§3 The Pleasure Garden
§3 The Pleasure Garden 1
§3 The Pleasure Garden
それは、霧雨の様な細やかな雨が降る日の、そろそろ退社時間になろうかという頃だった。
キチンと片づけられたデスクに着いていた支社長は、おれを呼び寄せると静かな声で言った。
「この包みを、黒井様の屋敷に届けてくれないか?」
「黒井、様?」
まさか…
念を押す様に、おれはその言葉を反復した。
「沢渡君もおそらく知っているはずだ。
君の住んでいるコーポの向かいに建っている、あの洋館だよ。そこの
そう言いながら、支社長は茶色の古ぼけた包装紙にくるまれた、ノートパソコンくらいの大きさの包みを、目の前に差し出した。
「なんですか? これ」
包みを受け取りながら、訝しげにおれは訊く。
しかし支社長は、髪の毛前線の後退した頭に手をやりながら、おれの方も見ずに机の上の書類に視線を落とし、そっけなく答える。
「そんな事は知る必要はない。
君はただ、その包みを持って行ってくれればいいんだよ。
先方には連絡済みだ。
玄関のベルを鳴らせば使用人が出てくる筈だから、ただ渡すだけでいい。納品書にサインをしてもらうのを忘れずにな」
「はぁ…」
なんだか納得できない。
そんな仕事、宅配便にでも頼めば済む事だろうに。
訝しげに立ち去りかけたおれの心を読む様に、支社長は付け足した。
「宅配便なんかに頼んだら、どんな扱いされるかわからないからな。壊れやすくて大事なものなんだ。濡らしたり落としたりと、くれぐれも粗末に扱うなよ。
それから、決してなかを見ようとしたりするな」
『決してなかを見るな』
それこそパンドラの匣のフラグじゃないか。
嫌な予感がする。
他の社員たちは、包みの中身を知ってるのか?
おれは周りを見渡した。
みんな、おれと関わるのを避けるかの様に、うつむいて仕事をしている。
「グズグズするんじゃない。早く行きなさい!
今日はそのまま直帰してもいいから。向かいが君のコーポだしな」
支社長の叱咤が飛ぶ。
仕方なしに、おれは包みを抱えて会社を出た。
雨に濡らさない様に、しっかりと包みを小脇に抱えながら、おれはいつもの通勤コースを歩いて戻った。
荷物は意外と重くて固く、時々持ち変えてやらないと、腕が疲れてくる。
いったいなにが入っているのだろう?
古ぼけた包装紙なので、少しくらい破いてもわからないかもしれない。
しかし、見てしまうときっと、悪いことが起こる。
そんな予感がする。
見たい!
でも、見ちゃだめだ!
覗きたい衝動を必死に抑える。
雑念を吹き払うために脇目もふらず、早足でおれは洋館を目指した。
目の前にそびえる洋館は、霧雨に煙って灰色に霞み、いつも見る姿とはかなり
普段よりも耽美的で、退廃的で、恐ろしくもあり、見ているだけで背筋に冷たいものが走ってくる気さえする。
だが、それにも増して、興味は尽きなかった。
いつもはモヤモヤした気持ちで横目で眺めているだけの洋館だが、今日は訪れる正当な理由がある。
大手を振ってなかに入る事ができるのだ。
いったい、この門のなかには、どんな景色が広がっているのだろう?
黒薔薇の蔦がからまった正門の前でひと息深呼吸をすると、扉の横のベルを、おれはグッと押し込んだ。
…だが、返事はない。
もう一度、今度は長めに二回ベルを押す。
しばらく待っても、なにも応答はなかった。
『このまま帰りたい』
向かいはもう、おれの家だ。安心できる空間に引きこもりたい。
そんな思いが、頭をよぎる。
この屋敷に足を踏み入るのは、よくない。
一歩踏み入れれば最後、おれはもうここから立ち去る事はできなくなる。
まさに、禁断の園。
そんな予感がして、おれは一歩、後ずさりをした。
“お待ちしていました。どうぞなかへお入り下さい”
しかし、古びたドアフォンから聞こえてきた、女性のくぐもった声が、おれを仕事に引き戻した。
こうなったら覚悟を決めよう。
深呼吸をひとつして、おれは鉄格子の扉を押した。
つづく
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