第30話 自覚のない関心
玄関に入って靴を脱いでいると、頭上の照明が灯った。
「おかえり、正宗」
「……ただいま」
その言葉を、ずいぶんと久しぶりに口にした。そもそも、家で誰かが待っていてくれるのすら。
外からマンションを見上げた時に、うちのリビングが明るいのを見て、ぐっと胸にこみあげてくる何かを感じた。
別れ際の、あの妙な話題が心の隅にへばりついている。
あいつ――華宮といると、本当に調子が狂って仕方がない。こちらの事情などお構いなしの強引さ。たまに覗かせる、アンニュイな部分。
見かけ通り、単純な陽キャではないのだ、あいつは。だから厄介。
こんなにしつこく俺に付きまとってくる奴は、初めてだった。どうしていいかわからない、が正直な話。だから今日も、渋々一日を共に過ごしてしまった。
もしかすると、あの不安定さが引っかかっているのかもしれない。
兄貴と共にリビングに入ると、ソファに座っていた夕さんが顔だけこちらに向けてきた。
「おかえりなさい、正宗君……うん、なんか変な気分だわね。自分の生徒を迎え入れるなんて」
「こっちもうんざりしてるよ、休日まで担任の顔を見ないといけないなんて」
「こらこら、応戦しない、正宗。晩御飯、取り上げられても知らないぜ」
「こんなことで今更腹を立てたりしないわよ。もう慣れたわ、この子の偏屈さには十分ね」
夕さんはパチッと下手くそなウインクをくれた。
いたく上機嫌だな。まあその原因はなんとなく察しがつくけれど。
兄貴の顔を一瞥しながら、俺もソファへ。入れ替わるようにして、夕さんがキッチンに向かった。
先ほどから、ずっといい匂いが部屋に充満している。これもまた、懐かしい現象……いや、ほんの数日ほど前にあったな。思い至り、つい顔を歪める。
結局、そっちの借りは返せてはいない。今日中に何とかしておきたかったんだが。また何かと理由をつけて、とんでもない要求をぶつけられそうだ。
「手伝うよ」
「うん。ありがと。――っと、あなたは座ってなさい」
「いや、悪いし」
「いいんだって。だいたい、三人で動き回れるほど広くないでしょ」
彼女の言うことももっともで、浮かしかけた腰を戻す。
申し訳なさを覚えつつ、テレビを観ながらスマホを弄って、夕食の準備が完了するのを待つ。
「じゃあ食べましょうか。いただきます」
夕さんの音頭に合わせて声が揃う。
ご飯に味噌汁、ハンバーグに付け合わせのサラダ。そして改めて盛り付け直された、刺身の盛り合わせ。
なかなかに豪勢なメニューだ。
「で、どうだったわけ、デートは?」
「デートって……教職者が揶揄うなよ」
「今は職務時間外ですから。公私混同はよくないわ」
「どの口が言うんだか……」
弟と恋人のやり取りを、兄貴は微笑ましそうに眺めている。その高みの見物感は、なんともまあ腹が立つ。
「でも華宮ちゃんは、いっつも元気そうよねぇ。部活辞めたから、ちょっとどうかな、って心配してたんだけど」
「辞めた……? 休部じゃなくて」
「ええ、退部届にばっちり判押したもの。体操部の顧問の先生とも、気にかけて欲しいって頼まれたりもしたし」
「それ、いつの話だ?」
「あなた、あの子から何も聞いてないの? だったらこの話はおしまい。プライバシーにかかわるから。口滑らせちゃったなぁ」
濱川先生はぐっと渋い顔を作った。怠慢な仕草で、一口大にしたハンバーグを口に運んでいく。
華宮は、看病をしてくれた日に休部だと言っていた。あれは嘘だったのか。それともその後に、正式に部を去ったのか。
どっちかはわからない。そもそも、どっちだっていい。あいつが体操を辞めた、という事実は揺らがない。
あいつはかなり熱心に取り組んでいたはずだ。今日の話の内容から、馬淵が言っていた表彰の件から、それは容易に想像できる。
熱中していたモノを手放す。その喪失感を、俺は知っている。
あいつも同じだとは爪の先ほども思わない。事情は人それぞれ。もしかすると、案外せいせいしてるおそれもある。
だって俺は、あいつのことを少しも知らないのだから。
「正宗、何考えてるんだい? 手、止まってるけど」
「別に何でも」
「華宮ちゃんのことでしょ」
「……ハンバーグの火加減が微妙だなって」
「またろくでもない誤魔化し方して!」
「いやでも、夕ちゃん。僕もちょっと、どうかと思うよ。焦げてる」
カレシの言葉に、今日の調理長はしげしげと作った物を観察し始めた。箸で割り、裏返し。もはや、科学者めいている。
「ま、生焼けよりいいでしょう」
そう言って、夕さんは大雑把に笑い飛ばした。
確かに、味が悪いわけではない。お手製のソースと相まって、非常に美味しい。この人の料理の腕はいい部類に入る。
俺はふと、兄貴が生暖かい目でこちらを見ていることに気づいた。
そこには余計な思惑が見え隠れしている。ちょうど、さっき適当に話を合わせたのと同じように。
気を遣われることなど、何もない。俺は別に、華宮に昔の自分を重ねたりはしていない。兄貴の頭で巡っていることは、全て思い込みだ。
忌々しさを振り払って、俺は食事に没頭することにした。
✳︎
月曜日。朝のホームルームは十分間に合う時間に、登校してしまった。
それは決して、土日共に過ごした兄の恋人のせいでなく。唐突に襲撃してくる、竜巻みたいなクラス委員のせいだった。
と言っても、今朝もまた迎えに来られたわけじゃない。教室に入った時、相変わらずあいつは、クラスメイトの輪の中にいた。
「おはよー、正宗君! いいねぇ、すっかり更生したね」
「だといいがな」
「何よそれ! 自分のことでしょ!」
一瞬、ムッとした表情になったかと思うと、すぐに明るく笑い出した。そこに、おかしな様子はない。
土曜日謎に街に出かけたことなど、なかったように。いやそれがあるからなお、平然と突っかかってくるのかもしれない。
その背後から、奴の今までいた集団がこちらを眺めている。どこか敵意を感じるが、おそらくは気のせいだろう。
「いちいち来るなよ。いいのか、お友達は?」
「カスミンのこと? ああ、だいじょーぶ。最近は諦めてるっぽい」
「いや、それだけじゃなくて」
「それ、って言うのはあたし、どうかと思うな!」
変わらない姿に、またあの日常が始まると思うとげんなりする。
華宮綾芭との、不思議な付き合いはしばらく続いていきそうだ。俺とあいつ、果たしてどちらがおれるのがさきか。
俺は盛大にため息をついた。
「いつも思ってたけど、人に向かってため息つくの、かなり失礼だかんね!」
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