自殺したら死神になった
@sakuragi_re
凡人の六月
梅雨入り真っ只中の六月十七日、私は自殺した。
理由は、とってもシンプル。死にたくなったから、だ。
けれど、ここまでの道程は、自殺の動機のように簡単ではなかった。確実に死ぬための方法や、死にきるまで誰にも見つからない場所と時間が必要だったし、そうは言ってもある程度、遺される人たちへの配慮をしなければならなかった。
だから私は、何十枚にも及ぶ遺書をしたためたし、なけなしのお金を使って、なるべく遠くへ、遠くへと、生まれ育った長野県から、はるかに離れた。山奥の、適当に丈夫そうな樹木の太枝で首を吊ったのだが、その山は、なんて名前で呼ばれているものだったのだろう。知らない土地の知らない山奥。思い出せない、県の名前。要するに、ここは何処なのか完全にわからなくなるほど遠くまで行って、そうしてやっとの思いで死んだ。
命日となった六月十七日は、私の二十六回目の誕生日だった。
もっとも、命日だと知っているのは私自身だけで、遺された人たちにとってすれば、行方不明になった日なのだろうけれど。
死後の世界とか、天国だとか地獄だとか。
あるのかないのかを考えることは好きだったけれど、どちらかといえば、ないものだと思っていた。死んだあととは、きっと空虚だ。空っぽになったコップと一緒。
それでよかった。
「はい、ようこそ死後へ〜〜! 生前、お疲れ!」
……私の持つ希望や理想は、打ちのめされるためにあるのかもしれない。死んでもそうなのか、と嫌な気持ちになった。
見渡す限りの暗闇に、ぱっと現れた謎の物体が、わちゃわちゃと騒ぎ立てている。声もうるさければ、動作もうるさい。円形の黒いもやもやが、その輪郭だけをぼんやりと照らして、左右上下に動き回る。
「というわけで、これから君は死神です! 魂をテキトウに集めてきてね!」
はい? なんのこと。
呆気にとられた感情は、声にはならなかったけれど、どうやら眼前のもやもやには、しっかりと伝わったらしい。
「これカゴ! これに入れといてね!」
伝わったからといって、汲み取ってはくれないようだ。
私の目前に、ぼう……と浮び上がるカゴ。それは楕円形で、てっぺんにフック状の持ち手がある。
鳥かごのようだと思って、胸が少し痛んだ。空っぽの鳥かご。生前の私は、インコを飼っていた。あの子の命日は、七月八日。一年前に死んだ。それは突然の出来事で、病気だったのか、寿命だったのか、わからない。けれど、小さな体は十二年くらい生きて、私の手のひらの中で死んだ。
私は、首を横に振る。振った、という感覚はなかったが、丸くてうるさいアレに伝われば、それでいい。
これ以上、インコのことを思い出すのは寂しいし、それとは関係なく、受け取るのは嫌だ。
死神が、なんだって?
「大丈夫、大丈夫! 難しいことなんか何もないからさ! それに」
ゆらゆら、ふわふわ、たまに、バチン。目に見えない床か何かにぶつかったりもしながら、それは喋る。
「君は自殺者でしょ? なら、慰安旅行みたいなもんだからさ! とにもかくにも、行っといで〜〜!」
馬鹿みたいに明るい声色から、真っ白い光が放たれて、私はそれに包み込まれる。
あんまりにも眩しい光が、目に痛い。咄嗟に、きつく瞼を閉じた。
次に瞼を開いたとき。
そこには、世界が、広がっていた。
見上げれば、そこには快晴の空。
見下ろせば、そこには硬い大地。
私は、確かに立っている。自分の両足で、地面に立っている。両腕も、自分の意思の通りに動く。手のひらを見つめると、右側の手首に、カゴがぶら下がっていた。
――冗談じゃない。何の為に、死んだと思っているの。
突拍子もない理不尽に、ふつふつと怒りが込み上げる。けれど私は、このカゴをぶん投げずに済んだ。
この身体は、呼吸をしていない。形はあるけれど、生きてはいない。そのことに気がついた。死んでいる、という確かな実感が、私を冷静にさせた。
……ここは、どこなのだろう。
私は、改めて周囲を見渡す。
ブランコがあった。滑り台があった。砂場には崩れかけの、お城らしきものが残されている。
公園のようだ。
「おーい、タチバナ!」
背後から、声がした。振り返ると、そこに男の子が立っていた。紺色の制服姿に、肩下げのバッグ。男の子と言っても、高校生くらいだろうか。
軽く手を振って、何かを見ている。その視線を追いかけて、彼の、ちょうど反対側。向こうの方から、ゆっくりと、同い歳くらいの女の子が歩いてくる。
制服も、バッグも、お揃いだ。
「タナカ!」
ぱっと咲くような笑顔が、向日葵のようで可愛らしい。ぶんぶんと大きく手を振って、タナカと呼んだ男の子に走り寄っていく。お互いに近づきあって、公園の中心あたりで立ち止まり、向かい合った。
「すっかり梅雨明けだね」
「だなぁ。もう、あっちいよ」
「あはは、これから夏なのに」
「それなあ」
ずいぶんと仲が良いみたいだ。話し合って、笑い合う二人を、私は立ち尽くしたまま、ぼうっと眺めている。
完全なる不審者だ。
「あっ、ねえ、言ったっけ? 私ん家、引っ越すんだよ」
「はっ? 知らない。いつ? どこに引っ越すの?」
あれえ、言ってなかったか。
確か、タチバナと呼ばれていた気がする女の子は、こてんと小首を傾げる。はにかむ表情が、やっぱり可愛らしい。
「笑っちゃうの。お引っ越しって言っても、今のとこから三軒隣」
「はは、まじかあ。三軒」
「ふふふ、そう。だから今週の土曜日、よろしくね。手伝ってくれたら、母さんが特製ホットケーキ作ってくれるよ」
「タチバナん家のホットケーキ! 行くわ」
はあ、青春だなあ。和やかなムードに、私は何をしているんだろう、なんて気持ちになる。頭の中がぼんやりとして、まともに思考することがだるいのだけど、だからっていつまで、二人の仲良しを眺めているんだろう。
ひとつ風が吹いて、右手のカゴがゆらゆら揺れた。ああ、そういえば。私は、私がどうしてここに居るのかも分からないけれど、とにかく、このカゴを寄越してきた黒いもやもやでも捜すべきじゃないだろうか。死神が、どうたらこうたら。よく分からないけれど、死んでまで面倒事はごめんなの。
こんなカゴ、さっさと返してしまわないと。
「あっ、それでね、タナカ」
タチバナちゃんが、ふと思い出したかのように、改めてタナカくんを呼んだ。こてん、と、今度はタナカくんが小首を傾げる。思えば、彼もまた、可愛らしいと呼べる顔だちだ。高校生くらいだろうと仮定したけれど、そのわりには、幼い顔つきかもしれない。
なに、と微笑むタナカくんの視線に、タチバナちゃんはにこにこ笑っていて。
「私ね、ちょっくら死ぬから」
堂々とした宣言に、私の思考は固まる。耳を疑った。
――今、あの子は、なんて言ったの?
私の目は、自然とタナカくんを見る。彼は、微笑んだままだった。「そっかあ」などと、ゾッとするほど呑気な反応だった。
「それじゃあ、土曜日、よろしくね」
「おっけえ」
片方の手と指で、小さなマルを作って答えるタナカくんと。
向日葵のように笑顔のまま、自分のバッグから刃物を取り出すタチバナちゃんと。
その光景を、唖然と眺める、私がいる――。
一瞬の出来事だった。
タチバナちゃんは、なんの躊躇いもなく自分の首を刺して、たくさんの血を噴き出しながら、呆気なく死んでしまった。
タナカくんの頬に、タチバナちゃんの血がついている。彼はそれを指で拭いとって、バイバイ、とだけ言った。
タチバナちゃんを見下ろす表情に、憂いはなかった。むしろ、微笑みを絶やさなかった。それは、例えば、お家に帰っていく友人を、バイバイまたね、と見送っているみたいだ。
実際は、死んでしまったのに。
バイバイをしたそれは、死体なのに。
「よし、俺も帰るかあ」
土曜日が楽しみだ、と言いながら、タナカくんは行ってしまった。公園を出て、街の中へと。
「ねえ、あなた死に神さんでしょ?」
ぽつん、と残された死体。その血まみれが、確かに喋った。大きく見開かれたままの眼球が、ぎょろりと私を見る。私は驚いて、多分、この身体を、びっくりと飛び跳ねさせた。
「あはは、ごめんなさい。死に神さんは臆病って噂、本当だったんだね」
「……あ、あなた……」
死体が、にこやかに笑っている。明るい口調で話している。どういうことなのか、混乱して、ちっともわからない。咄嗟に口から出た声は震えていて、あれ、私は喋れるのだったっけ、と場違いなことを考えた。
「死に神さん、私たちのこと見てたの?」
まるで、緊張している相手にたいして、天気の話をふるかのような気遣い。私は、享年二十六にして、おどおど、おどおど、みっともなく話す。
「えっ、と、あの、見て、み、みて、見て、ました」
「やっぱり。なんだか、ちょっとだけ恥ずかしい」
くすくす、と笑う声に、言った通りの恥じらいが混ざっている。この子は、どこまでも、生前のままのようだ。公園の中心に置き去りにされた死体だとは、とても思えない。
まあ、私は、その血まみれの死体に話しかけられているわけだけれど……。
「ど、どうして、死んだの?」
「えっ?」
「だって……」
理解できないことだらけだ。私は、きょとんとした彼女に、再度問いかける。どうして死んだの、どうして、タナカくんの目の前で? 土曜日にお引っ越しがあるのでしょう。お手伝いにって、呼んだばっかりだったでしょう。死ぬ動機もなければ、前兆もない。
それに、どうしてタナカくんは、至って普通のことのように……タチバナちゃんを置いて、行ってしまったの?
「落ち着いて、死に神さん」
タチバナちゃんは、少し困った様子で、私を宥めた。
「どうしてって、もちろん、死にたくなったからだよ」
私は、ますます分からなくなって、言葉を失った。無言のままに、少しずつ黒くくすんでいく血だまりと、それに身を浸らせる死体を見つめた。
とってもシンプルな理由だ。
死にたくなったから。
だけど、だからといって、死ぬのはそんなに簡単なことじゃない。
「……親御さんは、悲しむでしょう」
「どうして? 弟も妹もいるし」
「この公園の責任者に、迷惑がかかるでしょう? 死体が見つかった公園なんて、もう誰も使わない」
「どうして? この公園は自殺オッケーだし、ご近所さんの自殺は大体ここだよ?」
だけど、みんなに親しまれてる。私もタナカも、ここで遊んで育ったんだよ。……彼女は、とても不思議そうに、けれど淀みなく答えていく。
そしてまた、ひとつ笑った。
「死に神さんって、本当に不思議なんだね。まるで、異世界から来たみたいに」
異世界――。
私は、その言葉をオウム返しする。
「ここは、私の世界じゃ、ない?」
多分、とタチバナちゃんが相槌を打つ。
ここは、私の知っている世界じゃない。そんなこと、有り得るのだろうか。でも、仮にそういう話ならば、納得できてしまう。そもそも、あまりの出来事に失念していたけれど、私だって死んでいるのだ。
現実も非現実も、もはや関係ないじゃないか。
「異世界モノ、好きだったなあ」
タチバナちゃんが、のんびり笑っている。本やゲームのジャンルの話だろう。私は、ファンタジーなモノは好きだったけれど、異世界モノはどうだったかな。
「……この世界は、タチバナちゃんみたいに、たくさんの人が自殺するの? 当たり前、みたいに……」
「タチバナちゃんって! それ、すごく恥ずかしい。でも、新鮮かも」
彼女は噴き出すように笑ってから、私の問いかけに、「うん」と肯定した。
「自殺なんて、当たり前だよ。私のお爺ちゃんもお婆ちゃんも、自分で死んだし。タナカのお母さんもそう」
普通のことだよ、と言って、彼女は続ける。
「寿命なんて待ってられないよ。たまーにニュースで報道されるけど」
……ここでは、寿命による自然死はニュースになるのか。聞けば聞くだけ、異世界の説が濃厚になっていく。
タチバナちゃんは、とても優しい子だった。そして、とても賢いようだった。戸惑うばかりの私のことを、異世界から来た死神だと仮定して、この世界の様々なことを教えてくれた。
私の知っている世界と、同じところも沢山ある。例えば、学校は小学、中学とあって、高校から大学は自主的。社会も、法律も、規則も、ちゃんとある。
ただ、根本的に違うのは、死という概念についてだった。この世界において、死というものは、とても希望的な概念らしい。自殺をするならこんなふうに、という内容の雑誌が日々に溢れ、自死ができないようならば、町医者に行けば良いという。
「安楽死はちょっとお金かかるけどね」
整形するときの費用と同じくらいかなあと、タチバナちゃんは言った。
「いいなあ」
私は、すっかり感心して、ため息をついた。タチバナちゃんの暮らしていた世界は、それを知れば知るほどに効率的で、羨ましく思った。
誰が死んでも、誰も悲しまない世界。誰が死んでも、どこかで誰かは生まれるのだから、それで良いんだと、許しあえる世界。
死にたいと思う気持ちには、軽々しい冗談が混ざることもあるけれど、いざ死のうとそれを成し遂げるためには、相応の覚悟と勇気がいる。
ああ、あの子は、それくらい、死にたかったんだ。それなら、仕方がないよねって。
希望的な理解が、この世界には存在する。
「タチバナちゃんは、どうして死んだの?」
私は、再び尋ねる。今ここに、一度目のような動揺と、混乱はなかった。
それこそ、天気の話でもするかのように。バイバイまたね、と帰ってしまったタナカくんと、きっと似たような気持ちで。
タチバナちゃんは、あはは、と、動かない表情の下で、向日葵を連想させるような声色で笑う。
「私の部屋、モノがいっぱいあふれてるの。母さんも、父さんも、私のこと大好きだったから。でもね、こういう時、ちょっと大変。たった三軒隣の空き家のために、大げさに動かさなくっちゃいけないの」
本当に、すっごい量なんだよ。死に神さんも、よかったら見に行ってみてね。……彼女は、そう言った。
「そっか、……うん」
私は多分、タチバナちゃんの引っ越しを見学しには行かないだろう。それでも、曖昧な返事をしてしまうのは、生前からの悪い癖だった。私は、死んでもまだ、私のままだった。
私とタチバナちゃんの、長い長い会話が終わった。それは、彼女との別れを意味するのだと、なんとなく理解ができた。
もう、その存在も忘れつつあった、右手にさげられた楕円形のカゴ。私がそれをタチバナちゃんに近づけると、カゴの輪郭がぼんやりと光って、風などないのにゆらゆら揺れた。
「生まれ変わったら、どうしようかなあ」
「タチバナちゃんは、生まれ変わりを信じるの?」
「うん。うーん、まあ、特にこれってないから――」
タチバナちゃんの死体から、カゴを包む光に似た、丸くてほの白い物体が現れる。
「もう一回、人間でいいかな」
ふわふわと浮いた物体は、そう言い残して、カゴの中に入っていった。
カゴの光が、すうっと消えていく。途端に拡がる、静寂の中……公園に残されたのは、私。そして、もう二度と喋らない、タチバナちゃんの死体。
カゴの中は、相変わらず空っぽだった。
「バイバイ」
あなたが何度でも、この世界に生まれてこれますように。
私は、タチバナちゃんの死体に、そんな祈りを込めた。
夕暮れ空が、血の色のように鮮やかだ。
木々の陰で、もやもやと動く丸さに気づく。私がそこに近づくと、やあやあやあ、と聞き覚えのある声がした。
「ネッ、簡単だったでしょ! 楽しかったでしょ!」
相変わらず、これは無駄に明るくて、煩い。このやかましさは、嫌いだと思った。
「慰安旅行みたいなもんだからさ!」
「……まあ、そうかも」
この黒いもやもやは、嫌いだけれど。それが言うことには、あながち間違いはないように思う。慰安旅行……私はひとりだから、私を労ってくれるひとも、私が労うべき誰かもいないけれど。
「ボクがいるじゃん!?」
……やっぱり、これには私の心の声なんて、だだ漏れらしい。
あなたは煩いから嫌い。改めてそう心に呟く私に、「ひどいなあ!」と、もやもやが笑った。
私が生まれて、育った世界。
六月十七日に、私は自殺している。
遺されたひとたちは、行方不明の私を、きっと血眼になって捜してくれるだろう。お母さん、お父さん……嫌な人間の代表作みたいなひとたちだったけれど、私は最後まで、彼らを嫌いにはなれなかった。
遺される彼らのために、遺書をしたためた。
なるべく迷惑がかからないように、遠くへ、遠くへ行った。
でも、「どうして」という、悲しみは消えない。その悲しみは、彼らの心を永遠に傷つけるのだろう。私が住んでいた世界は、死という概念を、恐れるから。嫌って、避けて、それはとても悪いことなんですから、と、苦しくても生きてさえいればと、死に絶望的な拒絶反応を起こしているから。
……何十枚にも及んだ遺書には、どんなことを書いたっけ。私は、私が生きた二十六年間を、さんざんな悲劇だったと、創らなければならなかった。なるべく両親が理解してくれるように、些細なことまで大事にしなければならなかった。
もちろん、苦しいことは山ほどあった。長年付き添ったインコが死んだ時、私は、何よりも愛していた存在を喪う悲しみを知って、心から後を追いたいと願った。
けれど――自殺を選んだ理由なんて、本当のところは、ちっとも大層な話ではなかったのだ。
人生が悲劇だったからじゃない。インコの後を追うためじゃない。
ただ、死にたかった。
私自身のためだっただけ。
「ようするに、プレゼントでしょ!」
夜空の下を歩く私の心に、黒いもじゃもじゃが絡んでくる。
煩いなあと、カゴでぶっ叩く傍ら、私はその言葉自体には肯定せざるを得なかった。
六月十七日。それは、私の命日。
そして、同時に、誕生日でもあった。
つまりは、そういうことなのだ。
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