第2話 高く昇る日には

 翌朝、わたしは不思議と五時半に目が覚める。いつもの時間に起きたみたいで、スマホのアラームが鳴っていた。

 こっちと家との五時半の違いが出てくる。

 スーツケースから、お気に入りの白のTシャツにジーンズ、黒のパーカーを羽織った。そのまま、着ていたパジャマとかを洗面所の洗濯機に入れる。

 洗面所で洗顔と歯みがきをすませると、結構時間が余っている。

 考えた末、わたしは学校からもらっている課題をやることにした。授業でやる単元が指定されているので、そこをやっていく。

 最初は数学、世界史、現代文、古典。お昼を食べてからは、科学と英語表現をやっていくの。

 静かで涼しいときに勉強するのは、とても集中できる。

「ふう……、もうできた。早いな、もう一日分、やってよ」

 今日は二日分の課題をこなして、時計を見ると、午前六時十分。まだ四十分しか経ってなくて、びっくりした。

 いい匂いがする。おばあちゃんが朝ごはんの支度をしているみたいだ。

「おはよう、おばあちゃん」

「夏海ちゃん! 早いねぇ……、びっくりしたよ」

「勉強してたの。おばあちゃん、声をかけてくれたらいいのに、手伝うよ」

「お勉強の邪魔しちゃ悪いなと思ってね、声をかけなかったの。ちょっと、あの弁当箱、取ってくれる?」

 戸棚にある二段弁当を出す。

 男の子がよく使いそうなデザインと大きさだ。瑠果くんのものだと思う。

「おはよう。ばあちゃん、手伝うよ?」

「瑠果くん、おはよう。弁当箱に詰めちゃってね」

 瑠果くんは白い半袖のワイシャツに黒の制服のズボン、赤のネクタイはまだ緩めたままの格好をしている。たぶん、通っている高校の制服なんだろうな。

「瑠果くん、学校って……公立? それとも、私立?」

「県立一の進学校、県内で一番偏差値が高いし、東大と京大に学年の一割は現役合格してるくらいだし」

「マジ!? 頭、良いんだ。いいなぁ。わたしなんか、ようやく授業についていけてるもん」

 瑠果くんはすぐに弁当箱におかずとご飯を詰めてから保冷バックに入れる。そのあとに、麦茶を水筒に入れてふたを念入りに閉める。

「こうしとかないと、この前、リュックのなかが麦茶まみれになってて。ほんとに最悪だったし」

 瑠果くんは苦い表情で、麦茶の入れた水筒を机に置く。

 朝ごはんはキッチンにある机で食べた。瑠果くんはすぐに食べて、自転車で一時間かけて通学するみたいだ。

「行ってきます!」

 わたしはトーストにかじりついていると、おばあちゃんは麦茶をグラスに注いでくれた。

「あ、夏海ちゃん。誕生日、来週よね?」

「うん。どうして?」

「聞いとかないと、すぐ忘れちゃうからね!」

 わたしはご飯を食べ終えると、おばあちゃんと一緒に外に出る。

 畑の手入れを手伝うことになった。おばあちゃんは自給自足の生活をしてて、野菜のほとんどは家庭菜園で育てた野菜たちだ。

「トマトとキュウリ、ナスを取ってくれるかな? ハサミでね」

 帽子を被って、すぐに野菜のヘタの上を切る。

 まだ、小学生の通学時間帯みたいで、カラフルなランドセルが見えてくる。

「おばあちゃん。今日、平日。」

「そうね……。もうちょっとだけ、待っててね」

「うん」

 畑の石垣に腰かけて、休憩するようにした。

 海がきれいに見える。その青さはとても鮮やかで、すぐに嫌なことを忘れさせてくれるの。

「夏海ちゃん、そろそろ帰るわよ~」

「おばあちゃん、わたしが全部、持つ」

 おばあちゃんが持っていたカゴを持つ。

「ありがとう。最近、腰を痛めてるからね、助かったよ」

 近所のお祭りが週末にあると知り、おばあちゃんはわたしを連れて行くことを半ば強引に決めてくれた。

「浴衣を出してあげるよ、夏乃と鈴乃が同い年の頃に着たのがあったはずだよ」

 押し入れから出してくれたのは、紺地に朝顔の柄が描かれた浴衣と黒字に金と白、赤のよろけ縞という模様が描かれた浴衣の二つだ。

 わたしは紺の浴衣にした。夕方に着付けてもらい、鈴乃ちゃんとおばあちゃんと一緒にお祭りに行くことになった。








 その翌日、起きてすぐに外に出た。

 わたしは海に自転車で行った。

 ゆっくりと波打つ海は、世界に繋がっている。

『世界を繋ぐ人になるように』と、おばあちゃんが名付けてくれた。

 砂浜にある角が丸くなったガラス片きれいなものを拾っていく。

「凪にも……、うっ」

 涙が自然と流れてきた。なにも悲しくもないのに。 

そのとき、わたしが思い出したのは、幼なじみの凪のことだった。

 凪は高校も同じで、あまり友だちが少ない子だったけど、その一方ではできることを一生懸命にこなす。

 でも、その凪をわたしが殺したも同然なんだ。

 わたしが泣いても、笑っても、許されないと思った。

 そのまま、お昼になり、わたしはおばあちゃんと一緒にご飯を食べようとしたけど、なかなか喉を通らないし、気分が悪くなってきた。

「大丈夫? 夏海ちゃん、気分が悪いの?」

「寝たら、大丈夫だから。安心してね」

「ご飯はどうする?」

「食欲がなくて……せっかく作ってくれたのに、ごめんね」

「大丈夫。今日は朝からお手伝いをしてくれたし、疲れてるのよ。いまは休みなさい」

 わたしはすぐに部屋で休もうとした。

 でも、再び吐き気がするようになり、なかなか休めなかった。





 いつの間にか寝ていたみたいで、居間からチェロの音色が聞こえてくる。もう夕方みたいで、瑠果くんが帰ってきたらしい。

「ん? 夏海か……びっくりさせるなよ~。体調が悪いみたいだし、無理するなよ」

 わたしは居間にあるイスに腰かけていると、チェロを見る。

「お前も、音楽、できるのか?」

「ピアノとアルトサックス。サックスの方が得意」

「持ってこい、サックス」

「えぇっ!? 何で?」

「いいだろ、別に。サックス、聞いてみたいから」

 瑠果くん、なんか顔が赤いけど……大丈夫かな?

 部屋からサックスの入ったケースを持ってきて、チューニングしてから、楽譜なしで演奏することにした。

「何が吹ける? サックス」

「ジャズ、『ラプソディー・イン・ブルー』とか?」

「了解」

 サックスとかも一ヶ月くらいのブランクがあったのも忘れて、『ラプソディー・イン・ブルー』のメロディーを吹いていく。瑠果くんがその隣でチェロ弾いている。

「すごいな、お前も。サックスでこれだけ吹ければ、コンクールに入賞するよ」

「ありがとう」

 そう言いながら、サックスをケースのなかにしまって、夜ご飯にすることにした。

 おばあちゃんが明日、お墓参りに行くことを教えてくれた。

「小さな頃に病死した姉と、戦争で出征した義一よしかず兄さんと義次よしつぐ兄さんが眠ってるの。まだ兄さんは二十歳、義次兄さんは十九歳でね。わたしとは二番目の兄と十六も離れてて、とてもかわいがられたの。でも二人とも特攻隊に志願して、二度と帰っては来なかった。ただ、遺品の手帳と愛読書の本をお墓に入ってる。」

 おばあちゃんには四人姉弟の末っ子で、一番上のお姉ちゃんはおばあちゃんが生まれてなかった頃に病気で十歳で亡くなっているのは、聞いたけど……お兄ちゃんと弟のことは聞いたことがなかったから、聞けて良かったと思う。



 翌日は土曜日で、午前中にお墓参りに行くことにした。

 わたしは白のブラウスに紺のストレッチパンツ。その上から紺のカーディガンを羽織っていく。

 瑠果くんは白のシャツに紺のズボン。あんまり学校の制服と変わらないみたいだった。すぐに出発する。

「海がよく見える場所にお墓があってね、そこに両親とおじいちゃん、姉兄の三人とも眠ってるの」

「お兄ちゃんたちには、お嫁さんはいなかったの?」

「うん。あんまりそういうことには疎くてね、お見合いをする直前に赤紙が来たから、お嫁さんをもらうことするできなかったんだよ」

「二番目のお兄ちゃんも?」

「そうだね、まだ十九歳で、お嫁さんをもらうには、まだ早い年齢だったのかもね。男手がいなくなってしまって、わたしがお婿さんに……おじいちゃんが来てくれたのよ」

「そうなんだ」

「終戦したときはまだ三歳でね、年の離れた兄たちも、桐の箱になって戻ってきたのをよく覚えているよ」

 瑠果くんはそんなのには興味がなさそうに、先をズンズン進んでいく。

 結構高台に向かうけど、わたしは中腹で息切れを起こしていると。

「早くない? 息切れを起こすの」

「うるさい。あんまり学校で運動する機会が体育以外には、なかったんだよ」

 瑠果くんに突っ込まれながら、わたしは歩き始めた。最近、確かに運動不足なんだと思う。

 数分後。お墓にたどり着いた。

 わたしは草刈りをするのと墓石を拭くのが、担当した。

 海の潮風が吹いてくる。この墓地はとても良い景色が見える。

「みんな、孫の夏海ちゃんがやって来たよ。しばらくの間、こっちにいるからね」

 瑠果くんとわたしは黙って手を合わせていた。そのあとに家に帰ってからは、ほぼ同じ毎日が繰り返される。

 わたしはテレビである人物を見た。

「フィギュアスケート日本代表で、二年前のオリンピック金メダリストの高瀬侑菜選手、姉の前回オリンピック銀メダリストの陽菜選手、三大会連続出場し、オリンピック・アイスダンスで日本代表最高順位を更新。そして先月、ご結婚された高瀬陸選手、真里亜選手の四人がいらっしゃいました!」

 高瀬侑菜……中学の三つ上の先輩で、オリンピックには高校二年生・十七歳で出場して、金メダリストになったスケーター。

 今年、十九歳の大学生で、いまもアメリカで練習しているんだと、聞いたことがある。

「侑菜選手は得意なトリプルアクセルを武器に、さらに今シーズンは四回転の習得を始めたそうですが?」

「ロシアのアンナ・サハロワ選手とユーリ・サハロフ選手は、ジュニア時代から四回転を跳んでましたが……いまのロシアのジュニアスケーターとの比ではなかったです」

「確かにロシアのジュニアでは四回転ルッツを跳び、話題になりました。実際にシニアデビューしても、このジャンプができるか、椿選手、どうでしょうか?」

「ジュニアからシニアになる時期は、ジャンプを上手く跳べなくなってしまうんです。実際にわたしと桜も苦しみました」

 わたしはとても懐かしくなるけど、全然知らなかったことを知れてような気がした。




 こっちに来てから、もう五日が過ぎている。生活にも慣れてきて、全然体調も、良いんだ。

 お昼を食べてから、わたしは課題を進めていて、瑠果くんも同じように課題をしている。

「夏海、近所を案内してやる。だから、すぐに準備しろよ」

 勉強しているときに、瑠果くんが言ってくれた。実際に近所のこともあんまりわかんなかったから、瑠果くんの言葉に甘えて行くことにした。


 瑠果くんはすぐに出発するみたいで、わたしが慌てて外に出たみたいになった。

 しばらく歩いていく。

 瑠果くん、歩くの速くない?

「瑠果くん! 待ってよ」

「ここが俺の通ってた中学だよ。この前の春に統廃合されちまったけどな」

「と、統廃合? 何それ?」

 全然、わかんない。

「統廃合は近隣の学校と合体して、元々あった学校は、無くなってしまうことだよ。だから、俺の通ってた中学の後輩は隣の学区の中学と合体して、そっちに通っているんだ」

「そうなんだ……わたし、あんまり知らなくて」

「東京は子どもも多いしね、あんまり統廃合ってのが無いのも無理はないしな」



 瑠果くんがここに来る前のことを教えてくれた。

「ここに来る前って、どこに?」

「イタリア。ローマで暮らしてた」

 海外かよ!

「か、海外? 瑠果くんの父さんって、イタリア人だっけ?」

「うん。そうだよ、イタリアでは父さんの姓を使ってる。国籍も決めてない」

「イタリアの名前って?」

「Luca Puccini……『トゥーランドット』の作曲家と同じ名字」

 流暢なイタリア語で、名前を教えてくれた。

 ルカ・プッチーニ……なんか別人みたいで、不思議な気分になる。

 瑠果くんはダークブラウンの髪に琥珀色の瞳をしていて、肌も色白だった。

「俺の髪と肌の色は父さん、顔と目の色は母さん譲りで、アジアンビューティーだと、よく言われてたよ」

「確かに。瑠果くんって、日本でもかっこいいと思うから、モテるよ」

「ブッ、アハハハ! そんなこと、言ってきたの。お前が初めてだよ」

 瑠果くんは笑いのツボにハマったらしく、少しの間は収まらなくなっていたみたいだ。

「ちょっと、瑠果くん! 待ってよ、ひどいなぁ」

「ごめん。ローマでは父さんと母さん、三人で暮らしてて、現地の学校に通ってたけど、中学に上がるときに父さんが『日本の学校に通わせてみたら?』って、言っててさ。俺も、賛成してたから」

「おばあちゃんとこに来たの?」

「うん。母さんの父方のいとこの叔父さんの奥さんなんだ」

「おじいちゃんの親戚なの? 瑠果くんは。」

「かなり遠い親戚な、ほぼ血の繋がりもないくらいに」

 瑠果くんは日本に来たのは、中学一年の夏休みからだ。

「そのまま、中学時代を過ごし、高校からは帰国すると思っていた。でも、高校卒業してすぐ、帰国することを条件に残ることができたんだ」

「高校卒業してから……あと、二年ぐらいじゃん」

 瑠果くんは防波堤の縁に腰かける。

 イタリアに帰る……それは日本の学校生活に終わりを告げる合図。

「夏海はさ、全然知らなかったことって、ある?」

「え? うん。わたし、高校からは私立の名門女子校って所に通ってて、中学受験してもダメだったところにあるの」

「へぇ……頭が良いの?」

「いや……単願推薦で行ったから、頭が良いって訳でもないよ」

 わたしは少しずつ、学校での記憶がせりあがってくる。

「嫌……ハッ、ハッ」

 フラッシュバックしてしまい、息が吸えなくなっていく。

「夏海!? しっかりしろ!」

 過呼吸が起こってしまった。実際に全然起きるなんて思ってもなかったから、ほぼ油断していた。

 もう大丈夫、と思っていたし。

「夏海、深呼吸して」

「え……う、うん」

 深呼吸をしていく間、瑠果くんは背中を擦ってくれた。



「どうした? 夏海。昨日の夜も、顔色が悪そうに見えたけど」

「わたし……。あのね」

 瑠果くんに話したのは、ここにやって来る直前までだ。

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