第3話筆箱
しばらくは彼らが出てこないであろうことは想像がついたが、そのビルに案外人の出入りが多いのにびっくりした。そしてその年齢層は、二十代くらいから老人までと幅広かった。
あの問題だった老人に本当にそっくりな人もいた。「ユーモアのかけらもない」古い言い方そのままの、そしてその表情も自分が見た頃の様だった。カップルもいた。いかにも上手くいっていません、というような二人の物理的な距離は、これまたあの夫婦の半年前に違いなかった。
しかし、逆にビルから出てきた人間、それはまるで何かのオーラでも纏っているかのように、楽し気で、こちらから話しかけたくなるような人たちばかりだった。判を押すというが、そういう判が簡単にあるのかと思うほどに表情も似かよっていた。それが面白くなってずっと店にいたが、コーヒーだけで長い時間を過ごすわけにもいかず、デザートを頼んだ。両方で安い洋服が買えるような値段に、人のことに首を突っ込む自分の愚かさを呪った。
そうして待っていると彼らが出てきた。最初は全く分からなかった。何故なら服装が違っていたからだ。
「洋服の店が入っている感じはなかったけれど」と思いながらガラス越しで、もちろん声など聞こえるはずはないが、
「似合ってるかな? 」
「うん、かっこいいよ、パパ! 」
そんな会話だったのだろう。妻から言われて照れ半分、でも本人も少々感動気味の様子に少し笑ってしまった。妻の方も、元々着ていた服よりも、色合いなどが落ち着いた感じで、中に着ているシャツのちょっとだけ派手な色が、彼女を満足させているようだった。そして何よりも彼女のメーク、目元がはっきりとしているが、厚化粧ではない、まるで雑誌のモデルの様だ。そして私はこの年になっているので、すぐに彼らの服が
「新品ではない」「そう高価ではない」ことが分かった。大きな、ちょっと洒落た紙袋だけが、角がぴんと立った新品で、その中に彼らの着てきた服が入っているのに間違いないだろう。
私がすぐさま外に出ると、
「ああ! あの子が学校から帰ってくる! 今日私たちが休みを取っているから、一緒に筆箱を買いに行こうって約束したの」
「そうか、三年生なのに、ずっと一年生の時の物を使っているもんな、急ごう」
彼らは走り出した。追いかけるつもりはない、だが大きな安心と疑問を持ちながら私はそのビルを見上げた。中が判らないガラス張りの部屋の中、何があるのかと思いながら。
次の日、私はそれとなしに彼らの家の周りをウロウロした。学校がちょうど終わる時間に合わせてのことだ。
「おばちゃん! 」
「ああ! 僕、元気だった? 」
「うん! すごいや昨日から僕いいことばかりだ。新しい筆箱を買ってもらったし、おばちゃんに会えるし、僕のうちここだよ」
と子供をだましてすまないと思う反面、母親に会いたいという気持ちが強かった。
「ああ! どうも、こんにちわ! 」
昨日の夫の服装を見た時の彼女そのままだった。
「おばちゃん見て見て! 」とその子は筆箱を取り出し見せると
「いくらだったと思う? 」誇らしげなその顔と、真新しい、しっかりとしたキャラクターの筆箱を見せてくれた。
「うーん、一万円」
「ハハハハ! おばちゃん面白い! これね、百円だったんだよ!」
「え! 」
私の声とその表情に彼はもっと楽し気な顔をした。
「それ、新品でしょう? 」
「うん! ヒャッキン! 」
「嘘! 」
「本当だよね! お母さん! 」
「私たちもびっくりしたんです、でもこの子、前から見つけていたみたいで。確かにこのキャラクターは随分前のもので、この子は大好きだったんですが、あんまり人気がなかったみたいですから」
「ああ! そういえば嫁が言っていたわ。売れ残りをヒャッキンで処分することがあるって。買ってきていたわよ、名画の塗り絵とか、私にボケ防止にやったらって」
「そうですか、そんなこともあるんですね」
普通の楽しい会話ができた。男の子はこの筆箱で「宿題をしてくる」と奥に行ってしまった。私はこの家に入った時から気が付いてはいたのだが、二人きりなって彼女に尋ねた。
「このタペストリーは自分で作ったの? 」東南アジアの染め物だろう、赤と藍が二色の細かい美しい花柄だった。端を縫って棒を通してある。しかし手縫いの所が、かなり荒く見えた。
「ええ・・・そうなんです、以前お宅のお玄関に帯が飾ってあるのを見て、素敵だなと思って」
私は着物が好きで昔からよく着ていた。しかし古くなった帯を捨てるのはもったいないとそうしていたのだ。
「あの帯は、亡くなった私の母が使っていたものでね」
と言うと彼女は少し暗い顔つきになった。
「そうですか・・・私の母は、私を置いて出てってしまったので・・・」
「そうだったの、つらかったでしょうに」
「そうですね、危うく同じ思いを息子にさせる所でした」
「大変だったわね・・・」
玄関に座って二人で少し話しをした。
「ありがとうございました、聴いていただいただけで、気持ちが楽になりました」
釣りも現実ならば、これもそうだ。だが、決して楽しい話ではなかった。
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