第10話 馬鹿と妖精
騒然とする食堂の中を、あの女はまっすぐこちらに向かって歩いてきた。周囲の喧騒など、どこ吹く風。
俺たちの席のそばに立つと、ちょっと不思議そうに首を傾げた。
「? 鹿久保君の友達!」
「違う」
「あれ、どこかで見たことあるような……」
華宮は腰を曲げて、しげしげと馬崎の顔を覗き込んだ。その眉間には軽い皺が寄っている。
じろじろみられているのに、馬崎の奴はどこか嬉しそうな顔をした。つくづく頭のおかしな奴め。
「おっ、『籐円の妖精』に知っていただいているなんて、光栄だなぁ!」
「ちょ、ちょ、それやめてよ~。恥ずかしいからぁっ!」
奴の顔が朱色に染まった。大きくのけぞると、顔を小刻みに揺らし始めた。その目は大きく開いている。
「妖精ね……ふうん」
「鼻で笑うな!」
「いや悪い。でもよく似合ってると思うぞ?」
「バカにして~~~~っ!」
今度華宮はプルプルと震えだした、下唇を噛み、目力を強め、拳を握り、顔は紅潮したまま。
この言葉はなかなかいい威力を発揮するらしい。まあそんな大仰な渾名を良しとする、自意識過剰な奴はそう多くないだろう。華宮もまたその類の人間じゃなかった、ということだ。昨日のバイト先での出来事が微かに脳裏を過ぎる。
「なんだ、正宗。息ぴったりじゃないか」
「ぶっ飛ばすぞ、馬崎」
「馬崎……! そうだ、馬崎省吾君だ!」
パン――手拍子が一つ鳴った。華宮が手を合わせて叫んだ。先ほどまでの赤面は、得心がいった表情に変わっている。ただ、その残滓は耳の部分に。
「お前の悪名もずいぶん広がってるようだな」
「君じゃあるまいし……俺はただの小悪党だって」
「どういう意味だ?」
ギロリとひと睨みするが、この男はただ笑ってスカしてみせた。とことん食えない奴め。
「そうだよね? 鹿久保君との、その、め、めいこんびが、噂になってる馬崎君。前、一回教室で見たこともあるし」
「……名コンビ、ねえ。どうせあれでしょ、『馬鹿コンビ』のこと」
「またそれか……ったく、言い出したのはどこのどいつやら」
俺と
一年生も半分を過ぎた頃から、そう呼ばれていることを、片割れに教えてもらった。クラスの中で、頻繁にツルむようになったからだろう。
ある事件以降、馬崎に対してはかけらほどに親しみを覚えていた。クラスのはぐれ者同士、妥当な帰結ともいえる。客観的に見れば。
「……いや、えーっと」
「気、遣わなくていいぞ」
華宮は未だに言い淀んでいた。
容赦がないとまでいえるほどのはっきりとした性格じゃなかったのか、こいつは。その心配りを普段から発揮してもらいたいものだ。
「でも、ひどいよね! 人の名前でイジるなんてさ!」
「正宗、この子天使……いや、女神だ!」
「何言ってんだ、妖精だろ。——俺たちのとは比べ物にならない、素晴らしい呼び名だよな、妖精」
「う、うぅ、また言った……鹿久保君の馬鹿、アホ、えーと……かっこつけ!」
子供みたいな悪口を続けられた挙句、とんでもなく失礼な一言が出てきた。本当に、こいつについては呆れ果てるところ、底はしれない。
それにしても、どれだけ『妖精』と呼ばれるのが嫌いなのか。また顔が赤くなってるし、もはや瞳は潤んで見える。
「怒った綾芭ちゃんもかわいいなぁ」
「あ、怒ってたのか、今の」
「そうだよ、当たり前でしょ! 人の嫌がること、しちゃいけないんだよ!」
「……自分の胸に手を当てて、今までの俺に対する所業を思い返してみろ」
「今度は、セクハラだ……鹿久保君って、サイテーな人だったんだね」
ダメ押しと言わんばかりに、奴はジト目で睨んできた。
あんまり変なことを言わないでいただきたい。周りの目もまた、一層厳しくなった気がする。
そして、馬崎よ。いちいち、感嘆のため息を漏らすのはやめてくれ。
「いやぁ、実物の綾芭ちゃんはこんなにもかわいいなんて……どうしよう、正宗、俺恋しちゃったかも」
「お前、例の先輩はどうしたんだよ」
「それはそれ。これはこれだよ。女性はこの世に星の数ほどいるんだ。複数の人を同時に好きになるのも仕方ないよ」
「とか言ってるが?」
「……あの、嬉しいけどごめんなさい」
「いきなり玉砕したっ!?」
馬崎はそれなりに衝撃を受けているように見えた。がっくりと肩を落として、白く燃え尽きている。どこまで本気で言ってたんだか、こいつは……。
その告白相手はといえば、完全にひいていた。周囲もまた、居た堪れない雰囲気に包まれている。
「……で、アンタ、何しに来たんだ?」
「えっ、別に何も。ただ鹿久保君とお昼を、と」
「知らないかもしれないが、食堂は持ち込み禁止だぞ?」
「うん。生徒手帳に書いてあった」
「そうなのか……」
初耳だった。そもそも、ろくすっぽ開いた例はない。あの冊子に身分証以外の用途があることを、たった今初めて知った。
「で、もう少しかかりそう?」
「……なんで待つつもりなんだよ。教室戻るってことは、俺の昼食は終わってるってことだぞ」
「そうかもだけどさ、せっかく卵焼き、多めに作ってきたわけだし」
「綾芭ちゃんの卵焼きっ⁉」
バカが復活した。前のめりになって食いついている。
とても気持ち悪い。珍しく、あの女の表情も強張っていた。
「誰も頼んでないが?」
「またまた~、素直じゃないんだから。美味しかったんでしょ、あたしの卵焼き」
「おいっ、正宗! いったいぜんたい、どうなってるんだ⁉」
「叫ぶな、いちいち……」
そのせいで、動揺がギャラリーにまで広がっている。
これ以上、この女と話すのは得策じゃない。
「とにかくだ。さっさと戻れ」
「鹿久保君は?」
「俺にはまだ、伊勢うどんと化したこの肉うどんを食べる必要がある」
「? どういう意味?」
「……たぶんだるんだるんにのびきってるって、言いたいんだと思う」
困惑した瞳を向けられた馬崎は、心底自信がなさそうに答えた。俺の方を、気の毒そうにちらちら見ながら。
「そっかー、残念。じゃあまた今度だね」
「今度はない」
「はいはい、わかりましたよー、だ。――じゃあ、馬崎君。この人のこと、よろしくね」
「何がかは分からないけど、任されました!」
「なんなんだ、いったい……」
呆然とする俺、敬礼姿の馬崎を残して、あの女はハリケーンの如く去って行った。
昨日の今日でそのあっさりとした引き際に警戒心を抱きつつ、一つ深いため息をつく。ようやく食事にありつける。
ハリを失ってしまった肉うどんを見て、改めて箸を握り直した。
「聞いてはいたけど、目の当たりにするとびっくりだ。噂は本当だったとはね」
「……なんだよ、噂って」
「二年イチの不良が、学園のアイドルと最近よくツルんでるって話。カフェにも行ったんだって?」
「そんなものまで出回ってるのかよ……」
人間の発信力には、うんざりするものがあるな。そんなにも他人のことが気になるのか、俺には理解できない、したくない。
「まあ、綾芭ちゃんは言うまでもないけど、正宗も目立つからね。目つき悪いし、ごつい身体つきしてるし」
「お前の髪の毛だって、いい線行ってるぞ、不良」
「地毛だから、これ」
「俺のも、地だ」
忌々しげに鼻を鳴らした。
馬崎は仕方ないな、という風に小さく笑った。
「ま、同じはぐれ者のよしみで警告だけはしとくよって話さ」
「警告ねぇ。そんなものより、あの女をどうにかする方策を教えてほしいもんだ」
「それって、好きだからどうしたらいいってこと?」
「寝言は寝て言え。これっぽっちの興味はないさ」
「だったら、はっきりそう言えばいいのに」
痛いところを突かれて言葉に詰まった。
あまりのド正論。それができれば苦労はしていない――とてもそれを口にはできない。自分の一貫性のなさを、認めるような気がして。
「正宗って、変に相手のこと気遣うよね。他人を寄せ付けようとしないのも、それが面倒だからでしょ」
「どうだろうな」
「まあ、ほどほどに付き合ってあげればいいじゃない。あんなかわいい子、二度とお近づきになれないレベルだぜ、俺たちにとっちゃ」
「だったらお前が相手してやればいいさ」
「俺にはセンパイがいるから」
恋に落ちたかも、なんて言ってたのはどこのどいつだよ……呆れながらも口に含んだうどんは、なんともいえない味がした。
*
教室に戻った俺は愕然としていた。
机の中にはタッパー。そこに数個の卵焼きが詰め込まれていた。
あいつ、人の机の中を何だと思ってるのか。どこぞのネコ型ロボットのポケットじゃないんだぞ。
華宮の姿は全く見えなかった。周りの人だかりが、あいつの姿をすっぽりと覆い隠していたからだ。
仕方なくそれは鞄の中へとしまい込んだ。
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