第16話 意外な一面
ちょうどあくびを噛み殺していた時のことだった。その女の姿を確認したのは。今日はさすがに制服は着ていない。
途端、昨日までのとても落ち着いた日常が恋しくなる。
ちりん、ちりん。
鈴の音が、客の全くいない店内に空く響く。
入り口を一瞥だけして、またボーッとすることに。手持無沙汰な時間が、ずっと続いていた。
「ちょっと! あいさつは?」
「いらっしゃいませ。こんにちは」
「なにそのテキトーな感じ。あたし、お客さんだよ」
至極真っ当なご意見いたみいる。だが、相手が同級生、いや華宮となれば、やる気は全く出ない。
せっかく、久々の客だというのに。
店主の気まぐれ、もとい思いつきで、大型連休最終日にもかかわらず、新崎ベーカリーは絶賛営業中。そして閑古鳥が午前中からずっと来店しっぱなし。
「鹿久保くん、久しぶりだね」
「俺の方には何の感慨もないが」
「よくわかんないけど、体調は良さそうだね」
「まあ、一週間以上前の話だからな。――あの時は世話になった」
「あはは、気にしないでいいよぉ」
照れくさそうに華宮は笑った。
「ねえ。バイト、いつ終わるの?」
「閉店時刻が知ってるだろ、六時だ」
「そこまでずっと働くわけ?」
「当然だ。——世間話は程々にして、さっさとパンをお選びいただけますか、オキャクサマ?」
「いいじゃん。別にお店空いてるし」
そんなこと言う客がいてたまるか。
いっそのこと、追い返してやろうと思ったら——
「やっぱり! 綾芭ちゃんだったのね」
「ゴブサタです、菜穂ちゃん!」
副店長が工房から現れた。チェック柄のエプロンを身につけてはいるが、頭に帽子はない。茶色いショートヘアが顕になっている。
「いらっしゃい。ゴールデンウィークなのに、ありがとうね」
「いえいえ。菜穂ちゃんは、ちゃんと言ってくれるんだ」
「なにを?」
「いらっしゃい、って言葉」
奴から意地の悪そうな笑みを向けられた。
そんなこと、いちいち報告するまでのことはないだろう。
「正宗君。親しき仲にも礼儀あり、でしょ。ちゃんとしないと駄目よ」
「はあ。すみません」
「あたしは気にしてないからだいじょーぶだよ」
「そう? ごめんなさいね、うちの店員が失礼なことを」
この会話は果たしてなんなのだろうか。一人疎外感を覚える。
できることなら帰りたい。客、全然来ないし。
「よかったら、たくさん買ってって。見ての通り、その、あまり気味だから……」
「選びたい放題ってことだよね! どれにしようかな〜」
「いい子だわ、綾芭ちゃん」
トレイとトングを装備した華宮を、菜穂さんは目を潤ませて見送る。と言っても、店内はそう広くはない。
昼飯の時間は終わったというのに、棚にはパンがゴロゴロ並んでいる。普段より、客足が遠いのもあるが、とある男が一番の原因だった。
「店長は?」
「上で寝てるわ。昨日遅かったのに、無理して早起きしたから。しかも、かなりテンション高かった」
「なんとも言えない気分になりますね」
「ほんとにねぇ」
奈穂さんのため息がはっきりと聞こえてきた。
パン職人が、えげつない量のパンを生産した。連休最終日ということは、街に人が戻ってくる。だから客もいっぱいだ、とかいうガバガバな理論を提唱して。
「セールで、捌ききれますかね?」
「綾芭ちゃんが大量に買ってくれれば、あるいは」
「……たかが知れてますよ」
「そうねぇ。あの子、すっごい線が細いもの。やっぱり小食なの?」
「知りませんよ、そんなこと」
「友達なのに?」
その言葉は聞こえないふりを決め込むことにした。なるべく、雇い主の表情は見ないように、身体の向きを変える。
「まあ、最悪あの人の三食が全てパンになるだけだから、平気よ」
「……別の問題が発生しそうですけど、それ」
財政面で。
もっとも、バイトしてこの方給料が支払われなかったことはない。この、マチのパン屋さんは経営状況が比較的安定しているようだった。
やがて、いくつかのパンを持って、華宮がレジの前に立った。奈穂さんが代わりに応対してくれる。
「でも残念だなぁ。せっかく鹿久保君と一緒に、課題やったげようと思ったのに」
「なんで上から目線なんだ……」
「一緒にお勉強? いいわねぇ、青春だ」
「別にやりませんけど。仕事、ありますし」
「それなら別に、特売の頃に戻ってくれればいいわよ」
……思わぬところに敵がいた。
華宮の目が一気に輝いた。
「じゃあどこでする?」
「……いや、しねえって」
「鹿久保くん家は?」
「断固拒否」
「困ったなぁ、うちも無理だし」
「じゃあ中止だな。――ありがとうございました。お帰りはあちらです」
商品の入った袋を突きだして、もう一方の手で払う仕草を取った。
「よかったら、うち、使って? その方が、正宗君も楽でしょうし」
だから敵は身近にいるんだ、と頭の奥底で声が聞こえた。
*
かりかりかり。
静かな部屋の中に、シャーペンが紙の上を走る音だけが響く。
新崎ベーカリー、住居部分の和室。低いテーブルで、俺と華宮は向かい合っていた。
何の前触れもなく、音が止む。
「……あり? どこ違うんだろ。うーん」
代わりに悩み声が聞こえてきた。
そっと様子を窺うと、あの女はノートと解答を付き合わせていた。
無視、無視。黙々と新崎ベーカリーのチラシを折っていく。
「ダメだ、全然わかんないや。つぎ行こう~」
「待て待て。……ちょっと見せてみろよ」
「え? ああ、うん」
戸惑いながらも、華宮はノートと解答をこちらにスライドさせた。
悩んでいると思われる部分を見つけて、さっと目を這わす。
「ここ、展開ミスってる。定数項が抜けてる」
「……ありゃ、ホントだ。ありがと~。数2は難しくて困るなぁ」
「一年時の範囲だけどな、そこは」
「むっ、何よその言い方。自分は課題終わってるからって!」
ペンを放って、華宮は腕を組んだ。お得意のふくれっ面を披露してくれる。
「だいたい、キャラに合わないでしょ。なんでもうすでに終わってるわけ? 不真面目じゃなかったの」
「やらないと面倒なことになるからな」
「ああ。経験者は語る、ってやつですか。わかる、わかるよぉ。あたしも、たま~に忘れちゃうから」
薄々気づいていたが、この女は人気者であっても、優等生というわけではないらしい。そこもまた、周りからのウケがいい一因なのかもしれない。
嫌味がないという奴だ。……色々な意味で。
再び沈黙の時間が始まって、すぐに引き戸が開いた。
「おっ、これがアヤハチャンか。なるほど。なかなかの美人。ま、うちのハニーには負けるがな」
扉から顔を出したのは、髭面の大男。貫禄がある体格をしている。そして、顔はかなり厳めしい。
華宮は盛大に吃驚していた。身体がびくりとしたのが、はっきりと見えた。
「……何しに来たんだ、おっさん」
「おい、ボウズ。店長に向かってその口のきき方はなんだ?」
「くそ忙しい時にいつも店にいない人に払う敬意は持ち合わせてねえ」
「相変わらず、理屈っぽいガキだな」
客人がいるというにもかかわらず、男は舌打ちを決めた。さっきの発言と言い、本当失礼だと思う。
「あの、鹿久保君。この人って……」
「一応、店の責任者だ」
「こ、こんにちは。いつもお世話になってます」
借りてきた猫だな、まるで。いつにもまして、華宮は大人しかった。いつもこの状態ならどんなに助かることか。
それは決して叶うことのない願いだろうが。
おっさんは黙ったまま頷いた。その眉間には深い皺が刻み込まれている。
もう慣れたが、初対面の時はかなりビビった。
もっとも、向こうもまた俺に対していい印象を受けなかったようだが。小生意気な顔、そう評されたのを今でも覚えている。
「なにしてるの、りんちゃん?」
「おぉ、ハニー! 今日もいつもと変わらずうつく――」
「やめて。早く店に出てきて」
騒ぎを聞きつけたらしく、おっさんの奥さんが現れた。きっと睨みつけるその姿は、なかなかどうして迫力がある。
普段は温厚でとても優しいのだが、夫に対してはかなり厳しい一面を見せる。閉店後の片づけの時間は、ピリピリして、傍目から見ていると面白い。
そのまま二人は部屋を出ていった。騒がしい声は暫く聞こえっぱなしだった。
「あれが奈穂ちゃんの旦那さんかぁ……」
「うちのパン職人でもある」
「えぇ……? 繊細な仕事とか苦手そうなのに。人は見かけによらないってやつだねぇ」
「俺を見ながら言うな」
それはアンタも同じだと、通学路での一幕を思い出しながら、心の中で言い返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます