第8話 不審者の襲撃

「ありがとうございましたー」


 慇懃無礼に頭を下げる。三十代半ばくらいの主婦がビニール袋を提げて店を出ていく姿を見送った。


 今は最後の穏やかな時間帯。これから三十分もしないうちにラッシュが始まる。

 結局、空模様は学校を出る頃には快方に向かっていた。だから、客足が減ることはないだろう。


 香ばしい小麦粉の匂いを感じながら、手持無沙汰に店内を眺めた。客の姿はゼロ。前面がガラス張りなので、通行人の姿がばっちり見えた。


 故に、いち早く危険を察知した。


 すぐに奥へと下がる。調理場には店長の奥さん――奈穂なほさんがいた。


「あら、鹿久保君。休憩?」

「まあそんな感じです」


 カランコロン。入口に取り付けてある鈴が鳴った。入店の合図……胸の中に、暗い影が広がっていく。

 途端、俺と彼女は顔を見合わせた。この部屋には焼き立てのパンの香りが充満している。となれば……


「ごめんね、お願いできる?」

「……はい」


 わかってはいた。それでも、一縷の望みをかけたんだ。

 うんざりしながらカウンターに戻った。


「あっ、鹿久保君! グウゼンダナー」

「白々しいな。せめて、隠す努力はしろ」

「何言ってんだか、全然わかんない!」

「大声出せばいいってもんじゃねえ」


 うちの高校の制服を着た女が、こちらを向いて立っていた。トングとトレーを持っていることから、客だ……非常に歓迎したくないが。


「まっさか、鹿久保君がこんな素敵なパン屋さんで働いてるとはねぇ」

「似合わないって言いたいんだろ?」

「ううん。そのエプロン姿、とってもキューッ!」

「無駄に発音良いな、アンタ……」

「えへへ、もっと褒めてくれてもいいんだよ?」

「さっさと選べ。そしていち早く立ち去れ」

「それがお客さんに対する態度かなー?」


 あまりの腹立たしさに、強く鼻を鳴らした。


 すると華宮は舌をぺろりと出した。肩を竦めて、こちらをただひたすらに煽ってくる。

 ようやくパンを物色し始めた。時折、商品名や印象を呟く声が聞こえてくる。とても楽しそうだ。何が楽しいのかは、全く理解できないが。


 いったい、この地獄の時間はいつまで続くのか。さっきとは逆に、奈穂さんの調理が終わらないことを願う。


「はい、おねがいしまーす!」

「……はぁ」


 奴が置いたトレーの上には、クロワッサンとストロベリーホイップサンド。散々迷った挙句、この二品だけ。いや、選りすぐりの精鋭かもしれない。

 実際、どちらもうちで人気の商品だ。


 一年以上働いていれば、どのパンがいくらかは頭に入っている。軽快にレジを打っていく。


 そこへ――


「賑やかだと思ってみれば、籐円とうえん学園の生徒さんじゃない。しかも、すっごいかわいいっ! もしかして、鹿久保君のお友達かしら?」


 のっそりと、奈穂さんが姿を現した。ちょうど手すきの時間に当たったらしい。


「違います。赤の他人です」

「うわー、クラスメートに対してそういうことを言う!」

「ふふっ、なるほどね」


 奈穂さんは目とちょっと細めると、優しげな笑みを浮かべた。

 なんだか背中がむず痒い。


「そうだ。割引してあげるわ。鹿久保君がお友達を連れてくるなんて初めてのことだしね」

「連れてきてないです、奈穂さん。――アンタ、尾行けてきたな?」

「違うもん! そんなことないもん! 偶然だもん!」


 子供か、こいつは……


 この店は高校からは歩いて十五分くらい。しかも昨日のカフェとは逆方向。必然的に華宮が帰った方角とも違う。

 寄り道は決してあり得ない。しかもややこしい路地の中にあるから、初見で辿り着くのは不可能といえる。


「ぐぬぬ、まるで探偵みたいに……」

「恥ずかしいからやめろ」

「あら、モテるのね、鹿久保君」

「ただのストーカーですよ、こいつ」

「むっ! ストーカーとは人聞きが悪い! あたしはただ、その、尾行の練習を……」

「おおよそ、普通の高校生に必要ないことだと思うが?」


 というか、今のは自白だ。語るに落ちるというやつか。


 どうやら華宮綾芭についての認識を改める必要があるかもしれない。過去は変えられないが、未来は変えられる。こういう状況で、思い浮かべる言葉ではないが。


「まあまあ、鹿久保君。こんなにかわいい子ならいいじゃない」

「そ、そんなかわいいだなんて、あたし、そんな……」

「あらま、顔が一気に真っ赤になった! 」


 奈穂さんは声を上げて笑った。微笑ましいものを目の当たりにして、つい堪えきれなかったように。


 よりたじたじになる華宮。初めて見る奴のそんな姿に、天敵という単語が閃いた。


「じゃあはい、お会計はっと――」


 俺と立ち位置を入れ替わり、奈穂さんがレジを慣れた様子で操作する。

 表示された金額は少し割引されている。友達価格とやらが適応されているらしかった。


 代金を支払い終え、商品を受け取った華宮は、袋の中からクロワッサンの小袋だけを取り出した。それをカウンターに置くと、こちらに押し込んでくる。


「はい。こっちはあげる」

「…………は?」

「頑張ってるキミにプレゼント、ってね」

「これから忙しくなるんだし、ありがたく受け取っておいたら?」


 しばらく台の上のクロワッサンと睨めっこをしていたが、その一言が決め手となり、俺はそれを手に取った。

 居心地の悪さを覚えつつ、それでもしっかりと華宮の顔を見る。


「…………ありがとな」

「えらいねぇ、ちゃんとお礼を言えて」

「おちょくってんのか? おちょくってんだよな!」

「わわっ、鹿久保君がキレた! それじゃああたし、帰ります!」

「また来てね、ええと――」

「華宮綾芭です!」

「綾芭ちゃんね。素敵なお名前! 私は、新崎にいざき奈穂よ。またおいでね、綾芭ちゃん」

「はい、奈穂さん! また明日ね、鹿久保君」

「ああ」


 騒がしいままに、あいつは店を出ていった。最後に一度振り返り、こちらに向かって手を振ってから。

 奈穂さんだけがそれに応じた。


 また新崎ベーカリーに静寂が戻ってくる。俺は、あいつから貰ったクロワッサンの扱いに困り果てていた。


「さて、あの人にも、この話教えてあげないと」

「それはぜひともやめて頂きたいんですが……でも店長、いつ帰ってくんすかね」

「……セール前には戻ってくるわよ、きっと」

「戻ってこなかったら?」

「……ふふ。二人で頑張りましょうね」


 にっこりとほほ笑む奈穂さん……いや、副店長。その笑顔に、俺は得体の知れないものを感じてしまった。ただひたすらに恐怖。


 閉店セールになっても、彼女の夫が戻ってくることはなかった。

 その後、完全に後片付けが終わったタイミングで、例の髭面が差し込んできた。たちまち別のトラブルが発生したが、それは俺には全く関係のない話だった。


 夜闇の中とぼとぼと帰る俺の鞄の中には、まだ華宮に貰ったクロワッサンが入っていた。

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