第13話 鹿は風邪を引かないのか
五月まであと一週間を切ったのに、その日はとても寒かった。十度台前半というふざけた気温。昨日までは後半はおろか、二十度台まで達したことさえあるにもかかわらず。
だからか。予定よりも早く目が覚めた。洗い物を済ませて、米を研いで、余裕たっぷりに家を出た。北風は冷たかった。
テレビでは風邪への喚起を声高に繰り返していた。それは朝のホームルームでも同様で――
「気温差で体調崩さないようにね。手洗いうがいはしっかりと。明日休んで連休を勝手に伸ばさないでよ」
記録的な寒さを、濱川先生は茶化す。教室がどっと賑わった。
やや肌寒さを感じつつ、午前中を乗り越えた。冬場よりきつかったように思えたのは、暖房が入っていないからだろう。
「鹿久保君、お昼は? 今日も食堂?」
「購買だ」
「そうなんだ! じゃあ待ってるね」
「ああ、勝手にしてくれ。俺は中庭出るぞ」
華宮は口をあんぐりと開けた。瞼が何度も上下している。信じられないものを見るような目つきとして、参考書に載せたいと思える素晴らしい呆れ具合。
俺は眉を顰めて、わざとらしく鼻を鳴らした。
「……うそでしょ?」
「大真面目だ」
「やめときなって、絶対風邪ひくよ。明らかに寒そうだもん! ビュービューいってるもん!」
「なんともねえよ、こんなもん」
「うわぁ、残念なくらいの強がりだ……まあ、いってらっさーい」
ひらひらと、あの女は力なく手を振った。
ということで、しばらくぶりに食堂以外で一人きりの昼飯の時間を得たわけだ。当たり前のように、中庭に人の姿はない。
やはり、昼休みはこうして過ごすに限る。食堂の飯は嫌いじゃないが、人が雑多なのはマイナスポイントだ。そして、さすがに毎日あの男の顔を見ていると飽きる。
しかし、今日に関しては失敗だったと言えよう。あいつの言ったように、普通に寒かった。
下がった体温というのは、なかなか戻らないもの。五六時間目は午前の日じゃないくらいに、集中力を欠いた。禁断の手である、保健室に逃げ込みたくなったほど。
だが、それをするとあとで困る。ただでさえ、各授業の出席日数がガタガタなのだ。これ以上変なことをすれば、欠席可能コマ数の計算がより煩雑になる。
それでも何とか耐えきって、放課後を知らせる鐘の音を無事に聞くことができた。
「鹿久保君、帰ろう!」
「バイトだ」
「……あ、そうなの。じゃあ今日はさよならだね。流石に寒すぎてまっすぐ帰りたいや」
「そりゃ、そんな格好してたらそうだろうよ」
奴は身体の前で手を交差させると、スカートを押さえる仕草をした。そして、ちょっとだけ足を閉じる。
「ちょっとどこ見てんのよ! ヘンタイっ!」
「女子の制服って寒そうだよな、って話だぞ。人聞きの悪いことを言うな」
スカートはどうしてそんな非合理的な構造をしているのか。しかも華宮は素足だ。全く理解できない。
珍しく、あいつと校門前で別れて一人新崎ベーカリーへと向かう。
バイトの最中は、特に変わったことはなかった。強いていえば、売れ行きが悪かったことくらいだ。おかげで、いつもより多めに売れ残りをもらってしまった。
家に着いたのは七時ごろ。寒さは勢いを増していた。家の中まで、冷え切っていて仕方がない。
本来ならば、これくらいどうってことないのに。やはり、昨日まで例年以上に暖かったのが響いている。気温が乱高下するのは、本当にやめてもらいたい。
パパっと夕食を済ませて、早めに布団に入った。今日という一日は至極平和だった。明日もそうだといいのに。その後は連休で、しばらくあの煩わしい生活から解放されるから。
――その時の俺は、目が覚めた時に地獄のような苦しみを味わうことになろうとは、全く考えもしていなかった。
*
時刻は朝の七時をちょっと回ったところ。カーテンの隙間から、朝陽が部屋の中に差し込んでいる。
『どうする? そっち行くか?』
『いや、平気だ。夕さんへの連絡だけ頼む』
『了解。何かあったらすぐ電話してくれよ』
寝そべったまま、スマホとお別れをした。正直、もう限界だった。
顔面を思いっきり枕につける。ぬるい感触がそこにはあった。
意識が覚醒して早々に身体の異変に気が付いた。まず何より頭が痛い。割れんばかりなほどに。そのせいで、未だに起き上がれていない。
さらに喉はひりひりと焼き付き、鼻水は止まるところを知らない。咳自然とこぼれ出る。痰を絡めて。トドメと言わんばかりに、このなんともいえない倦怠感と異常なほどに火照る身体。
これを風邪と言わずして、何を風邪と呼ぼうか状態。今なら風邪薬のCMにだって出れる。
……改めて思い出すと、昨日の一日の行動が全てフラグだったように思えてきた。タイムマシンがあるならば、その時の自分に今の風邪をうつしてやりたいところだ。
とりあえず、気力を振り絞って、何とか寝床を抜け出した。立ち眩みを覚えつつ、壁を頼りにリビングへ。
横着して、ソファ背後の和室で寝ることにしたのが功を奏したかもしれない。最後に自室のベッドを使ったのがいつだったか、覚えていない。
食器棚と合体した戸棚に辿り着き、一心不乱に引き出しを漁っていく。
薬、早く薬を……シラフだったら、相当マズいセリフだな、これ。
時間が引き延ばされているような感覚。気を抜けば、痛みに意識を持って行かれそうになる。
それでも、ようやく薬瓶が見つかった。
「……終わったな」
ガラス瓶の中には白い錠剤が四錠しか入っていない。しめて、一回と三分の一回の分量。
この風邪薬がよほど強力なものじゃない限り、新たに買いに行く必要がある。あるいは、己の自然治癒力を信じるか、だ。
ただ、現状一歩たりとも外に出たくない。自慢じゃないが、行き倒れること必至。
三錠飲んで(食後とか知ったことか)、大人しく布団に戻った。妙な温もりがあるのが、またなんとも腹立たしい。
目を閉じるものの、すぐに眠れるはずもなく。風邪特有の苦しみが、永遠に続いていく。ゴホゴホ、ズルズル、ズキズキ、イガイガ……様々な擬音が俺に襲い掛かっていた。
………………だれか、たすけてくれ。
果たして、どれくらいの時間が経っただろうか。
ピンポーン……ピンポーン。
目が覚めたのは、インターホンが鳴ったから。いや、その前にもう目が覚めていたのかもしれない。
哲学をやろうとしたら、頭の痛みがそれを妨げた。
眠ってはいたらしい。しかし、症状が少しも収まっていないのは、どういうことだろう。
絶望を通り越して、笑えてくる。
なおも無機質な機械音が室内に鳴り響いている。それがまた、頭痛を加速させた。
(兄貴……いや、夕さん?)
今は何時なのだろう。カーテンを閉め切っているせいで、よくわからない。ただ、気持ち日差しは傾いている気はする。
渾身の力を振り絞って立ち上がった。おぼつかない足取りで、受話器のところへ。
このマンションはオートロックなため、来客はまずエントランスで足止めされる。一応、カメラ付きインターホンでもある。
そこに、円籐高校の制服を着た女子生徒が立っていた。うん、よく見覚えがある。
いつまでも鳴らし続けやがるので、応答した。
「鹿久保君、プリント届けに来たよ~」
頭痛は今、限界突破する――
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