035『ドラゴス:ソロモンの封印』
「どこですかドラゴス。隠れてないで出てきなさい」
答えは聞こえて来ない……。
浅見達は無事船尾側の壁に辿り着いたようだ。
ヘンリエッタはゆっくりと、そして注意深く歩き出す。
「母は怒っていません。さあ、出てきなさい」
床に転がる無数の遺体。それが無ければ、隠れん坊をする子供を探す母のような光景だ。
咬まれ、斬られ、引き千切られて打ち捨てられた死体が、揺らめく蝋燭の明かりに浮かび上がる。
むせ返る死臭の中、その積み重なった死体の山を避けながら、ヘンリエッタは我が子を探す――。
気配はあるが姿は見えない。今、確実にこちらが狙われている……。
今の彼は、もう生前の彼ではない。それは判っている――あの臆病で、優しい――震える子犬をビクビクと怯えながら抱き締めた彼では無い――。既に身も心も悪魔に侵された、血に飢えた小さな狩人なのだから……。
「ヘティー! 後ろだ!」不意に浅見の叫び声が響いた。
ヘンリエッタは振り返る。
生気無く、気配無く、ただ佇む六歳ほどの金髪の少年。身体に何も身に着けておらず、細くて小さな手足。長いプラチナブロンドの髪を胸まで垂らし、まるで少女の様に愛くるしい――。
生前の姿そのままの……。「ドラゴス……」
次の瞬間、ヘンリエッタは船首側の壁へ轟音と共に激しく叩きつけられた。掲げられていた蛇の意匠の旗と共に床へとずり落ちる。
そこへ、血の様に赤い瞳を見開らいて、牙をむき出しにして飛び掛かって来る小さな吸血鬼。
にわかに船尾側が騒がしくなる。恐らく魅了の効果が解けてパニックが起こったのだろう。人々が一斉に扉へと殺到する。
その光景を横目に見ながらヘンリエッタは床を蹴る。同時にドラゴスへ向けて掴んだ旗を頭へと投げつける。
視界を奪われたドラゴスはそのまま壁に大きな音を上げて激突した。
ヘンリエッタにもわかっている。一度、吸血鬼の血に魂まで飲まれた者は二度と元には戻らない。その魂の在り様自体が吸血鬼の物へと変貌するのだ。
そして、吸血鬼との混血であるダンピールは常にその危険にさらされている――。故にそれを狩るのもダンピールの掟なのである。
頭にかぶった旗を引き裂いて、牙をむいたドラゴスが姿を現す。
消滅を再生へ、死を生へと逆転させた化け物。その魂も喜びを苦痛へ、満たされた愛情を渇望する食欲へと変貌させる。それが吸血鬼と言うものなのである。
牙をむきだしたまま飛び掛かってくるドラゴス。ヘンリエッタは横へよけ腕を掴んで床へと叩き付ける!
轟音と共に揺れる船体。
小さな体が数メートルをバウンドし転がって行く。
今はまだオドが溢れている。もう少し消耗させないと取り押さえる事も難しい……。
ヘンリエッタはその小さな身体を追って蹴りを放つ。ドラゴスが壁に叩き付けられ血を吐き出す。吐き出された血液が壁に大きな染みを作った。
「キャァァァァァァァ!」
ドラゴスはストリゴイのスタン効果のあるパインドボイスを放つ。そして、床から立ち上がりヘンリエッタへ向かって飛び掛かる。
単にパワーとスピードだけ見ればドラゴスの方が上だろう。しかし、六歳までしか生きれなかった彼に戦闘技術と言う物がまるで無い。よって、容易くヘンリエッタに腕を掴まれ投げ飛ばされた。血反吐を吐いて床へと叩きつけられる。
しかし、ヘンリエッタはその光景に顔を顰めた。見開かれた金の瞳に今にも涙が溢れ出しそうだ……。
ドラゴスはゆらゆらと生気無く立ち上がる。そしてまた、ヘンリエッタを見つけ飛び掛かる。
その度に床へと叩きつけられ血反吐を吐く。
何度もそれを繰り返し、飲み込んだ血を吐き出させ続ける。
上位の吸血鬼と言えども飲んだ血を吐き出せば弱体化は免れない。そして、弱体化した吸血鬼は、結果、“生き血を欲する……”。
牙をむき出し力なく立ち上がるドラゴス。エネルギーであるオドが減少し体の維持が難しくなったのか膝が揺れている。
その光景を見てヘンリエッタは両手を広げた。
「来なさい、ドラゴス。愛しの我が子よ」
ドラゴスはその胸へと飛び込んだ。そして、ヘンリエッタの首筋に牙をむき出し突き立てる。
ヘンリエッタの両腕が小さな身体を抱きしめた。強く、強く抱擁する。
「いま!」
ヘンリエッタの叫び声が響き渡った!
その瞬間! 船尾側の扉から人影が飛び出した! その瞬間まで扉の外で待機していた、浅見真が姿を現す。
その右手に六芒星のソロモンの封印を持っている。そして、呪文を唱えながら全力疾走で駆け込んでくる――。
「かごめかごめ(ソロモンの封印よ)、籠の中の鳥はいついつ出やる(無限空間を展開)、夜明けの晩に鶴と亀が滑った(時間を停止)……」
全力で走り、床に転がる遺体を飛び越え、一直線にヘンリエッタの元へと向かう!
右手を伸ばし――ドラゴスの背にソロモンの封印を押し付ける。そして……。
「……後ろの正面だあれ?(鏡像の中へと封印せよ!)」
右手の六芒星は僅かに光る。
生を死へ、歪な生命を結晶化した無機質へ、鏡像の世界へと封印する。 “ソロモンの封印” が発動する。
ドラゴスの小さな身体が消えて行く。
手先、足先が血に戻り六芒星へと吸い込まれていく。
ブルーの瞳に戻ったヘンリエッタが愛おしそうに抱き締めながら頭を撫でた。その頬に涙が伝わる。“御免なさいドラゴス……愛しい我が子よ……”
次第に小さくなっていく身体。
その時、ドラゴスが口を放し、目を見開いてヘンリエッタを見つめた……。
“ママ?”
ソロモンの封印が反転させた刹那の時間。
吸血鬼と化した魂が正常に戻った……。
そして、次の瞬間、ドラゴスの身体は小さな石へと変じた。
長いヘンリエッタの慟哭が広い室内へ響き渡る。
東京湾に浮かぶ薄暗い貨物船の一室で子供の様に泣き叫ぶ。
ラクミリ・デ・フィユ――“息子の涙” の名の宝石をその胸に抱き……。
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