第2章 宝石探索

010『慟哭:高田宝飾店』


「あーーーー!」

 早朝のシャワールームの中で小さく浅見の慟哭が響く。



 昨晩……。

 ヘンリエッタとの会食の後、二人はバーラウンジへと席を移した。そこで浅見はウイスキーの水割りヘンリエッタはカクテルを頼んだ。


 ヘンリエッタはヨーロッパ貴族の社交界に通じているだけあって、話題も豊富だ。一方、浅見も元公安調査庁の人間だけあって、様々な知識に通じており、さらに苦手ながらも仕事でネゴシエイトも行っていたので、普通の人よりは会話には長けている。

 浅見は得意のお酒の話からワインの話へと持って行き知識を披露する。一方のヘンリエッタはソムリエの資格も有しておりワインに対する造詣は深く話題は尽きない。互いにお酒を注文し直し会話を続ける。

 そして、ヘンリエッタはヨーロッパの情勢を語り始めた。しかし、浅見のヨーロッパの知識は元の仕事柄少し犯罪寄りに傾いている。なのでそれらの逸話を簡単にストーリーに仕立てブラックジョークとして笑いを誘う――。


 ――イタリアのマフィアのボスは必ずと言って良いほどお抱えのレストランを持っている。そこで刑事は考えた、そのお店で待ち伏せれば必ずボスを捕まえることが出来ると……。しかし、そのお店の料理は予想以上に美味しかった。思わず刑事たちは夢中になってその料理を食べ始めた……。

 刑事がウエイトレスに質問する。「ボスはまだ現れないのか」

 ウエイトレス。「いえ、皆さんが料理を食べている時に来て、お替りされる頃に帰りました」

 それを聞いた刑事たち。「しまった、まだドルチェも食べていないのに!」――


 互いに杯を重ね、談笑は日を跨ぐまで続けられた――。


 気が付くとヘンリエッタは浅見の事を真と呼び、浅見はヘンリエッタの事をヘティーと呼ぶ仲になっていた。

 落ち着いた雰囲気のバーラウンジでの静かなひと時。この時、確かに二人のプライベート空間が重なり合った気がした……。


 そして、いよいよ就寝。

 十五階インペリアルフロアのデラックスツイン。

 サービスの行き届いたゆったりと余裕のある室内。窓からはきらびやかな東京の夜景も見渡せる。

 ヘンリエッタが微笑みながらガウンを持ってシャワー室へと消えて行く。

 浅見はそれをベッドの上で見送った。


 そして……寝た。

 それは、もうぐっすりと……。

 浅見は忘れていたのだ。今朝、マヒトの世話役の赤星伊吹に無理やりたたき起こされ、自分が寝不足だったことを……。



「あーーーー!」

 早朝のシャワールームの中で声を殺した浅見の慟哭が響く。シャワーを浴びているので泪は流れない。

 ハードボイルドをはき違えている浅見には、どうせ人妻を口説く事など出来はしないとしても……。

 浅見がシャワールームを出るとすでに濃いワインレッドのスーツに着替えたヘンリエッタが立っていた。


「浅見さん、朝食の時間です。行きましょう」

「はい……」浅見の口から力ない返事が漏れたのだった。



 二階のラウンジでバイキングの朝食を取り、ヘンリエッタは荷物をまとめた。このホテルの宿泊予約は今日までらしい。

 そして、今晩はマヒトのところに泊めてもらう約束をしているのだそうだ。いつの間に話し合ったのか、世界中を旅しているだけあって流石にぬかりない。


 ゲストアテンダントを部屋に呼びスーツケース二つをハンガリーの自宅へと搬送を頼み、一つを持って部屋を後にした。

 一階のフロントでチェックアウトを済ませ、車をロータリーへと回してもらう。荷物を積み込み二人は一路横浜へと向けて出発した。しかし、その車内には重苦しい空気が流れるのだった。


 それにしても……。

 昨晩の会話からするとヘンリエッタはその見た目とは異なり、実年齢は随分上と思われる。ヨーロッパ貴族の社交界に通じ、ワインの造詣も深い。大人のジョークもちゃんと理解できてビジネストークも出来る。

 苦手とは言え、仕事でそれなりの会話術を身に着けた浅見が、終始イニシアチブをとられ圧倒されっぱなしだったのだ。

 とは言え、女性に年齢を尋ねるなど無粋なまね浅見にはできない……。



 車はレインボーブリッジを渡り、首都高湾岸線を通り、横浜へ。

 海岸沿いから、港の見える丘公園の方へ曲がり、そのまま元町公園を目指す。


 元々の高田氏の父のお店、高田宝飾店はこの横浜にあり、終戦後しばらく経って開店したそうである。日本や中国の宝飾品を中心に扱う、外国人向けのお店だったそうだ。


 商店や飲食店が疎らに建つバス通り。そこに元宝石店らしいショウウインドウのある水色の外壁の家が建っていた。

 ――この周辺に他にはそれらしい建物も無いのでここで間違いないだろう……。


 浅見は車でその前を通り過ぎながら観察する。店舗の看板は見当たらない。ショウウインドウの内側は厚いカーテンで閉じられて中は見えない。郵便受けもガムテープで塞がれ中に人の気配はない。ヘンリエッタの話では、今の銀座の店舗に移ったのは約二十年前だそうである。本来であればもっと外観が痛んでいてもおかしくはない。と言う事は、定期的に人の手が入っていると言う事だろう。

 念のため車をUターンさせ建物の裏側も確認した。やはり人気は無い。

 一旦、国道まで引き返し、車をコインパーキングに放り込む。

 タブレットPCのGPSで住所を探り、その住所を情報屋へ送って所有者を調べてもらう。

 その間に浅見は不平を言うヘンリエッタを車に残し、黒のショルダーバッグとタブレットPCを手にして建物へと向かった。

 ――いくら国際都市横浜と言っても、流石に人通りの少ない裏道でサラサラ髪のプラチナブロンドは目立ちすぎる……。


 浅見は地味なスーツに黒縁メガネでタブレットPCのレンズを掲げて堂々と建物の写真を撮る。誰かに不審がられたら不動産鑑定士を名乗って切り抜けるつもりのようだ。

 水色の外壁の建物に近づき気配を探る。浅見が気にしているのは犯人たちの待ち伏せだ。――おや、人気は無いのに電力量計が僅かに回っている? セキュリティー装置でもあるのだろうか?


 浅見はおもむろに鍵を一つ取り出し、入口の扉に差し込んだ。

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