五. 風の精
辺りはすっかり闇に包まれ、見上げればたくさんの星が舞っている。いや、星はただそこに在るだけだ。大地が……見る者が、はたまた自分が、勝手にそうさせているだけなのかもしれない。
自身の鼓動が痛いほど耳を打つ感覚が心地好く、つい我を忘れて浸ってしまう。……いや、忘れたかったのかもしれない。
──手を伸ばせばどれかに届くだろうか。
一度目を閉じた後、彼は思い出したように視線を戦場へと戻す。
鉄壁を誇るというグィネブルの砦、バルビルナ。この場所にはやはり、鬼がいる。
砦の番人である“バルビルナの英雄”シゲンは、やはり今宵も我らの前に立ち塞がってきた。それも、噂に違わぬ化け物として──だ。
いつだって、誰にとっても、このバルビルナの壁は高い。しかし、この壁を越えねば、安心して過ごせる世界は作れないと皆がわかっている。だから無茶でも挑むのだ。
試練だと思えば幾分かは気が紛れるのだろうか。そう、我々は勇者なのだ。……何故なら、奴は“英雄”などではないのだから。
老将が舞う度に、悲鳴の嵐が吹き荒れる。
自分達は何と対峙しているのであろうか。確か先ほどまでは、こちらが優勢であったはずだが……いつのまにか幻でも見せられているというのだろうか。それとも、悪夢といえばいいのだろうか。
彼には、皆の混乱が手に取るようにわかっていた。何故か? 簡単である、皆がそうであるからだ。
どんな心構えをしていても、状況を理解するほどに頭が錯乱していく。感じているのは紛れもない恐怖だった。
「…………」
彼は物陰に潜むと、静かに短刀を投擲する。
狙い済ませた短刀は、音も立てず、煌めく一筋の光のように真っ直ぐと老将の背中へと駆けていく。
──キィィンッ!
渾身の一撃もたった一振りのもとに消えていった。そして、次の瞬間には迫り来る老将の姿が飛び込んでくる。
月光に照らされた刃がキラリと光を放ったとき、彼は流れ星を連想した。
──もう一度、昔のように皆で……
そんな願いを繰り返すうちに、彼は段々と少年に還っていた。
どこか懐かしい大勢の友人に囲まれて、彼はにこやかに笑っていた。
──ああ……こんなに心地よく笑ったのはいつ以来だっただろうか。
優しく微笑む彼の意識はそこで途絶えた。
◇
ナツノは考えていた。
果たして自分は何をするべきなのか。状況もわからないまま、どちらかに加勢をするのは正しいことなのか。わからない。
しかし、このままでは全滅するであろう者達をただ見ているだけという訳にもいかない。そう強く思う。
未だ動くことが出来ず、ナツノは黙って戦場を見渡していた。
「撤退だ! 各自速やかに退却せよー!」
ほどなくして攻撃を仕掛けていたほうから撤退指示があがる。それも、尋常でない慌てぶりだ。
──いつの間にか形勢が逆転している。
違和感はあった。空気が止まった様な……。
ナツノは改めて何が起こっているのかを確かめるべく戦場を見渡す。
「あれか!」
ナツノが見つけたそれは、常に血を纏うかのように流れていった。
◇
乱れきった兵達は撤退もままならなず、混乱のみが広がっている。戦う者、逃げる者、その両者を纏めようとする者は既に見当たらなかった。
それもそのはずで、その大半は修練を積んだ兵士ではなく、金に群がった傭兵達であったのだ。個々の能力は高くとも、一度崩れると脆いものである。
「……ちっ、仕方ねぇ!」
そんな中、一人の青年が老将目掛けて飛び出した。今、彼が見ている目の前でも、また新たに数人が崩れ地に伏していく。瞬く間の出来事である。
「あんたを止めなければこちらが全滅する! 悪いが先に相手をしてもらうぞ!」
「よろしい。名を名乗れ!」
シゲンは目を細めると、剣を構え直す。
老将の動きが止まると見るや、周囲からは逃げ出すように人が退いていった。助太刀をする者は当然いない。
「フリットだ! 最初から全力でいくぞ!」
フリットは両手の短刀を握りしめ、疾風の如く駆け回る。微かなステップの音のみを残し、彼の姿は闇に溶けた。
自信なら、少しはある。
──不意打ちだが……関係ない! 一撃で仕留めてみせる!
闇に紛れたフリットは、枯れた大地を一直線に強く蹴った。
加速すると同時に世界が遅くなり、自分がまるで獣にでもなったかのような、獰猛な高揚感が高まってくる。
──奴の背中は既に捉えた。後は!
「……!」
ところが、あと一歩という距離にして、ゆらりとシゲンが振り返る。長年の勘が働いたというのならば、それは流石としか言いようがなかった。
──気配を読まれたのか!
フリットは一瞬怯むが、それでも止まることはしなかった。一番いけないのは中途半端に近付くことである。
すぐに気持ちを切り替えると、走るような斬撃を纏い、歴戦の老将へと絡み付く。
──もうやるしかねぇんだ! 止まれねぇ!
──む! この動きは、あやつの。
互いの意識が交錯する。
やはり一刀は難なく受け止められるが、そこで幸運にもシゲンの動きが鈍りを見せ、続く二刀目がなんとかその右脚を掠めてくれた。
フリットは舌打ちをする。
──仕留め損ねた……! いや、逆だ。当たってくれた! だが、この調子なら戦えるかもしれねぇ!
フリットは短刀を逆手に持ち換え、その感触を確かめるように握り直すと、獣のように睨み付けた。
──何だか知らねぇが、押しきってやる!
「おかしな剣術を使うようだが、もう使う隙は与えねぇぞ!」
フリットの体が左右に揺れ、二刀は生きているかのように跳ね回る。そして再び闇に溶けると、今度は前傾姿勢で猛進した。
その体はまるで一陣の風のようだった。フリットは吹き抜ける。
疾風が迫る中、老将は静かに目を閉じていた。
「その油断が命取りであるぞ!」
叫び、目を見開くと、一気に剣を振り下ろした。
「なに!」
真っ直ぐに目の前を掠めた剣に意識を捕らわれ、フリットは思わず立ち止まる。
──しまった!
「流剣・安房千鳥」
動きの無くなったフリットに、四方からの連撃が襲い掛かる。
避ける術など、もはや……どこにあるのだろうか。
◇
攻めていた側が撤退をしていく中、殿を務めている青年の姿をナツノは追い掛ける。
彼は敗れるだろう。しかし、今は死なせるわけにはいかない。それは、ただの直感だった。
「シリウス! 彼を助けたい。協力してくれるかな?」
「任せておけ」
直後、精霊は二メートルほどの木製のスタッフへと形を変え、具現化する。初めての精霊の使役に、ナツノは密かに高揚していた。
まさに老将が青年に剣を振り下ろそうとするその瞬間に、ナツノはそれを手に高らかに叫ぶ。
「風の精よ!」
ナツノの魔力を受け集められた風の精が、まるで戯れるかのように戦場を駆け回っていく。無邪気に、そして力強く。
荒れた地には風の進行を妨げる物は少なく、それは戦場を一掃するかのような暴風となって通り過ぎていった。
「助かったよ!」
ナツノは戦場へ駆け出していた。
少し遠い。急がなければ間に合わないだろう。
先ほどの一発で老将の動きは止まったようだが、流石というべきか、早くも体勢を立て直しつつある。対し、青年は……まだ立てない。
──ならば!
「風の精よ!」
今度はその青年を目掛け、ただ真っ直ぐにそれを投げつけた。
◇
フリットの体は突然の暴風に宙を舞っていた。文字通り吹き飛んでいた。
奇跡というべきか、既の所で目を回すことは避けられたが、もしそうなっていても決しておかしくはなかっただろう。それくらいにぶっ飛んでいた。
立つことは出来なかったが、倒れたフリットは額に滲んだ汗を拭う。
──あの時、飛ばされなければ……確実にやられていた。
思い出すだけで心拍数が上がる。そして、ふらつきながらも立ち上がると、改めて周囲を見渡した。追撃はなさそうである。
「やあ、無事かい? ここは逃げるよ。ついてこれるかな?」
突然の声にフリットは驚く。彼は風と共に現れたとでもいうのだろうか。その全く覚えのない声に彼は惹かれた。
迷っている暇など今はない。フリットは差し出された手を躊躇なく握った。
「ああ、ありがとう。道はわかるのか?」
「誰もいないところならね」
「どこでもいいさ。ここはもうこりごりだ」
「流石にアレの相手は命がいくつあっても足りないからね」
そうして、二人は脱兎のごとく戦場を後にした。
◇
ナツノはユノの街の上層から街の外を眺めていた。この街は平和なようで、先ほどの戦場とは打って変わって、静かな夜になっていた。
「この街は中立なのかい?」
先に口を開いたのはナツノだった。
「ああ、少なくとも争いが起こっているのは見たこともないな。商人の小競り合い程度が精々だろう」
フリットは壁を背にし、慌ただしく行き交う商人達を眺めている。
「なぁ、偶然通りかかったっていう訳でもないんだろ? 戦場をうろついている奴がいるわけがねぇ」
「ん、偶然と言っても相違はないよ。もちろん、ただうろついていたわけではないけれど」
ナツノはバルビルナの方に目を向ける。どうやら風の精がまだ騒いでいるようだ。
フリットはそれ以上は特に何も言わなかった。
「……明日は少し天候が荒れるかもしれないね。あっちにも雨は降るのかな」
「ほとんど降らない」
フリットが訝しげな様子でナツノを見る。まるで、当たり前だと言わんばかりに。
「でも、明日こそは降るかも知れない。そうは思わないかい?」
「悪いが、とてもそうは思えないな」
「それもそうだね」
ナツノは少し困ったような顔で微笑んだ。
「でもね、ある日突然何かが変わるなんてことは、よくあることだと僕は思うよ」
ナツノは椅子を見つけると、腰を下ろして空を見上げた。
「実はこの街に来る前の荒野にね、樹を植えてきたんだ」
「樹? グィネブルの大地では育たないだろう」
「ここに来るとき、旅人にもそう言われたよ」
「誰もがそう言うさ」
フリットもまた育たない、とそう言った。彼の言うことは正しく、きっと誰もがそう言うのだろう。
グィネブルとは、水晶から見えた半分、すなわち枯れた地に付けられた名前なのだ。
ナツノは顔を曇らせる。
「でも、グィネブル……この大地に住む人は、きっと樹が育つことを望んでいるよ」
「だとしてもだ、いくら望もうがグィネブルで植物は育った試しがない。あの大地は生命を嫌う」
「大地はね、今はまだ迷っているんだ。僕はそう思う」
ナツノはフリットに視線を向ける。
「君の名前は?」
「フリット。そっちは?」
「僕はナツノ。少し、旅をしている」
ナツノはフリットに微笑んだ。
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