第34話 秘密の勉強会

 マンションのエントランスに入ると、華宮が立っていた。ご丁寧に、入口の方に身体を向けて。


 お互い同じタイミングで相手に気付く。あの女は、嬉しそうににっこりとほほ笑んだ。

 呆れながら、俺はゆっくりと近づいていく。


「アンタ、ストーカー体質だってよく言わないか?」

「ううん。まったく」


 笑顔のままに、奴は首を横に振る。


「二回も同じことをするんじゃねえ」

「同じじゃないでーす。前の時は外で待ってましたー」

「細かいことを……」

「えへへごめん。これは正宗君の得意技だったね」


 見当違いな謝罪も、この頃はもう慣れてきた。もちろん、人の都合を考えない押しかけにも。


「で、お勉強のお誘いか?」

「おおっ、なんでわかったの? エスパー?」

「休み時間に布石を打っておいたのはどこのどいつだよ……」

「なにそれ?」

「自覚無し、いや、そもそもわからないだけか。仄めかしてただろ、アンタ自身が」

「あー、ホノメカスね、ホノメカス。意外と美味しいよね」

「食べ物じゃない。文脈をずたずたにするな」


 話しているだけで疲れる。ただでさえ、ようやく長時間の拘束から解放されたばかりだというのに。

 バイトのない今日はゆっくりしようと思っていた。そのつもりで帰ってきたため、余計にくたびれた。ある種のぬか喜び、みたいな。


「とりあえず、上がってけよ」

「おっ、今日はやけに素直だねぇ。よしよし」

「いつまでもこんなとこで話してたら迷惑だからな」

「そういうことか」


 オートロックを解除して、先に中へ。エレベーターで一緒に上がっていく。

 

 部屋の鍵を開けて慇懃無礼に応対しながら、奴を先にリビングに通した。俺は一人キッチンへ。


「コーヒーは……飲めないよな」

「失礼な、あたしのことなんだと思ってるの!」

「高校生のなりした子ども」

「中身も高校生ですぅ!」


 怒鳴り声を聞きながらお湯を沸かす。棚からカップを二つ取り出して、インスタントコーヒーの粉を適当に。


「お待たせしました」

「わー、ありがとー。気が利くじゃん、正宗君」

「お褒めに与り光栄です」


 テーブルにカップを載せて、俺は離れたところに腰を下ろした。そのまま真っ黒なコーヒーを啜る。

 華宮もすぐ続いた。ちらりと観察していると、その顔がかなり歪むのがわかった。


 直ぐに立ち上がり冷蔵庫へ。兄貴たちが来たばかりだから、珍しく牛乳の買い置きがある。

 それと戸棚からスプーンとシュガーポットを取り出して、今度はあいつのやや近くに座った。


「アンタも使うか」

「うん。ホント優しいねぇ、キミは」

「ついでだぞ」

「そうだね、ついでだね」


 くすりと、見透かした風に、華宮は笑みを溢す。

 何を勘違いしているんだか。俺がちょっと濃いな、と思っただけだ。

 

 謎の沈黙がリビングに広がっていく。ただ時折響くは、カチャカチャという食器の音。時間がゆっくりと流れているように錯覚する。

 ペースを合わせて、奴とほぼ同じタイミングでカップを空にした。


「ちなみにこのまま帰る、ってのは」

「あたしの用事は済んでないから」

「そうか。……付き合ってやるが、これで貸し借りなしな」

「貸し借りって? あたし、キミから何も借りてないし、貸してもいないよ」

「わかってるくせに、とぼけやがって」

「気にしてるのは、正宗君だけだよ。あたしは、勝手にやってるだけだから」


 こいつはあんまり恩着せがましくない。ただ自分の好奇心を優先してるだけなんだろう。言葉通りに。


 借りを作りたくない、というのは俺の性分なのだ。なるべく人に頼りたくないし、迷惑もかけたくない。極端な言い方をすれば、信用できない。

 そこまでの境地には至っていないけれど。


 再びキッチンに戻り、台拭きを取ってくる。


「数学ってさぁ、あたし、一番苦手。正宗君はどう?」

「俺は別に。好き嫌いも、得意苦手もない。どの科目よ」

「なにそれ、勉強できる人みたいな言い方だね。みえはんなくても、だいじょうぶだよ」


 そのつもりはないのだが、華宮は冗談と受け取ったらしい。

 間隔をあけて横並びにそれぞれ問題集を広げる。黙々と問題をこなしていく。この単元において、難しいと感じるところはない。


 一息ついて顔を上げたところ、奴がこちらをじっと見ていることに気が付いた。


「ねー、なに? ホントは勉強できるキャラなの、キミ?」

「キャラってな……そもそも、できないなんて言った覚えはないぞ」

「でもしょっちゅう学校サボってたわけだしさ、だいたい不良ってそーゆーもんじゃん」

「誰が不良だ」

「そこーふりょーではあるじゃん」


 その言葉に、俺はたちまち閉口する。

 言い負かしたと思ったのか、華宮は勝ち誇った顔を浮かべた。


 自分で言うのも変だが、勉強だけはしっかりやっている。学力があれば、大学には行ける。高校受験と違い、内申点などという不確かなものは基本的には介在しない。

 ここではないどこかへ行きたい。そのためには進学が手っ取り早い。そういう単純な思考が、俺の中で非常に大きなウェイトを占めている。


「そっか、意外と勉強できるんだ。じゃあさ、こことか教えてよ」

「解答は見たのか?」

「もち。それでもわかんないから訊いてるの」


 本格的に問題集を受け取る。それは、俺がだいぶ前にやった三次方程式の問題だった。共通解に関する問題で、内容自体もそうだが、論述もちょっとクセがある。


 果たしてどこから教えたものか。人に教えるなんて、したことがない。往々にして、物事を教えるにはかなりの理解が必要。

 俺自身、そのレベルからは程遠い位置にあるのはわかっている。問題の構造をパターンとして暗記しているから。


 撥ね退けるのは簡単だが、放っておくのは気分が悪い。最悪、明日また数学教師にでも質問に行けばいい話だし。


 ということで、なるべく丁寧に話しを進めていく。表情を見ながら、独りよがりにはならず。時には、あいつ自身に考えさせて。

 かつて誰かにしてもらったように。


「なるほど、なるほど。ふっしぎ~」

「アンタな、わかったのか、ちゃんと」

「うん。なんとか。にしても、本当に意外。正宗君、教え方上手だったよ」

「社交辞令として受け取っとく」

「本心で言ってるんだけど」


 不満そうに、華宮は唇を尖らせた。

 逆に、真に受ける方もどうかと思う。それは自惚れ以外の何物でもない。


「昨日も思ったけど、正宗君、絶対みんなと仲良くやれるよね。こんな取り柄もあるんだしさ」

「そんなつもり、毛頭ないな」

「そうなの? どうして」

「理由はない。仲良くするのにも、しないのにも、な。くだらないこと話してないで、次の問題やってみろよ」

「……うん、そうだね」


 はっきりと見えてしまった。華宮が悲しそうな顔をするのを。

 哀れむような、というのは俺がそう感じてしまっただけだ。その本当のところは、この女しか知らない。

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