呉栄 二
漢人にしては大きな目。しかしきりっとした細い眉があどけなさだけではない、迫力のある魅力を与えている。
「今日はお泊まり頂けるのでしょう?」
透き通るような、この年頃の少女らしい綺麗な声だ。しかし言葉ははっきりと孫堅の耳に届く。何度見ても、何度聞いても飽きない。むしろ会えば会うほど目の前にいる呉栄に惹かれていくことを孫堅は自覚している。
「ええ。明日、呉景殿も一緒に富春まできて頂こうと思いましてな」
呉景は呉栄の弟で、健と同じ歳の筈だった。呉栄は孫堅の一つ下だ。
孫堅の父親である孫鐘は、昔から呉栄の伯父である呉燐と取引があった。
瓜売りの孫鐘はこの辺りで一番の豪商である呉燐に瓜を卸し、呉燐はそれを各地の市などへ流す。孫鐘は瓜売りだが、呉燐が扱う品はそれだけに留まらない。
孫堅も幼いときから兄弟と一緒に父を手伝い、呉燐とは面識があったが、その時はまだ呉栄と呉景は故郷の呉県にいたようだ。
呉栄姉弟が銭唐にきたのは昨年のことだ。呉栄の父が病で亡くなってしまい、父の兄である呉燐を頼って銭唐までやって来たのだ。
呉栄の美貌はすぐに評判になったが、孫堅はあまり興味がなかった。黄蓋達と暴れまわる方が面白かった。女は邪魔でしかない。
「弟も喜びますわ。孫堅様のことを本当の兄のように慕っていますもの」
呉景を連れて行くのは口実だった。呉燐との話もただ決まっていること再確認しただけのことだった。書簡を送れば倭人の助力を得たことも伝えられるし、呉景に直接富春に来てもらうこともできるのだ。
寧ろ、この村は許昌の目が光っていて、あまり呉燐に接触するべきではないのだ。だがどうしても呉栄に会いたかった。
「その呉景殿というのも、俺たちの仲間なのか?」
健が口を開く。呉栄を見たときに健も一瞬ぼんやりとした表情を浮かべたが、それ以上の感情を呉栄に抱くことはなかったようだ。
見かけは大人びていても、やはりまだ餓鬼だ。しかもごく自然に会話に入ってくる。
黄蓋ではこうはいかない。健を連れてきたのは正解だった。
「昨年この辺りには人さらいがいて、この村も襲われたのです。ちょうど私達がこちらに移り住んで来た頃のことです」
呉栄の噂を耳にしたことが原因だと、孫堅は思っていた。事実盗賊達は真っ直ぐにこの邸を狙ってきていた。孫堅はその時父と一緒にこの村に滞留していて、呉燐を守るために剣を握って一人で闘った。
三人殺した。その三人の中に頭領もいて、頭領を失った瞬間盗賊達は逃げ出していった。それ以来この村は襲われていない。時々許昌の手下がやってきて食糧を調達していくくらいだ。あの時の盗賊と違い、許昌は歯向かわなければ手荒な真似はしない。人を殺したのはあの時がはじめてだった。
呉栄にあったのはその時だった。一目見て、孫堅は心を奪われた。
「それで、孫堅様に憧れてしまったようなのです。弟は孫堅様の真似事で剣を振ったりするようにもなりました」
健にまだ説明していたようだ。孫堅は束の間呉栄との出会いを思い返していた。
「一緒に闘わせてやってくれと言ったのは伯父からでした。孫子の末裔である孫堅様と繋がりを持っておくのは悪いことではないと考えたのでしょうね」
「孫子?」
「600年前の兵法家です。孫堅様のお父上は富春でも有名なのですよ。私塾のようなもを開いて、兵法を教えられているとか」
「父祖から伝わった書物だけは豊富なので、地元の戦好き達に片手間で、読み聞かせしているだけですよ。後は俺たち若い者達が勝手に棒を持って打ち合っているのさ」
最後の言葉は健に向かって話しかけた。黄蓋などもそうして集まった者の一人だった。
「今ではただの瓜売りとその息子ですよ」
だがそれで終わるつもりもなかった。自分も先祖のように民のために戦いたい。そのためには賊徒を討って名を上げることだ。実際、昨年の戦いのあと、楊州刺史に呼ばれ目通りした。許昌を倒せば、正式に官職を与えられ、兵を預かることになるだろう。
そして許昌を討てば呉栄を迎えられる。
「兄者」
部屋に呉景が飛び込んできた。
「帰ったか呉景」
「近所の者に聞いてかけ戻ってきた。また俺に剣の稽古をつけてくれ」
「また一人で修練していたのか」
「ああ、俺は兄者のように強くなりたい」
呉景も力をもて余している。それにこの村の子供達はみな大人しく、呉景に合う人間はいないのだ。だから、孫堅がいないときは一人で躰を鍛えている。
呉燐には実子がいて、跡を継ぎは決まっている。呉燐は呉景の気質をよく理解していて、軍に入れようとしているようだ。楊州刺史の覚えもある孫堅に近づければ、官軍への道も近い。呉燐には多少そういう打算的なところがあるのだろうが、呉景は純粋に孫堅を慕っていた。
盗賊に拐われそうになる姉を助けられなかった悔しから、強さへの渇望も感じられる。
「丁度いい。今日は面白いやつを連れてきているんだ。こいつに相手をしてもらおう」
「会稽群にある倭人の村からきた健殿です。他にもお仲間がいて、許昌討伐にお力添え頂くことになったようです」
「おお、本当に倭人を味方に引き入れたのか」
「そうだ。ちょっと棒で打ち合ってみろ。これから一緒に闘うんだ。男が通じ合うならまずこれが手っ取り早い」
呉栄が笑い出す。なぜか孫堅はひどく恥ずかしくなってしまった。
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