第15話 全ては熱に浮かされて
奇妙な沈黙が、部屋の中に広がっていた。
ぴったりと正座をきめている華宮。その顔は緩みっぱなし。
俺はと言えば、黙々と湯気が立ち昇るお椀を前に、身を固くしていた。
「食べないの?」
「いや……ええとその、いただきます」
「ぷっ! なにそれ、ぎこちないなぁ。もしかして照れてる?」
ニヤニヤとして、奴はあきらかにこちらを揶揄っている。その優越感に浸っている感じが、なんともまあうざったい。
「照れてねーよ」
「顔真っ赤だよ?」
「熱あるからな」
測ってはいない。それでもこの身体の火照り具合が、体温の異常な高さを如実に教えてくれている。
「はいはい。そういうことにしといてあげるよ」
「なぜ上から目線……」
「作ってあげたわけだし、おかゆ」
「頼んでねえ。アンタが勝手にしたことだ」
「ほう。そういうこと言うんだ。ところで、鹿久保君。どうしてその栄養ドリンクは空になっているんだろう?」
華宮は、置いてあった空き瓶を摘み上げた。これ見よがしに突きつけてくる。
「……ありがとうございました」
「うんうん。人間素直なのが一番だよ。そうだ! ご褒美に食べさせてあげる」
「至れり尽くせりだな。だが、さすがにそこまで
先んじてスプーンを手に取った。そのまま粥を掬って口に運ぶ。
――熱い。だが平静を装い続ける。これ以上、この女に無様な姿を見せることはできない。
何とか堪えて咀嚼する。柔らかすぎない米、絶妙な塩加減、ふわっとした卵。単純に上手にできていると思った。
飲み込むたびに、優しい味が全身に染み渡る。一日の最初の食事に、これ以上相応しいものはない。空腹もあって、とても美味しく感じられた。
そのまま、無心に器を空にする。傍らに用意してもらった水で、風邪薬を流し込んだ。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さま。で、どうだった?」
「まずまずだ」
「そっか。まずまずか」
華宮は嬉しそうに小さく繰り返した。
こちらの本心を、ばっちり見抜いているような感じがした。
「次は頑張るね」
「いや、次はねえよ」
「もう二度と風邪ひかないってこと? すごい自信だ……!」
「違う。だいたい、なんでまた看病に来る前提なんだ」
「ダメ? でも実際助かったでしょ」
言葉に詰まった。買い出しといい、この粥といい、余計なお節介の範疇を越えている。それは、俺自身が一番わかっていること。
「まあでも、体調管理はしっかりしないとダメだよ! 例えば、寒い日に中庭でご飯食べたりしない、とか。――そんなことする人、いるわけないか」
「ずいぶんと皮肉が上手くなったな」
「誰かさんのがうつったのかも?」
こいつにさっきから、いいようにおちょくられている。華宮綾芭は今日も絶好調ということだ。
「どうせなら、風邪もうつればいいのにな」
「望むところだよ! もちろんその時には、お見舞い来てくれるよね」
「どうしてそうなる」
「だって、キミのせいじゃん」
「俺は言ったぞ。うつしたら悪いから、早く帰れって。自己責任だ」
「鹿久保君、つめたーい」
口をすぼめて、じと目で睨んでくる。
それを鼻で笑い飛ばしながら、俺は少し身じろぎをした。
「……実際大丈夫か。せっかく明日から連休だってのに。しかも、今年一番大きな、な」
「平気、平気。もともと、そんなに予定入ってないから」
「…………部活は」
「へ?」
華宮の顔が一瞬強張ったような気がした。それでも、すぐに明るいものに戻る。
瞬間、そのワードを口にしたことを後悔した。
こいつが部活に行ってないらしいのは、今に始まったことじゃない。そのことには、触れないようにしていた。とんでもなくめんどくさそうな問題を隠れている気がして。
なのに、つい口にしてしまった。この意識の弛みは、きっと風邪のせい。
「いや、いい。忘れてくれ」
「…………今ね、ちょっとお休みしてるの。休部ってやつ」
「そうか」
華宮の顔に翳る。口角は自虐的に上がっていた。
そのまま、俺から視線を外して、しばらく黙りこんだ。だが、またぱーっと、光が差す。
「ってかさ、この間はあたしに全然気付かなかったのに、今は部活のことまで知ってくれてるんだ。なんか嬉しいなぁ」
「馬崎から聞かされただけだ。わざわざ知りたかったわけじゃない」
「興味ないもんね。休部の理由とかもさ、訊かないでしょ」
「ああ。俺には関係のないことだ」
珍しいはにかみ笑いを披露する華宮。一つ大きく頷いた。青髪がぱさりと跳ねる。
「ありがとね」
「何がだよ」
「気にしないで。勝手に言ってるだけだから」
「変な奴だな」
「キミにだけは言われたくない」
そして、睨みを利かせてくるが、百パーセントふざけているだけ。本当に、こいつの表情は変わる。感心すら覚えた。
「で? 鹿久保君の方はどうなのさ。ゴールデンウィークの予定」
「別に。何もねーよ」
「バイトは最終日だけだったっけ」
「なんで知ってんだ」
「張り紙見た。というか、奈穂ちゃんに訊いた。この間、連絡先交換したんだ~」
見せつけるように、クリーム色のケースに入ったスマホを振った。
「ねぇ、鹿久保君もあたしの連絡先、知りたい?」
「さっきアンタ自身が言ってたじゃねえか。興味ない。必要ない」
「むぅ。つれないなぁ。いいもん、絶対に教えたげないから!」
それは何の脅しにもなってない。こいつに連絡を取らなければならない事態は、一生来ないと断言できる。
ふと、時計を見るといい時間になっていた。それに、ちょっと横になりたい気分だ。
「ありがとな、わざわざプリント届けに来てくれて」
「ホントだよ! あたしがいなかったらどうなってたことか。みんな、あいつはサボりだ―って言ってた。ケビョーだって」
「アンタもそう思ったんじゃないのか?」
「まっさかぁ。だってキミ、サボるなら堂々とサボるでしょ。そんな嘘つく、
ぴたりと内心を言い当てられ、苦い思いが胸に広がる。
見透かしたように、奴はニヤリとした。
「……よくご存じで」
「一匹狼さんの生態は、少しずつわかってきたからね~」
「難しい言葉知ってるな」
「馬鹿にしないで――って、これはキミの前じゃ禁句かな」
「いいや。隙に使ってくれ、妖精さん」
「そっちは禁句!」
ようやく一矢報いることができた気がする。少しだけすっきりした。
……依然として体調は
心の中でほくそ笑んでいると、華宮はゆっくりと立ち上がった。ぱんぱんと、スカートを払う。もったいつけた仕草で。
「じゃああたし、そろそろ帰るね」
「……色々と助かった。ありがとう」
「お、おぉ、珍しく今日は素直だ。デレってやつ?」
「覚えてろよ、後で」
「怖い怖い……寝付くまで傍にいるしかないかな、これは」
「アンタがいたら、一生寝れねーよ」
俺もまた立ち上がった。即効薬じゃないのはわかっているが、少しだけ体調がよくなっている気がした。
「ちょ、ちょっと、何してるのさ!?」
「せめて見送りをしないと」
「いや、いいから、寝てなって」
「どっかに隠れられでしたら困るからな」
黙って俺が先に玄関の方へ向かって歩き出す。
「そんなことしないったら」
「どうだかな」
これは素直な感想だった。常識滴に考えればあり得ない。
でも、相手は華宮。今まで見てきた同年代の連中とはどこかズレてる。
「では、鹿久保君。さようなら」
「おい待て。鍵返せ」
「……ちっ。覚えてたか」
「忘れるわけねーだろーが」
扉の前でターンすると、奴はポケットに手を突っ込んだ。
「――っと、おつりも忘れてた。はいどうぞ」
「別に、そっちはよかったのに」
「ダメだよ。お金は大切にしないと」
「さすが肝心な時に財布を忘れた女は言うことが違うな」
「もうっ! いつの話をしてるの!」
鍵と一緒に、レシートに包まれた硬貨を受け取る。ずっしりとした重みがあった。
「じゃあ鹿久保君。お大事に。あったかくして、寝るんだよ。お腹出したりしたら」
「俺は子どもじゃない」
「また今度ね」
「ああ、学校で、な」
その言葉に華宮は嘘くさい笑みを浮かべるだけだった。
後で気づいたが、おつりはかなり多かった。レシートと比べて、いくつかの商品の代金が抜けていたのが判明した。
*
「――で、華宮ちゃん。来てくれたの?」
「ああ」
着信音で目を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
通話しながら、灯りをつける。時刻はもう八時過ぎ。
「というか、夕さんが仕向けたんじゃないのか?」
「まあね。頼めるの、あの子くらいしかいなかったし。仕向けた、はちょっと人聞きが悪いけど」
電話の相手は濱川先生、もとい夕さん。いつにもまして、その口調は砕けている。
「体調は良さそうね」
「兄貴にも伝えておいてくれ」
「了解」
あの男はまだ仕事中のきらいがあるけど。向こうからのメッセージは何一つなかった。
「でもよかった。あなたが具合悪いままだったら、旅行もちょっと後ろめたかったから」
「早速休みを満喫してるな、不良教師め」
「周りが休日出勤し過ぎなだけよ」
それじゃあね、と言って電話が切れた。
部屋の中はしんとしている。いつものことなのに、今は余計に静かな感じがした。
枕元を見ると、綺麗に折り畳まれた、薬局のビニール袋が。
立ち上がり、リビングへ。具合の悪さは、だいぶましになっていた。倦怠感はかなり収まった。
鍋に残った粥を温めなおす。あいつ、どれだけ作ったんだ。
「やっぱり美味いな、これ」
ポツリと漏らした呟きは、やけにはっきりと部屋の中に響き渡った。
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