第18話 襲来

 どうしてサイレントにしなかったのか。あるいは、机の上なんかに置いたのか。

 突然震え出したスマホは、集中力を削ぐのに十分な威力を発揮した。

 ぴたりと動きを止めて、騒音を発する機械とにらみ合う。だが、数秒もしないうちに、ペンを放り投げて、荒っぽい手つきでそれを掴んだ。


「やあ、正宗。元気かい?」

「……なんだよ、兄貴。こんな時間に」

「まだ九時前じゃないか。早寝をする性格じゃないだろ」


 電話口の向こうから、軽快な笑い声が聞こえてきた。その表情までも目に浮かぶ。


 鹿久保晴純はるずみは、人当たりがいい、爽やかな性格の持ち主。とは真逆の生き物と言える。顔の造りも、そこまで似ていない。


「どうせ今まで仕事だったんだろ。身体壊すぜ、いい加減にしないと」

「おや、お前が心配してくれるなんてな。兄ちゃんとしては、かなり嬉しいぞ」

「やめろ、気持ち悪い。ただ呆れてるだけだ」


 ため息をつきながら、ソファの座面部分にぐっと身体を預ける。勉強するには、このテーブルはちょっと低い。だから地べたに座っていた。


 こういう飄々として、つかみどころのない部分は、前は苦手だった。しかし、こうして離れて暮らすようになってからは、なんとなくその意識も薄れていた。

 ただし、今の発言は心の底から不快には変わりないが。


「実際、夕ちゃんにも言われたよ。もう少しセーブしたらって。旅行中もちょっと喧嘩になってさ」

「……だから最近機嫌悪かったのか、あの人」

「その話、詳しく聞かせてもらいたいものだなぁ。生徒に迷惑かけちゃあだめだろ」


 苦笑する兄貴。非難する口調はとても軽い。


 今のは茶化しただけ……ではなく、実際、俺に対する当たりはいつもよりも強かった。兄貴から事情を聞かなくても、その原因にはぼんやりと想像がついていた。夕さんあの人は色々と顔に出るタイプだから。

 濱川先生自体も、わりとテキトーなところはある。SHLを筆頭に。去年は、学校ではあまり関わりがなかったので、初めて知る事実だった。


「で、用件はなんだ。今取り込んでるから手短にしてほしい」

「おいおい、冷たいじゃないか。せっかく大切な弟とゆっくり話そうと思ってたのに」

「本当、いちいち気持ち悪いな……」

「明後日なんだけど、さすがにそっち行こうと思う。俺の記憶が間違ってなければ、最後に行ったの二カ月くらい前だしな」


 自然と眉を顰めた。ぐるりとリビングの中を見渡す。

 これは非常によろしくない。


「その時も言ったが、別に来なくていい。なにも困っちゃいない。もちろん、覚えてくれてると思うが」

「ったく、隙あらば皮肉言いやがって……とにかく。兄としては、ここは譲れない。一人になって自堕落な暮らしを送ってられちゃ、堪ったもんじゃないしな」

「だから大丈夫だって」

「……から色々話聞いてるからな。最近、遅刻が多いらしいじゃないか」


 含みたっぷりな言い方だ。さぞやほくそ笑んでいることだろう。

 そういう嫌味のある部分を見ると、俺たちは兄弟なんだなと実感する。何一つ感動する部分はないが。


 言い返すことはできなかった。昨日今日と、途中から登校している。仲たがいしているんじゃないのか。舌打ちをしたくなる気持ちをぐっと抑えた。


 そもそもにして、俺に拒否権はない。説得を試みても不可能なのも、はるか昔から承知の事実。


「それじゃあよろしく~」


 通話が切れた。何から何まで唐突な奴だ。


 スマホを持ったまま、暫くじっとする。目の前に広がる悲惨な光景に、どうしようもない気分を感じていた。


 参考書とノートの向こうには、軽いゴミの山が出来上がっている。リビングには足の踏み場はあるが、そこはかとなく汚い。

 全て、連休中のたるみが招いた悲劇。


 実際にはここはまだまし。問題なのは――


「まあ、明日やればいいか」


 今度こそ例の機械をクッションにくるんで、机に向かいなおす。

 頭の中に思い浮かべた、自室の惨状を振り払いながら。 



          *



 覗き穴に右目を押し当てる。しかし真っ暗だった。

 この時点で嫌な予感しかしない。


 寝ぼけ頭で朝の支度をしていると、チャイムの音がした。しかも部屋の前の。だからこうして飛んできた。


 もう一度、呼び鈴が鳴る。視界が開けることはない。


 寝ていることにしよう。リビングに戻ろうと振り返った時――


 ガチャリ。


 突然扉が開いた。

 瞬間、鍵をかけ忘れていたことに思い至る。


「わっ! びっくりしたぁ……」

「それはこっちのセリフだからな」


 振り返ると、案の定な人物がそこにはいた。

 なかなかどうし、て朝から陰鬱な気分にさせてくれるものだ。


「なぁんだ、起きてるじゃん。無視しないでよね」

「……その前に、勝手に扉を開けた件については?」

「ノブ触ったら、鍵かかってなかったから。不用心だよ、キミ~」

「盗人猛々しい、って言葉はこの時のために存在するんだな。初めて使った」

「誰が泥棒よ!」


 やってることは大差ないと思う。無断でマンションの一室の扉を開けるようなことは、一般人はしない。


「オートロックはどうした?」

「たまたま開いたからつい……」

「普通に不法侵入だからな、それ。通報させてもらう」

「わぁっ⁉︎ やめて、やめて! 悪いことだとはわかってたよ。一でも、キミ。絶対開けてくれないでしょ?」

「歓迎されない自覚があるなら、来るな」

「せっかく起こしにきてあげたのに、そんな言い方はないんじゃないかな」

「頼んだ覚えはない」


 ぴしゃりと言い放つと、奴は不敵に笑った。自信ありげな様に、次に来る言葉は予想がつく。


「あたし、クラス委員だから」

「まだ残ってたんだな、その設定」

「セッテイ、言うなっ!」

「で、そういうこちなら目的は達成しただろ。アンタのおかげで、無事起きることができました。ありがとう、もう帰っていいぞ」


 しっしと手で追い払う。しかし華宮は動かず、顔を曇らせるだけ。


「うわぁ、ひどい。鹿久保君、サイッテー!」

「それで結構。さあ、行った、行った」

「いやっ! キミがちゃんと行くとこ、見届けないと」

「アンタ、それはつまり一緒に投稿しろ、と?」

「だって、ホショーがないじゃない」


 論理としてはわかる。ただ受け入れたくはない。

 またしても、強引記録を更新しやがって。


「……ちゃんと行くから先行ってろ」

「ダメです」

「いっそのことサボろうか」

「ダメです」


 このまま問答を続けてこいつを道連れにするというのは、思いつきの割に悪くないように思えた。

 ただし、一時間目に必ず出席しないといけない授業がなければ、の話だが。


「待ってろ。着替えてくるから」

「……上がっていい?」

「断る」


 一睨みしてから、踵を返す。リビングではなく、自室の方へ。

 それが全ての間違いだった。


「面白いことになってるね!」


 扉はしっかりと閉めたはずなのに、入り口から盛大な皮肉が聞こえてきた。

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