第26話 追放された鹿と妖精

 初めの雰囲気などどこへやら。

 ダイニングはすっかり和やかな雰囲気に包まれていた。兄貴も夕さんも、華宮もみんなにこやか。

 ただ俺だけが仏頂面。心底、決まりが悪い。


「なるほどねぇ。おかしいと思ったのよ。部屋の奇麗さといい、キッチンの調味料といい。ろくに料理しないくせに、みりんや料理酒はおかしいもの。しかも、封開けたばかりみたいだし」

「おおっ、夕ちゃん先生なんか探偵みたい!」


 華宮の感想は置いておいて。ぐうの音も出なかった。完璧な推論だと思う。

 夕さんが挙げ連ねた疑問点は、ならではの着眼点。まあ別に何もしなくとも大丈夫だろうというのは、浅はかすぎる楽観さだったと思い知らされた。

 こうなると、華宮の登場如何に関わらず、全てが露呈していたおそれは十分にある。


 そこまでして隠しておきたかったわけじゃない。ただ、恥ずべき出来事だったのは事実。

 もう少し、事前に何か考えておくべきだった。


「正宗、ただのクラスメイトがここまでしてくれないと思うけど?」

「そうだぞ、正宗君!」

「アンタまで、畳みかけてくるんじゃない」


 本当に分が悪い。二対一の構造。いっそのこと逃げ出そうと思うが、一応華宮は客人だ。決して、歓迎すべきではないが。


 言葉もそうだが、何より視線が鬱陶しい。特に、眼鏡兄貴の方の。十七年の付き合いで初めて見る顔だぞ、あんな気持ち悪い表情。


「でもさ、華宮ちゃん。ただの友達にもここまでしないと思うけど?」


 見事な推理を披露してからずっと黙り込んでいた夕さんエセ探偵。久しぶりに口を開いたかと思えば、ろくでもない顔でとんでもない言葉を教え子にぶつけだす。


 意趣返し、のつもりなのだろうが。その相手には特にダメージを与えられなかったようだ。口元に笑みが浮かんだまま、ただまばたきの回数は多い。


「そりゃあ、正宗君はあたしの恩人ですから」

「……あなた、何したの?」

「いや、心当たりは全くないんですが」


 疑っている夕さんの視線を受け流すようにして、俺ははっきりと真横に顔を向けた。

 しらーっとしているのが、なんとも腹が立つ。


 振り返ってみても、そこまで言われる心当たりは少しもない。一つを除いては。

 ただあの時のことだとしても、殊勝なことは何もやってない。ただ声をかけて、くしゃくしゃ気味のポケットティッシュを押し付けただけ。

 そうだとしても、それは致死量のポケットティッシュと、美味な卵焼きという形で返ってきた。


 だからこれは、ただの親切の押し付けだ……と、俺の方は結論付けていたのだが。


「うーん、本気で言ってるっぽい。はるく……晴純さんはどう思う?」

「僕はなんとも。夕ちゃん、今さら言いなおしても手遅れだよ」

「……そんなことない。私の学校でのクールな立ち振る舞いは健在だわ」

「くーる?」


 クラス委員は首を傾げた。本気で腑に落ちていないらしい。


 まあ華宮の反応も理解できる。濱川先生はクールでは決してない。無愛想で、大雑把、ものぐさ。他がどう思うかは知らないが、少なくとも俺の中のイメージはそんな感じ。


「やめてやれ、この人、自己評価と他者評価の乖離が激しいんだ。そして、そのことを自覚してない」

「二人とも、担任に残念そうな目を向けるのはやめなさい。宿題、増やすわよ」

「職権乱用っすよ、濱川先生」


 どこまでも素の姿を見せる、我らが担任なのであった。

 その彼氏も流石に苦笑しっぱなしである。


 そもそも、この二人がセットな時点で威厳を保つのは不可能なわけで。いっそのこと諦めてしまえばいいのに。全ては手遅れだ。悔やむべきは、家人を差し置いて、インターホンに出たことだろう。


 しばらく何か言いたそうにしていたが、夕さんはついに観念したようにため息をついた。


「本当に調子が狂うわね……どこか二人で遊びにでも行ったら?」

「そうだねぇ、華宮さんも色々と気を遣うだろうし」

「別にそんなこともないですけど……どうしよっか、正宗君」


 今度はあの女がこっちを見る番だった。判断をこちらに委ねるつもりのようだ。

 

 そうなれば、俺が言うべきことはただ一つ。


「帰れば?」

「サイテーね、はるくんの弟」

「ああ。兄として恥ずかしいよ、ほんと」

「だってさ」


 何なんだ、こいつら。俺の自由意思はどこへ行った?


「はっきり言うと、掃除する必要もないんだったら、あなたお邪魔虫なわけよ」

「とんでもない主張だな……そっちから押しかけといて。行っとくが、来てくれなんて頼んでないぜ」

「正宗、兄としてはね、たまに弟が恋しくなるわけだ」

「真顔で言ってて、気持ち悪くないのか?」

「わー、絶好調だ、正宗君」

「アンタも、茶々を入れてくるんじゃない」


 四面楚歌とは、このことを言うのだろうか。厳密にいうと、一面は空いているが。

 ともかく、ここは俺の自宅なはず。家主は名目上、兄貴になっているが、それでもこの状況はおかしい。


 助けてほしいと思おうが、頼るべき人間は一人も思いつかない。自分がどこまでも孤独な人間だと、再確認できる。……今は少しも喜ばしくないけれど。


「ほら、正宗。いい機会だから、ちゃんと華宮さんにお礼をしなさい」

「礼って言われてもな……」

「そうそう、別にいいよ、そーゆーの」

「華宮ちゃんは人間ができてるわねぇ、どこぞの同い年の男とは大違い」

「遠回しな言い方はやめろ、ダメダメ国語教師」


 小さないざこざがやがて発生した。


 結局、押し切られる形で、俺と華宮は、鹿久保邸から追い出された。夕飯までには帰ってこい、との言伝を与って。


「さて、どうしよっか、鹿久保君」


 マンションの前で、俺たちは途方に暮れていた。

 大変忌々しいが、奴と顔を見合わせることに。


「どうもしねえよ、って言いたいが、こうなるとな……」

「おっ、デレモード?」

「殴るぞ」

「女子に暴力奮うとか、ひどいやつだなぁ、キミは」


 からかうように、華宮は笑い始めた。


「でも、あたしはやさしーから、仕方ないけど、今日一日付き合ったげる」

「そもそも、来襲してきたのはアンタの方だけどな」

「とりあえず、そろそろお腹減ったな~」


 わざとらしい言い方で、華宮は両手で腹を押さえた。腰の方から、ぎゅっと縮めるようにして。ともすれば、ウエストの細さをアピールしているのかもしれない。


 そんな冗談はさておいて。


 確かに、時刻は十一時を回っている。正直、俺も空腹を感じ始めていた。


「とりあえず、行くか」

「そうだね。色々あるだろうし。……値は張るけど」

「それ、奢れって言ってるんだよな?」

「ううん、別に」


 ということで、俺たちは街一番の駅へと向かうことにした。大きな商業ビルがあり、まあ腹も満たせるし、時間も潰せるだろう。

 

 ――あわよくば、こいつを撒けることを期待して。

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