夏よ、さらば
鯖田邦吉
最後の帰省
ボクは夏になるとおじいちゃんの家に行く。
何年か前までおじいちゃんは魚釣りや虫取りに連れて行ってくれたりしたのだけど、最近は年のせいかそういうことはめっきりなくなってしまった。
耳も遠くなって話しかけても聞いてくれないし、口数も少なくなった。
だいたいは布団に伏せっている。
おじいちゃんだけじゃない。飼い犬のペスもだ。
相手されないのはさびしいし、めっきり元気のなくなった1人と1匹を見るのは辛い。
だから今は正直言って、せっかくの夏休みをおじいちゃんのところで過ごすのは厭だった。
けど行きたくないと言うとお父さんとお母さんが怖い顔をするので仕方ない。
何年か前にWi-Fiを使えるようにしてもらったのが唯一の救いだ。
そういうわけで、縁側に寝転がってスイカを頬張りながらゲームをすることで、ボクは無聊を慰めていた。
操作キャラが死んで、絶望のあまり顔を上げたときだった。
目の前の生け垣から、なにかが突き出していた。
黒いヴェールを被った人の頭。
おじいちゃんちの生け垣は高い。お父さんでさえ隠れてしまうほどに。
なのにその人――女の人だった――は、頭1つ垣根から飛びだしていた。
厚底の靴でも履いているのだろうか。それとも女みたいな顔の男の人なのだろうか。
ジロジロ見るのはよくないとわかっていたけど、驚いたのと物珍しさで、ボクはまじまじと彼女を凝視してしまっていた。
視線に気づいたのか、女の人がこっちを見る。
とても冷たい、氷のような眼差し。
その瞬間、ボクはぞっとした。鳩尾に
蝉が元気に飛び回る季節だというのに、ボクの腕はぶつぶつになる。
ペスがワンワンとけたたましく(老犬なりに)吠え猛るのが、遠い場所の出来事のようだった。
「――――」
女の人が、なにか言った。とても早口だ。聞き取れない。
それはまるで異国の言葉のようだった。
断片からさえ、ボクは意味を理解できない。
気がつくと女の人はいなくなっていた。
ボクはほっとした。あの目の冷たさ、殺し屋ではないかと思ったので。
「どうした?」
今更、おじいちゃんが縁側に出てきた。遅いよ。
「なんか、変な人いた。夏なのに、黒いヴェールを被って――」
ボクが彼女の特徴を伝えると、奥でビールを飲んでいたお父さんがぎょっとした顔をした。
「おまえ、見たのか、それを? 本当に?」
「うん。知ってるの?」
「……いや、知らん」
お父さんはそっぽをむいて言った。
嘘だ。なにか隠している。
「おまえ、もう奥に入りなさい。ゲームなら家の中でもできるだろ。それから、明日は1歩も外に出ちゃいけない。わかったか」
お父さんが怖い顔をして言うので、ボクは神妙な顔を作って頷いた。
だが心の中では、逆のことを考えていた。
絶対外に出てやろう。
お父さんが真実を隠すなら、自力で暴いてやる。
なんといっても、ボクは『反抗期』というやつなのだから。
次の日、大人しく自室でゲームをする――ように見せかけて家を出た。
あの女はボクが今日も縁側にいると思って、垣根から覗こうとするのではないか。
だからボクは家の前にある土手の斜面に身を隠し、彼女を背後から見張るつもりでいた。
そしてあわよくば尾行し、そのねぐらを突き止める。そういう算段だ。
ギラギラと照りつける太陽の下、ボクは待った。
暑い。身体がどうにかなりそうだ。
まずい、熱中症とか日射病の心配をしていなかった。
あと3分――1分待って誰も来なかったら、今日はあきらめよう。
その時だった。
ふ、と周囲が暗くなった。
まだ昼前である。太陽が雲に隠れたわけでもない。
背後に気配。それもひどく、おぞましい気配だ。背中が総毛立つ。
いやでいやでたまらなかったけど、知らないままでいるのはもっと怖い。
だからボクは振り返った。
そこには、あの黒いヴェールの女が立っていた。
ヴェールだけでなく、身を包むワンピースまで真っ黒だ。真夏の日差しの中なのに。
害虫や、あるいは親の仇を見るかのような目で、じっとボクを見下ろしている。
逃げろと本能が言っていたけど、身体はピクリとも動かない。
悲鳴をあげるのが、ボクにできるすべてだった。
名前を呼ばれて振り向くと、お父さんとお母さんが血相を変えて家から飛び出してくるのが見えた。
お父さん、言いつけを破ってごめんなさい。
もう2度と悪い事しないから、助けて。
ボクは、お父さんに手を、伸ば
……インターフォンが鳴った。
老人はよたよたと玄関に向かい、ドアを開ける。
そして言った。
「宗教の勧誘なら、お断りだよ」
神も仏も信じないことにしている。息子夫婦が事故で亡くなったあの日から。
それでも彼らが好きだったビールやお菓子、スイカを仏壇に供えてやってしまうのは矛盾と言えたが、老人はそんな細かいことに頓着しない。
「わたくし、最近この先に越してきた者デス」
ややぎこちない日本語で、玄関先に立った修道女が言った。
「そうかい。引っ越し蕎麦なら要らないよ、この歳じゃ食べきれずに腐らせちまう」
「最近、なにか変わったコトは? 体調が優れない、ナドは」
老人の無愛想さに物怖じした様子も見せず、修道女は言った。
むしろ物怖じしたのは老人の方だ。
金髪碧眼のシスター。背丈は日本人よりずっと高い。
「この歳でなんの不調も無い方がおかしいよ。……まあ、今日は肩の具合が随分いいけどね」
「ヤハリ」
シスターは、さもあらんといった様子で頷いた。
「あなたの息子さん夫婦は、息子さんと奥さん、そしてお孫さん1人――でよろしいデスか?」
「……なんでそれを」
「彼らは亡者になって徘徊しておりマシタ。どうやらあなたを連れて行こうとしていたのデショウね。主の御許に送っておきマシタので、もう2度と現世にさまよい出ることはありまセン。御安心を」
「…………」
老人は、こみあげる複雑な感情をどう表現したらいいか悩みながら、なんとか、一言だけ、口にした。
「……あんた、お盆って知ってるかい?」
夏よ、さらば 鯖田邦吉 @xavaq
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