呉栄 三
陽が沈みかけた頃、ようやく黄蓋は富春の城郭にたどり着いた。
自分の家に近づくと、中から灯りが漏れていた。
黄蓋に親はいない。父は呉県の小役人だったが、黄蓋が幼いころに亡くなり、母は新しい男を作って出ていった。
一人で耕作をして暮らしていたが、孫鐘の噂を聞きつけ、呉県から通うようになった。そこで出会った孫堅とは、お互い腕自慢同士で気が合った。この男といれば何かでかいことができる。黄蓋はそう思い、父と接点があった富春の役人に頼んでみると 、誰も住まなくなった民家をあっさりと用意してくれた。
「どうだった?」
祖茂だった。勝手に家に上がり込むことは毎度のことで、黄蓋もその事について何も思わなかった。
「思ったよりも使えそうな連中だった」
「そりゃいい。で?」
「族長の息子を孫堅がたらしこんだ」
「なるほどな。孫堅にかかりゃ倭人だって簡単に仲間にしちまうか。最初は何を突拍子もないことを考えつくんだと思ったもんだが」
「女は物に出来ないのにな」
「お前が冗談言うのは珍しいな黄蓋。俺はあったことないんだがそんなに上玉なのか?」
黄蓋と祖茂は孫堅より二つ上で同じ歳だった。祖茂はよく城郭の妓楼に行って女を買う。こういう下卑た話題が好きなのだ。黄蓋も祖茂ほどではないが、月に一度くらいはそこで女を抱く。孫堅は行ったことがないようだ。潔癖というよりも、そもそもそういうことに興味がないようだ。
呉栄に惚れたと聞いたときは、孫堅も男なのだと、少し驚いた。
「妓楼にいる女達とは違う生き物のようだった」
「そりゃ、噂にもなるな。許昌が后にと言い出すのも仕方がない」
陽明皇帝と名乗る許昌は呉栄を后にと言い出した。伯父の呉燐は表面上はそれを受け、后に相応しい女に磨きあげるため、呉栄をしばらく修行させてほしいと願った。大量の金銭と引き換えに許昌はその話を呑んだが、約束の期限はもうそこまできていた。
鷹揚と構えているように見えて、倭人を味方に引き入れ、孫堅が決起を急ぐのはそういう理由からだろう。
立身出世の野望を語ったりするが、一番は呉栄を救うためなのだ。
そういう純粋なところが、黄蓋はたまらなく好きだった。
四日後、孫堅は仲間を全員集め、船に乗り込んだ。中には呉景もいて合わせて十七名だった。四、五名で別れて乗り込み、四艘の小船で出発した。黄蓋の乗る船は、自分以外に祖茂、呉景、健の四人だった。健と呉景は同じ歳ということもあり、随分打ち解けたようだった。
銭唐にある許昌の砦の手前で船を降り、山道を進んで回りこみ、また川沿いに出た。葦が茂るところで、そこには中型船が三艘隠されていた。一艘に二十名以上は乗れそうだった。
「親父が用意してくれたものだ。場所は俺と親父にしかわからん」
葦を上手く使い船隠しにしているのだろう。銭唐から、倭人の集落とは反対にある富春まで、呉景をわざわざ伴ってきた理由がわかった。どこかで落ち合うよりも、最初から一緒にいた方が早い。
倭人の集落の近くで幕舎のようなものを張った。ここで一月過ごすのだ。中型船に裕に一月は持ちそうな兵糧も用意されていた。食糧を調達する必用がなく調練だけに集中できるのだ。
健に呼ばれた倭人達もやってきた。言葉は通じる。孫堅が中心になって三日三晩語り合った。黄蓋は耳を傾けているだけだったが、異民族に対する壁みたいなものは殆ど無くなっていた。
後は動きを揃える調練を通じて、心も通わせることができると思った。
孫堅の調練は激しかった。六刻(三時間)続けて半刻(一五分)休む。それを三度繰返しようやく飯を喰える。それでも一晩寝れば次の日には平気な顔をして調練に出てくる。
山暮らしのうえに、漁に出て、農耕もこなしてきた倭人の少年達は、体力に関しては十分だった。特に健は抜きん出ていて、調練が終わってからも黄蓋と孫堅から武術指南を受け、体術も剣も相当な腕前にまで達した。
今本気でやれば、負けはしないが以前のように簡単にあしらうことはできないだろう。
一月経った。単なる荒くれ者だった人間達が、孫堅のもとで統率のとれた立派な兵となっていた。
「いよいよだな。孫堅。」
孫堅は嬉しそうに頷いた。
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