返事がない。
「ん?」
不思議に思うナツノが振り返ると、予想だにしない返事が返ってくる。
「折角だが、その植物は育たねぇ」
驚くナツノには目もくれず、声の主はずかずかと魔法樹に近付いていく。
──気が付かなかった。いつからいたのだろうか。いや、この場合はむしろ……人、がいた──。
「この植物に名前はあるのか?」
「名前? 特にはないよ。知っているのは大きな樹に育つということ。それだけさ」
「ははっ、お前も物好きだな、この大地で樹を植える奴がいるとはな。……マーキュリアスなら放っておいても育つだろうに」
そう言うと、その男は悲しそうに微笑んだ。
「シグマだ。綺麗な花が咲くことを祈ろう」
そう言うと、にやりとした。
「ありがとう」
ナツノは真っ直ぐシグマを見つめる。
「でも大丈夫だよ。必ず育てるから」
シグマは笑いながら、何故か首を横に振った。
◇
シグマと名乗る男と別れると、ナツノはシリウスと今後の方針を考えることにする。
「どうやら、荒れた地の方に来てしまったようだね。こうなっているとは思わなかったな」
「しばらくはここを拠点に行動するしかなかろう」
見渡す限りは荒野が続いており、まるで何も見当たらない。本当に人がいるのか? と思う部分もあるが、先程既に会話まで交わしているのだから、それについては疑う余地はなさそうだ。
自らが召喚した魔法樹は、どこか少し頼りないように見える。広い荒野にぽつんとあるのだから、それも仕方がないのかもしれない。
「さっきの人、武器や防具を着けていたね」
「やはりこの世界は、紛争があると見てよいだろう」
ナツノは青く澄んだ空を見上げる。
「魔法樹は知らなかったようだね。いや、感じなかったというのかな。うん、魔力を感じていないのかもしれない」
「同意である」
それでも今はなるべく魔法は使わないほうがいいかもしれない。何せ情報が少ない。
「とりあえず、周囲を探索してみようか。今は少しでも情報が欲しいな」
魔法樹からの魔力を感知することが出来たので、こちらに帰ってくることは大丈夫だろう。へまをして帰れなくなることはなさそうだ。
まずは、先程シグマと名乗った青年の向かった方角に向かってみることにする。何かしらあるとすれば手がかりはそこしかないだろう。
何せ、見渡す限りはただ荒野が広がるばかりである。気を抜くと、本当に真っ直ぐ歩いているのかすらわからなりそうだった。
何時間歩いただろうか、辺りが暗くなる頃にようやく街が見えてきた。
◇
その街はユノというらしい。
豊穣の国マーキュリアスにも接しているようで、数多くの旅人が訪れ交易で賑わった街だという。
街の上層から世界を見渡すと、水や植物に溢れた潤沢の大地が一望出来る。また、反対を向くと、一面に荒野の枯渇した大地が見える。まるで天地の分かれ目を見ているような気分だった。
ナツノは思わず息を止めた。
「ねぇねぇ、お兄さん! 珍しい格好してるね!」
ふと、近くで誰が話をしている。
「ねぇ、どこの街から来たの? 旅人なんでしょ? やっぱりリンドバルナかな?」
……やはり旅人が多い街なんだろう。
ナツノは気に留めることもなく、熱心に街の周囲を確認する。
おや? 少し離れたところで火が上がっているのが見える。夜営地だろうか。やはり戦が──
「ねえってば!」
今度はやや強い口調の声が聞こえた。
……微かに声も聞こえるし、最前線となるのかもしれない。
「おい!」
「ひょっとして、僕?」
ナツノは振り返り、少女に声を掛ける。
「ここには他に誰もいないしぃ!」
ナツノは周りを見渡して誰もいないことを確認する。
「そうみたいだね」
どうやらこの少女は自分に話し掛けていたようだ。
見たところ、十八歳くらいだろうか。やや高い声で小柄な印象を受ける。動きやすそうに軽装に身を包んでいるところから、この娘も武器を持っていてもおかしくないだろう。
「じゃあ僕の質問にも答えてもらえるかな?」
ナツノが声を掛けると、彼女は大きく目を見開いて数秒固まった。そして、更に大きな声で、もはや叫んだような声になり訴えてきた。
「まだあたしの質問には何も答えてもらってないんですけど!」
「そうだったかな?」
「そうだよ! そうだ!」
ナツノは少し考えると口を開いた。
「少し落ち着こうか」
次の瞬間──
「ふ・ざ・け・ん・なーーーー!」
大地を切り裂くような雷鳴が、夕焼けに染まるユノの街を直撃した。
◇
「驚いたよ。君の声は魔法みたいだね」
ナツノは再び少女に顔を向ける。今度は二人でベンチに腰掛けた状態になっている。
「魔法?」
「うん、とても……とても大きな力だよ」
ナツノは少女に微笑みかける。
彼女にはわかるだろうか。
「それで、どうかした?」
彼女は額に手を当てると、なんとか気を取り直して話を始める。
「見慣れない服装だと思って。お兄さんも旅人、なんでしょ?」
「うーん、そうなるね。ここには初めて来たんだ。君も?」
「んーん、あたしはエステルっていうの。この辺りに住んでるよ」
「そうなんだ。じゃあ、少し教えて欲しいんだけど」
するとその時、かすかに遠くから人々の雄叫びが聞こえたような気がした。
「んー、まだ耳の調子が戻っていないようだ。人の叫び声が聞こえるよ」
ナツノは微笑むとエステルと名乗る少女に話し掛けた。
「違うよ、たぶん始まったんだと思う」
「なにかあるのかな?」
「たぶん、この方角はバルビルナだと思うけど──」
エステルは物憂げに呟いた。
「戦闘だよ」
◇
バルビルナ砦では、熾烈な戦闘が繰り広げられていた。
夕刻に紛れて、マーキュリアス軍がグィネブル軍へと奇襲を仕掛けたのだ。
ナツノは砦を見下ろせる崖の上から、戦況を確認すべく戦場に目を走らせている。この戦闘で一体何が起こるのか、また、どういった手段で行われるのかを知る機会でもあるからだ。魔法を使う者も現れるかもしれない。
奇襲とはいえ、慌てふためく兵士が多いようで、攻められていると思われる方がじわじわと崩れかかっている。
中には出鱈目に剣を振り回す者さえいた。これでは戦陣を布くこともままならないだろう。
離れた場所にいるナツノからは、最前線のわりにはどうにも経験が浅い兵が多いようにも見え、深刻な人手不足が窺えた。集団の利を活かせているようには到底見えないからだ。
──さて、どうしたものか……。
ナツノは思考を巡らせる。これは加勢すべき事態なのか?
そうこう悩んでいる間に、不意に戦場の動きがピタリと止まる。
そのあまりの違和感には、思わず時間が止まったかのようにも感じられた。
──何かが……いる!
そして、膠着状態の戦場にまるで流れ星が降ってきたかのように、静かに、そして、確かな声が響き渡った。
「我が名はシゲン。我が剣は未だ敗北を知らず」
老将──シゲンは舞うように剣を構えた。
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