第3話 ゴーイングマイペース
その可能性については、濱川先生と電話で話した時から頭にあった。
けれど、片隅に追いやっていた。道端でのやり取りにおいて、向こうもこちらに気付いた様子はなかったからだ。
「ちょっとちょっと、無視しないでよー!」
困惑する俺に、さらにあの女は追い打ちをかけてくる。
言われたところで、返す言葉は思いつかない。仕方なく軽く会釈だけで済ませておく。
そのまま自分の席へ。
「なんだ、あいつ、感じ悪いな」
「アヤハちゃんが話しかけてる、っていうのに!」
「かっこいいとおもってんのかな、あれ」
「ってか、今頃登校してくるって」
入り混じった男女の声がこちらまで届いてくる。聞かせるつもりで言っているのかもしれない。教室の微妙な静寂がそれに一役買っている。
だが構うことなく、俺は腰を下ろした。何事もなかったように。午後の授業道具を作の中に仕込んでいく。
「まあまあみんな。鹿久保君は照れ屋さんなんだよ」
流石に聞き捨てならなくて手を止めてしまう。そんなこと言われたの初めてだ。
「いや、アヤハねぇ」
「ちょっと待ってて。あたし、鹿久保君とお話ししてくるから」
「はっ!? ちょ、ちょっと何言ってんのよ!」
それは俺のセリフでもある。唖然としてただ固まっている内に、あの女がすぐに目の前に現れた。
「やあやあ、鹿久保君。さっきぶりだね!」
流石に顔を上げて相手の顔を確認した。うん、間違いなくあの変な女だ。この長い髪と、特徴的な泣き黒子に見覚えがある。
口を利くのは面倒くさい。しかしどうしても言わないとならないことがある。
「白々しいな。アンタだろ、濱川先生に告げ口したのは」
「告げ口って、小学生じゃないんだから。ええと、なんていうんだろ。通報?」
「ただの言葉遊びだな」
「コトバアソビ?」
そんなに難しい表現じゃないと思うが、奴は首を傾げた。
思わずため息が出そうになるのをぐっと堪えて腕を組む。うんざりした気持ちを込めて、相手の顔を強く睨んだ。
「言い方が違うだけで、意味は変わらないってこと。屁理屈ならわかるか?」
「ああ、そっちなら! 鹿久保君が使うやつだね」
ポンと手を叩いて、とても納得がいった顔だ。清々しいほどに腹が立つ。
「全く。アンタがあの人に教えなければ、こんなことには……」
「いやぁ、やっぱりクラス委員としてはクラスメートの無断欠席は見逃せないというか」
「だったらあの時止めてくれればよかっただろ」
そうすればこの二度手間なかった……とは言えないな。きっと聞く耳を持たなかっただろう。むしろ口封じにかかったかもしれない。
「だってあの時キミ、あたしのことに気付いてなかったよね?」
「…………そんなことは」
「じゃああたしの名前言ってみて? もちろん、フルネームで」
女は腰に手を当てて挑むようにこちらを見てくる。閉じた口の端が、微かに上がっている。得意げな表情として、教科書に載せたいほど。
名前は想像はつく。しかしその苗字はかけらも浮かばない。というか、記憶を探るつもりもない。同じクラスだから聞いていたとしても、気づかないうちに耳から零れ落ちている
日本に一体どれくらいの苗字があるかは知らない。しかし、ここでぴたりと当てるのは不可能に思えた。
「佐藤アヤハ」
「ぶっぶー、残念でした~……って、名前は知ってくれてるんだね」
「みんな、アンタのことそう呼んでたからな」
「なんだ、そういうことか。よろこんで損したぁ」
ぷくりと頬を膨らませると、奴は眉を顰めた。とても同い年の奴がする表情には思えない。
「やっぱりあたしのこと、知らなかったじゃん。同じクラスなのにひどくない? 鹿久保君、はくじょ~」
「……クラス替わったばかりなんだ、仕方ないだろ」
「えー、もう四月も終わるんだけど!」
机を叩くと、あいつは身を乗り出してきた。顔を間近に近づけてくる。
あまりにも近すぎる距離に、俺は椅子を引いた。
「ちょっとアヤハ! さっきから鹿久保なんかとなに話してるのよ」
金切り声が聞こえてきて、髪の短い女子がやってきた。
また厄介なのが増えたな。早いところ、俺の平穏な昼休みを返してほしい。残された時間は少ないといえど。
「カスミン、なんかなんか言ったらだめだよ」
「……頭が悪くなるような言い方ね」
カスミンとやらは、小さくため息をついた。身長がアヤハよりも頭一つ分高く、その顔の造りもあって、かなり大人びて見える。言い方を憚らなければ保護者。
「騒ぐなら余所でやってくれ」
「ほら、鹿久保もこう言ってることだし、戻るよ」
「えー、あたしもう少し喋っていたいんだけどなー」
「なんなのよ、突然……こいつと何かあったわけ?」
カスミンの切れ長の目がより細くなった。やがて怪訝そうにこちらにまで顔を向けてくる。
そんな表情をされたところで、ただ困るだけだ。俺の方こそ、いきなりこいつに絡まれて困ってる。過去の軽薄な行いを、ひどく憎むほどに。
「さっきね、道で会ったの」
「……さっきって、アンタが今日来たの、四時間目の途中じゃない」
「うん」
「今昼休みよ」
「うん」
「……どういうこと?」
カスミンは再度こちらを見てきた。友人に訊いても埒が明かないと思ったらしい。
それは正解だと思う。アヤハはただニコニコしているだけだった。
「いったん家に帰ったんだ」
「それでまた来たの? 馬鹿じゃない」
「ねー、あたしもバカだと思う」
ついでに言うと俺もだ。
ただ口に出して同調するわけにはいかない。代わりに不機嫌そうに鼻を鳴らしておく。
「バカで結構。とりあえず、さっさとそいつを連れて帰ってくれ」
「言われなくてもそのつもり。――ほら」
「えー、鹿久保君、つれないなぁ」
「強情ねぇ……。その
道端での遭遇と態度の急変は簡単に結びつくことだろう。そこに対して、偏った見方を持ち込んでもおかしくはない。
でも、他人が疑うようなことは何もない。ただ泣いているアヤハに話しかけて、少し話し込んだだけ。
だから俺自身も、この女の態度に戸惑いを覚えている。たったそれだけのこと、しかも決して友好的に接したわけじゃないのに。どうしてこうも馴れ馴れしいのか。
「クラスメートのことをもっと知りたいって思うのは、普通のことじゃない?」
「……アヤハは本当に優しいねぇ。こんな奴のことまで気にかけて」
「別に気にかけるとかそういうんじゃ――」
話し込む二人をよそに、俺は立ち上がった。
アヤハは驚いたような顔で見上げてくる。
「どこ行くの? また帰る?」
「まさか。五時間目はもうすぐだから、ここじゃないどこかで暇を潰すさ。俺の方にアンタとお喋りするつもりはないんでね」
トイレに行って、水飲んで、購買でも冷やかせばいい時間になるだろう。
ともかく今はここにいたくない。この女はきっと容赦なくちょっかいを掛けてくるだろう。さっきの返答はそういうことを意味している。
「アヤハ、あいつはああいう奴だって。話しかけてみても仕方ないよ」
「そうかなぁ。意外と鹿久保君――」
廊下に出る過程で、後ろから二人の話し声が聞こえてくる。さらに、周りから不躾な視線が向けられるのも感じる。
カスミンの言うことは正しい。話しかけられたところで、相手にするつもりはない。
なるべく人と関わり合いにならないようにする。それが高校生活の目標の一つでもあった。
*
あの女――
今までも耳にしていたが、その中心にいたのがあいつだとは……。まさに人気者、という人種。
それがなぜあんなところで一人泣いていたのか。しかも遅刻までして。二つの像はあまりにもかけ離れすぎている。
まあ人には人の事情があるというものだ。他人がおいそれと足を踏み入れてはいけない。そのことを、俺は経験からよく学んでいる。
だからこうして一人過ごすことを好んだ。その限りにおいては、面倒な事態に巻き込まれないで済む。
人付き合いは。俺にとってあまりにも難しすぎる。
「退屈そうにしてるねー」
「なんだまた来たのか。あっちいけよ。アンタの居場所はここじゃないぞ」
「それはキミが決めることじゃないと思うけど」
笑顔で返された。華宮綾芭、アホっぽく見えるがなかなかに手強いところがある。
本当に放っておいてほしいんだが、あれこれと考えが邪魔をして口に出せないでいた。これはきっと、一生治らない性質なんだろう。
「ねえねえ、鹿久保君。放課後、暇だよね?」
その押し付けがましい疑問文に、俺は嫌な予感しか覚えないのだった。
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