第17話 得意なこと

 店の片づけもそこそこに、俺と奈穂さんは和室に戻ってきた。おっさんは向こうに残したまま。

 華宮はピンと背筋を伸ばして、黙々と手を動かし続けている。こちらの方に気が付いた様子はない。


「あーやはちゃん! お疲れ様」

「……へ? あ、ああ! いつの間に⁉」


 奴は変な声を出すと、大きく身体を震わせた。急いで立ち上がり、身体をこちらに向ける。


「別にそこまで慌てることはないのよ? ――どう、課題は終わった?」

「はい、まあ、だいたいは」

「それはよかった。そろそろ帰らないとおうちの人、心配するだろうしね」


 現在時刻は七時をちょっと回ったところ。窓から見える風景は、すっかり夜闇に染まっている。


「でも、私としてはこのままお夕飯食べてってもらってもいいんだけれど」

「ホントですか! でも、さすがに遠慮します。やっぱり悪いですし」

「そう? うちは構わないんだけど。まあおうち帰ったら、ご飯が待ってるか」

「えへへ、そうですね。お気遣いありがとうございます」


 華宮はとてもコミカルに頭を下げた。どこか真剣だった、あの後ろ姿は見る影もない。


「鹿久保君はどうする? たまにはご飯食べてったら? 一人暮らしだと、色々とめんどうでしょう」

「いえ、慣れてますから。そこまで迷惑はかけられません」

「ひとりぐらし……? え、鹿久保君って一人暮らしなの?」

「同じ言葉を繰り返すな。馬鹿っぽくみえるぞ」

「馬鹿はそっちでしょ! ――で、さっきのホント?」

「綾芭ちゃんは私が嘘つくと思う?」

「いいえ、まったく!」


 手を取り合う二人を、俺はなんとも言えない気分で眺めていた。

 奈穂さんめ、余計なことを。しかし、本人に悪気は――いや、それが悪いことだという自覚は微塵もないはず。

 彼女は良心で、喜ばしい提案をしてくれた。そのことについては、ありがたいという以外の感情は存在しない。


 問題は、それを聞きつけた奴の方である。事ここに至れば、厄介なことになるだろうことは容易に想像がつく。


「じゃあ二人とも、またね。気を付けて帰るのよ」

「おうちにまでお邪魔させてもらって、ホントありがとうございました」

「いいのよ、それくらい。――正宗君、ちゃんと駅まで彼女、送ってくのよ?」

「よろしく!」

「俺に対しての遠慮はないんだな……」


 店を出発して、我が家とは逆の方に足を進める。

 夏に向けて、少しずつ日は伸びていっても、この時間帯まで明るい、ということはない。そのうえ、駅までの道のりはそれなりに長く、また人も疎ら。


 なぜこんな時間まで、こいつは残り続けたのか。俺が店に出た時点で、帰ってくれていれば、こんなことにはならなかったのに。


「ごめんね、遠まわりさせちゃって」

「まあいいさ。散歩だと思えば、これくらい」

「――そうだ。ちょっと待ってね」


 隣を歩く華宮はトートバッグの中を漁り始めた。

 ガサゴソとビニールが擦れる音がしたかと思うと、奴は何かを俺に差し出してきた。


「いいのか?」

「うん。食べそびれちゃったから。家に帰って食べると、その、ふ……なんでもない」

「身体にはよくないだろうな」

「そうそうそれ!」

「太るし」

「言わないで! ホント、デリカシーないんだから、キミは……」


 ぶつくさと文句を言っているあいつの手から、俺はパンを受け取った。

 また夕飯が増えた。すでに鞄の中に詰めてある売れ残りと合わせれば、明日の朝食分までまかなえるだろう。


「いやぁ、にしてもはかどった、はかどった。じぶんち以外で勉強するってなんかいいね」

「いつも学校でやってるんじゃないのか」

「細かいなぁ、鹿久保君。そんなんじゃ、女の子に嫌われちゃうぞ」

「願ったり叶ったりだな」


 華宮はとても残念そうな顔をした。その目はいわゆる、かわいそうなものを見ているかのよう。


「で、数学はいいとして、英語もたくさん課題あるよな」

「ご心配にはおよびませんとも! あたし、英語は得意なんだ」

「別に心配はしてないが……」

「照れなくっていいって。――子供の頃から英会話教室通ってたの、あたし」

「そうか、よかったな」

「鹿久保君は? なにか習い事とかやってた?」


 頭の中にある競技の名前が浮かんだ。ずっと好きだったスポーツ、手前味噌だがチームでも一番上手かった。


 だが、かなり前に辞めてしまった。


「……いや、なにもねえな」

「そう? ともかく、英語で何か困ったことがあれば、いつでも訊いてくれたまえよ?」


 えっへんと声に出して言う奴を、現実に目の当たりにしたのは初めてだった。



          ✳︎



 連休明けだから、さすがに普通に登校した。そもそも期せずして、人よりも一日長かったこともあった。


 最近は着席すると、華宮が飛んでくる。俺の机を不当に占拠することはなくなった。

 ……はずだった。


「おい、なにしてんだ」

「見てわかるでしょ! 今、ヤバいんだって」


 理不尽に怒られた。まあいつものことだ。

 奴は英語のワークを広げていた。朝のホームルーム終了後提出の課題。表題的に、残り二、三ページはある。


「得意だったんじゃなかったのか?」

「……りょ、量を甘く見てた」

「だろうな」

「先に言ってよ! イジワル!」

「そこまで面倒を見る筋合いはない」


 華宮は恨めしげに睨み上げてくる。その手は完全に静止状態。


「俺と話してる時間はあるのか?」

「そっちじゃん、話しかけてきたの」

「自分の座席が使われてんだ。当たり前だろ。なんで、自分の席でやらない?」

「集中がちょっと……ここだとほら、みんな近づいてこないから。キミを警戒して」


 俺は獰猛な番犬か何かか。

 ちらりと教室全体に視線を巡らせるが、誰もが無関心を装っていた。


 この釣り合わないコンビを、周りは静観することに決めたようだ。


「まあ、頑張れよ。英会話教室通いさん」

「うるさいよ、もうっ!」


 鞄を置いて、教室を後にした。購買でも冷やかす心づもりで。


 その後、英語表現の授業冒頭において。申し訳なさそうに課題を遅れて提出する、妖精が教室で目撃された。

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