026『バチカン:すき焼き』


 世界で十二億人ともいわれる信者を抱えるカトリック教徒の総本山:バチカン。その諜報機関 “サンタ・アリアンザ” は、世界で最も優れた諜報機関と呼ばれている。情報収集能力はCIAを始めとする世界中の諜報機関が認めている程である。

 彼らの強みはその信者数であるが、同時にそれが弱みとなっている場合もあるのだ。


 その一つのケースが中国――。

 第二次世界大戦後、中華人民共和国は、ローマ教皇を絶対視するカトリック教会を弾圧。国外追放を言い渡した。そして、バチカンとは独立した中国天主教愛国会を立ち上げ公認し、バチカンの影響下にある教会を地下教会と称し取り締まりの対象とした。

 このように信者数の少ない場所においてはその情報収集能力は著しく低下する。そこで必要となって来るのが組織外で合法・非合法を問わず情報を収集する人物であるイリーガル――所謂スパイなのである。


 恐らく高田渡氏は父親の代からこのスパイをやっていたのだろう。普通に考えてチャイニーズマフィアの内情を個人で調べることは出来やしない。元から情報収集能力に長けた大きな組織に属していたと考えるのが自然である。それに、ヒントは色々あった。とても素人とは思えぬ行動の数々。仕入れる宝石の価格の安さは活動資金の為のマネーロンダリングと考えられる。ヘンリエッタがバチカンとの繋がりを匂わせたのもヒントになった。


 そして、婚外子である山田美来――恐らく高田渡は彼女にこの仕事を継がせたくなかったのだ。カトリックでは婚外子は親子としては認められない。恐らくそれを利用したのだ。だから、彼女には取引の詳しい内容が伝えられていなかったのだ。

 ――どおりで、色々手の込んだことを仕掛けてきたわけだ……。


 浅見は車をレインボーブリッジへと向けて走らせた。



「成程、そう言う事だったのですね……」

 レポートを読み終えたヘンリエッタはそう呟きながら天を仰いだ。


 浅見はヘンリエッタに質問する。

「なあ、ヘティー。君もサンタ・アリアンザの一員なのか」

「いえ、ヴェルガ家はバチカンとは古くからの貸も借りもある共存関係です」

「それで、そのレポートには何と」

「主には黒蛇の元首領・黒牙についてです」

「内容は」

「それはお答えできません」

「何故?」

「貴方は世界の秘密に触れるおつもりですか」

「ぐっ」――マジか!

「嘘です。これにはバチカンの隠したかった醜聞が書かれています。読めばきっと後悔する事になりますよ」

「成程……」――確かにそれは聞かない方がよさそうだ。世の中には知らなければ知らない方が良いと言う情報もあるのだ。「……だが、何故、高田氏はそれを君に渡したんだ」

「それは私が最初に依頼した内容だからです。彼等が龍の血と呼んでいるラクミリ・デ・フィユらしき宝石を発見した際に、その背後関係を調べて貰ったのです。そして、高田氏はこれを私に手渡し、貸しを作ってそのまま引退するつもりだったと思います」


 ――引退? サンタ・アリアンザを辞めるためにヘンリエッタにこの報告書を渡したと言う事か……。そう言えば銀座の店の商品もまるで夜逃げでもするみたいに少なかったな……。内容は気になるがこの先バチカンと対立したくはないのでやはり知らない方が良いだろう。それにバチカンの醜聞とまで言うのなら、恐らく今バチカンが動いているのはこの報告書に関連している。知ってしまうと後で厄介な事になるかもしれない……。やはりここは聞かな方が身のためと言う事だろう。


 車は夕闇が迫り明かりを灯したレインボーブリッジを走る。そこから見下ろす街の明かりが宝石のように輝いている。

 まるで、これからは闇の支配する時間だと告げている様である。


 浅見はレインボーブリッジから首都高へ入り文京区を目指した。



 東京都文京区。“東京カテドラル聖マリア大聖堂” は、カトリック東京大司教区の司教座聖堂である。日本のカトリック教会の総本山となっている。以前にバチカンに協力した事のある浅見はここがサンタ・アリアンザの拠点になっていることを知っていた。


 ヘンリエッタ一人だけが報告書を持って教会へと入り、浅見は駐車場の車の中で待つことにした。


 暫く待っていると、大きな音を立てドアの閉まる音が聞こえてきた――何やら荒々しい様子のヘンリエッタが、建物から出てくるのが見える。

「行きましょう。浅見さん!」車に乗り込んできた彼女は本当に怒り心頭と言う感じだ。


 何があったとは聞かない。先程の報告書の事で揉めたのはまず間違いない。

 そして、乱暴にヘンリエッタは車に置いてあったタオルで両手を拭き始めた。――本当に何があった?



 浅見は車を日本橋方面へと向けた。黒蛇の連中との待ち合わせは深夜零時。残りは後四時間ある。

「どこへ向かってるんです」ヘンリエッタが聞いて来る。

「最後の晩餐だな」

「ふふふ、面白い人」ヘンリエッタは可笑しそうに微笑んだ。

「……」

 ――いや、逆にその自信がどこから来るのかわからない。これから向かうのは死地と呼んで良いはずなのに……。


 なので浅見は車で待っている間に予約の電話を入れた。もしかすると帰ってこれないかもしれない――そんな時でも心残りの無い様に……。

 浅見は今し方予約を入れた、老舗のすき焼き店を目指した。



「先程、予約を入れた浅見です」

 車を近くのコインパーキングに入れ、浅見はカウンターへ立つ店員へと声を掛けた。


「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

 おばさんの店員の指示に従い、二人は奥の個室へと向かう。


 エアコンの良く効いた部屋のコンロの上には、すでに鉄板が用意されていた。そこへ店員が火を入れる。運ばれてきた皿から牛油を摘まみ素早く広げる。極上の霜降り肉を入れ白ネギを入れる。

 とける脂の匂い、ネギの辛み、うまそうな匂いが辺りに漂ってきて食欲をそそる。

 ネギに焦げ目がついた。そこへおもむろに割り下を投入。

 豆腐と野菜も並べて煮込んでいく。


「それでは、ごゆっくり……」完成を目前にして店員は個室から下がって行った。


 目の前には、ぐつぐつと音を立てる極上和牛のすき焼き……。実に美味しそうだ。

 箸を使い小鉢の中の卵を溶く。野菜も煮えてきたところで浅見は合掌。「頂きます」

 向かいに座るヘンリエッタは両手を組み祈りを捧げる。「……、Panem nostrum quotidianum ……」

 ――おや、ルーマニア語かと思ったらラテン語のお祈りの様だ。


 二人はご飯を左手に持ち、ぐつぐつと煮えたぎるすき焼きへと手を伸ばした。

 そして、舌の上でとろけるような味わいの霜降り和牛を奪い合う。

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