第33話 妖精の生態

 シャーペンを置くと、華宮が勢いよく机に突っ伏す。机が軽くずれて、ご自慢の長髪がパサリと垂れる。ご丁寧なことに、顔はぺたりと伏せて。


 窓からは夕日が差し込んでいた。三人しかいない教室の物寂しさがぐっと際立つ。


「つ~かれた~」

「お疲れさん。だいぶブラッシュアップできた感じっしょ」

「……俺がいた意味はあったのか?」

「何言ってんの、結構クリティカルだったよ、鹿久保」

「どーも」


 ほのかちゃん――水澤ほのかは爽快な笑顔を浮かべた。そこに嫌味な感じはまるでない。社交辞令ではなく、割と本気で思っていてくれてるのかもしれない。

 まあ役に立てたのならなによりだ。自身に、その実感はまるでないが。出てくるアイディアに、適当にコメントを入れてただけだ。


 聞いたところによれば、本来のクラT担当者は、水澤ともう一人いるらしい。さっきの昼休みに華宮を連れて行ってくれた女子だ。

 彼女は陸上部に所属。高体連が近い今、部活に集中したい。だから、華宮に白羽の矢が立った。

 これを、冗談めかしてあいつ自身が笑顔で語っていた。水澤の方は、かなり渋い顔をしていたけれども。


「久々にこんな頭使ったよぉ……」

「そうだねぇ。せっかくだし、あや。どっか寄り道してかないかい? 頭脳労働の後は糖分補給って、よく言うだろ?」

「おっ、いい考え。さっすが、ほのかちゃん!」

「よせって。そうだ、鹿久保もどうだい?」

「悪いが俺は遠慮させてもらう」


 鞄を持ってそそくさと席を立つ。もう五時を回っている。急がないと、奈穂さんから雷が……落ちるだろうか。おっさんにはよく落ちているが、俺は怒られた例はない。

 それはへまをしないという意味ではなく、あの人が天使のように優しいという話だ。


「そっか。残念だな。意外とお前、色々と話せる奴だからさ、いい機会だと思ったんだけど」

「あれなんだよ、正宗君。バイトなんだ、今日。あと照れてるだけ」

「へーそうなん……バイト? 鹿久保がねぇ。ってかさ、アヤそんなこと知ってるなんて、やっぱり」


 そこまで言うと、水沢は顔を赤らめて黙りこくってしまった。言おうとしたことに、想像はつく。


 下衆の勘繰り、現実離れした妄想。作業中の尋問により、その疑いはとっくの昔に晴れたと思ったが。


「ねえ、やっぱりって?」

「べつに……アンタの様子見てると、勘違いな気がするし」

「カンチガイ……? むぅ、よくわかんないなぁ。はぐらかさないでよ!」

「ちょっと鹿久保。なんとかしろ」

「アンタも友達ならわかるだろ、強気に出たこの女はとまらない」

「……ぐっ、そうだけどさぁ。マズったな、口、滑らすんじゃなかった」

「さあ、早く教えなさい、ほのかちゃん!」


 揉める二人をよそに教室を後にする。あの女の圧の強さに、苦笑しながら。誰にでもあの感じなのを目の当たりにして、なぜかホッとした。


 その三十分後くらいに、華宮が水澤を連れてバイト先に現れた時には、軽い絶望を覚えたのだった。



          *



 四角い顔の数学教師は、教室に入ってきた時からその表情が険しかった。


「先週の小テストを返却する。順々に取りに来なさい」


 廊下側から、ガタガタと同級生が立っていく。工場のラインみたく、そのまま流れていく。

 初めこそ静かだったものの、徐々に賑やかさが増す。それは列が進むにつれて。手元にある、テストの出来栄えに一喜一憂してるらしかった。


 やがて、俺の列の番になった。次々に前の奴が立っていくが、俺には関係ない話。そのテストの話は初耳だった。

 どうやら抜き打ちだったらしい。そしてその日たまたま授業に出なかった。


「――っと、鹿久保は受けてなかったか。追試な」


 教師とばっちり目が合って、ゆっくりと頷く。厳めしい顔をしているが、この男はそんなに厳格ではない。


「それと、半分取れてないやつも」


 ブーイングの声は多い。前言撤回、厳しかった。


 その後テストの講評があり、普通に授業が始まっていく。

 

 特に問題が起こるわけもなく、何事もなく三時間目の終わりを告げる鐘は鳴った。


「中間も近いからしっかり復習しておけよ。今回の小テストが悪かった奴は、特に」


 号令があって、教室が一気に騒がしくなる。


 そそくさと次の授業の用意を始める。……日本史か、眠くなりそうだ。

 いつものように本でも読もうと、文庫本を取り出す。十分休みは比較的平和だ。あの女が、来襲してくることはない。


 それは油断と呼ぶべきものだった。


「ぷぷっ、正宗君、ださ~い。みんなの前で、追試バラされて」


 ……意外だ、絶対に死なないと思ってた奴が死んだ。どんでん返しという奴か。つい一気にページをまくりたくなる衝動に駆られる。


「おい、無視すんなってば!」


 ガン、ガン。机を蹴られる。こいつ、暴力的だな。


 このままいくと無限に続きそうな気がして、俺は文庫本を机の奥に押し込んだ。


「今更誰も気にしないだろ。もちろん俺もな」

「あたしは気にしたよ。仲間だ―って」

「……落ちたのな、アンタ」

「まあしょうがないよ。次頑張ればいいから」


 ひたすらにポジティブ。もう少し危機感を持つべきだと思うが。今は二年生の五月。授業はまだまだ序盤。

 こんなところで躓いていたら、後が怖い。


「で、なんだ。まさか一緒に勉強しよう、とでも言うんじゃないだろうな」

「えっ、して欲しいの? しょうがないなぁ、したげるよ」

「結構。あっち行ってくれ。うるさい」

「ひどっ!」


 また文庫本を取り出す。俺は、専ら探偵役だと思われていた男が死んだミステリーの結末を見届ける仕事がある。


 未だ視線を感じる。まああの女が退くことはないだろう。

 ただしタイムリミットが近いから無視安定。


「……いいの? 知らないでしょ、キミ。小テストの内容」

「問題ない。一章全部万遍なくやっとけばいい」

「追試、明後日だけど、間に合わなくない?」

「そん時はそん時だ」

「潔いなぁ」

「アンタほどじゃない」

「ほーめらーれたー」


 顔をくしゃくしゃにして、嬉しそうに笑う。こいつはどこまでもお気楽だな。


「じゃあ今日の放課後、がんばろうね」

「勝手に決めるなよ。俺は帰るぞ」

「えぇ、二人でやった方が捗るって」

「絶対そんなことはない。他の奴を当たれよ。頭いい奴なんていっぱいいるだろ」

「まあ確かに、正宗君じゃちょっと役不足ではありそうだけど……」


 見事な誤用をしていたが、ツッコまないことにした。


 そんな風にして、貴重な謎解きの時間は霧散するのだった。

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