市橋とさくら

高瀬拓実

第1話

「ねえさくらちゃん、」

不意に隣の席の市橋に声をかけられた。市橋はいつだってそうだ。授業中だろうと食事中だろうとおかまいなしに、自分のペースで物事を進めていく。

「何?」

授業中だから静かにしないといけないよ、という注意を込めて、市橋とは対照的に囁き気味にして返事をした。

でもそんなことは無意味で、市橋は全く意に介していない。

「さくらちゃん歌上手なんだって? 安達から聞いたよ。ね、今度聞かせてよ」

市橋の声は割と通る方で、授業中ならなおのこと。周りのクラスメイトの耳にも聞こえていたようで、そこかしこで小さく笑い声が生まれる。

「ばか!」

と咄嗟に口をついて出た。どうしてそんな恥ずかしいことをこんな時に!

周りの反応も気になるが、一番は教師の反応だ。恐る恐る教卓のほうを見てみるが、幸いにも現文のおじいちゃん先生はいつものことながらぽかんとしている。老眼が進みすぎているのか、ひっきりなしによれよれの教科書に顔を近づけている。

多分この人はUFOか超巨大生物かが現れない限りずっとこんな調子だろう。いや、もしかするとそんなものがやって来ても手元の教科書とにらみ合っているかもしれない。

一抹の不安が消えたところで再び市橋のほうに向き直る。市橋は悪びれることもなく、やわっこい髪を微風になびかせながらにやりとしていた。

やっぱりこの人は苦手だ。


昼休憩。普段行動を共にする八重樫、久野と学食で弁当を食べる。二人とは同じ文芸部で、入った理由が「なんとなく部には所属していたいけど、ほどよくサボれるから」というので一致し、時間もかからずに親しくなった。

両親ともに働きに出て忙しいため、弁当は自分で作る。もちろん、両親の分も。

そういう家庭環境は珍しくはないだろうが、自分で弁当を作るとなると、一定数はいるもののやはり数は少ないだろう。

そう思うにつけて、やっぱり別の誰かが作る弁当というのは楽しみの一つになるのだろうか。今日は唐揚げが入っているだろうか、嫌いなパプリカは入っていないだろうか……。

さすがに高校生にもなって毎日弁当レベルで心躍らすこともないか……。

なんてことをぼうっと考えながら食べていると、八重樫が出し抜けに言い出した。

「あのさ、五組の市橋って知ってる?」

なぜだかその名前を聞くと心臓を指先で軽く触れられたような感覚を覚えた。

「あー……なんとなく?」

と久野。

目の前の二人とはクラスが離れており、普段自分のクラスと関わるようなこともないはず。ましてや、まだ自分たちは高校に進学して三か月しか経っていないのだ。

という考えが顔に出ていたのか、自分の顔を見るなり八重樫が続けた。

「いやさ、あの人変人なんだよ。朝学校来るなり『八重樫だよね、聞いたんだけど中学んときテニスの県大会ベスト8だったらしいじゃん。今度試合しようよ』なんて言い出すんだ。俺、初対面だったのにさ」

そこまで言って八重樫はいまだ湯気の立ち昇る味噌汁に手を付けた。すぐさま眼鏡が水滴で曇った。

八重樫は曇ったレンズを胸ポケットに忍ばせていた眼鏡拭きで丁寧に拭った。

奥歯にものが詰まったような表情の八重樫に、久野が続く。

「僕も一か月くらい前に声かけられた。僕の場合は江藤さんがどんな人か教えてほしいってことだったけど」

江藤という名前に聞き覚えはなかったから、おそらく久野のクラスメイトなのだろう。

「なんで僕に聞くのかなって思った」

二人は市橋にまつわる体験談を話し終えると、揃って難しい顔をした。

「さくは何か知らない? 市橋さんのこと」

二人は自分のことを「さく」と呼び捨てにする。他はほとんどが「さくらちゃん」だ。個人的には下の名前で呼んでほしいのだが、顔と名前に違和感があるなどという大層失礼な理由で取り下げられている。……まあ、そのことについて自分でも異論がないのが悲しいところである。


市橋……。全くもって不思議な人物だ。あんな人、初めてだ。最初に話しかけられたことはよく覚えている。入学式当日のこと。高校生初日という、大抵の人が様子を窺うようにして過ごす日から、市橋は積極的だった。むしろそれは一部からすると迷惑ですらあったかもしれない。

でも市橋はそんなことおかまいなしに、まるで嵐のように自分の存在を知らしめ、そして他人の情報をかっさらっていこうとした。

クラスメイトである自分も、その例外ではなかった。

初めてのやり取りは、勢いはあったもののいたって普通だった。市橋が自己紹介をしてそれに続いて自分も自己紹介をする。

例によって名前と顔が一致してないね、と初対面で遠慮なく笑われ、自分は初対面でそれを言うのか、と強張る表情を隠せなかった。最後に「一年間仲良くしてね」とこれまた普通の締めくくり。間に無遠慮なところがあったにせよ、特に珍しいやり取りというものはなかった。

そうして市橋はもう満足したのか、また次の標的へと移っていった。

そんなふうにして市橋は、おそらく一学年合計360人いる生徒のほとんどと話したのではないだろうか。

嵐のような人だなと思った。そしてそれよりも強く、苦手なタイプだと直感した。


しかし当の市橋はそんなふうには思っていないようで、たびたび話しかけられた。今になってそのやり取りを思い出してみても、なんら変わったことはなかった。家での過ごし方、好きな科目、趣味、好きな子などなど。

ただ、市橋は場所と時間を選ばなかった。自分の好きなタイミングで相手と関わりたがった。今日みたいな感じで。思い返してみれば、市橋が受け身になっているところを見たことがないし、もし仮に相手の方から市橋に関わって来ても、市橋がその気じゃなければ会話が弾むことはなかった。

良く言えば気まま。悪く言えば自己中心的。それが市橋という人物だ。


「そうだなあ……。よくわかんない。ただ、苦手な人」

八重樫の質問にはそう答えた。

いくつかのやり取りは交わしたものの、それはほとんど一方的で相手に関する情報は得られていないのだ。

考えてみれば、市橋は自分のことを話さない。いつも自分ではない誰かのことを聞きたがる。

どうしてだろう。


食事が終わり五時間目の予鈴も間近になると、誰ともなく席を立って教室に戻ることにした。

教室ではすでにお昼寝をしている男子もいれば、アイドル話に興じている女子もいる。

ふと隣の席の市橋が気になったのだが、まだ戻ってきていなかった。そういえば市橋はいつもどこで昼ご飯を食べているのだろう。なんなら、誰と食べているのだろう。

市橋は授業が終わるなりすぐに教室を出る。自分が教室を出るころには、市橋はもう廊下にすらいない。本当に嵐だ。


今度市橋と話す機会があれば聞いてみるのもいいかもしれない。まあ、こっちからは絶対に話しかけないけど。


しかし、そんなときに限って市橋は話しかけてこない。午前中に歌のことを聞いただけで満足したのか、市橋は自分に目もくれない。

授業そっちのけで呆けた顔で窓の外を眺めている。

なんとなく初めて意識して市橋の横顔を見た気がする。

これも神様の気まぐれか、市橋の横顔は一枚絵として切り取って飾っても問題ないレベルだった。特に鼻から顎にかけてのラインが美しい。滑らかな曲線を描いていて、唇は薄く、そして鼻頭と顎の先端がきれいに直線状に並んでいる。Eラインとやらだ。もう少し大人しくしていれば人気も出るだろうに。

なんて思っているとまずい。市橋が振り向いた。

ぎょっとして視線を外そうとしたが、あいにく同じ姿勢を維持していたため、体が言うことを聞かなかった。

視線がぶつかる。

市橋はまだぼけっとしていて、お互い見つめ合っている状況なのに全く動じない。

自分だけが市橋を意識しているみたいで恥ずかしくなったが、それは次第に苛立ちへと変わっていった。

本当に自分を見ても何も思わないのか!

いや、自分の顔の作りが優秀だなんて思わない。それでも、異性と目が合ったら少しは意識するものじゃないのか。

むむむ……と思いながら、こうなったら市橋が目をそらすまで見つめ続けてやる。

と、自分の戦闘意識が伝わったのかわずかに市橋の表情が変わった。

目を見開いたのだ。

でもそれは一瞬のこと。また真顔に戻って自分を見つめ続ける。

無言の応酬が続いた。

しかし、それもやがては終わりを迎える。

「あっ」

と言った声は市橋のものだった。ただ、市橋の割にはすごく弱々しかった。多分、自分以外聞きとれていなかっただろう。

そして慌てるようにシャーペンを掴んで必死に黒板を写し始めた。

勝った。でもそれ以上に意味が分からない、と思っているところに答えがやって来た。

「さくら、市橋を見すぎ。前見ろ前」

数学の島村がいつの間にか自分の前にいて、自身の持っていた教科書で机を小突いた。

「ひぅっ、すみません……」

自分ののどからそんな情けない声が出るなんて思ってなかった。

これは笑われても仕方がない。

五時間目の一時、クラス中が笑いに包まれた。

市橋は声を上げることなく、くすくすしていた。

負けた。


明くる日。

どうやら自分の中であの敗北の味が気に入らなかったようだ。家に帰っても何かにつけて市橋のくすくす笑いを思い出しては、頭に血が上った。

どうにかして市橋に一泡吹かせてやりたい。

授業中はそのことだけを考えて過ごした。

どうすれば市橋に恥をかかせられるのか。

昨日の見つめ合いは、無論だめだ。

ではどうするか。

なるべく授業中がいい。それで自分がやったとばれないように市橋だけを浮き彫りにする方法……。

模索は午後までかかった。その間まで、市橋に話しかけられることはなかった。



閃きがやって来たのは、昼休みだった。

いつものように学食で八重樫、久野とご飯を食べていると、何の気なしに視線を向けた先に数人の男子グループがいた。何やら騒いでいるようで、よく見ると彼らの手を飛ぶように行き来するのは気持ちの悪い芋虫の人形だった。デフォルメされているとはいえ、やたらめったらぐにゃぐにゃとしていて、思わず顔をしかめてしまう。

「……そうだ、これだ!」

なんていう漫画みたいな台詞が口をついて出た。

「何?」「どした?」という顔の八重樫と久野のことはまったく頭に入らなかった。すでに勝利の味に酔いしれていたのだ。


決行の日はその次の日にした。何せ普段そんなものを持ち歩くわけはないし、即席で似たようなものを作ることも難しい。

そのため昨日は家に帰って大抵の人が気持ち悪いと思うおもちゃを探した。

でも小さい頃の自分がそんなもので遊んでいた記憶はほとんどなく、苦労を強いられた。

それでも一つだけ、思わずぎょっとするようなおもちゃを見つけることができた。


一時間目の授業から気づかれないように市橋の様子を窺った。しかし、二時間目の途中で気づいた。

隙がありすぎる。

市橋は大体窓の外を眺めるか、机に突っ伏して寝ているか、そのどちらかだった。

気まぐれにシャーペンを持っては黒板の文字を面倒くさそうに書き写してはいるものの、そのやる気のなさといったら。

でも、そんなことは今どうでもいいのだ。

市橋には隙がありすぎる。それだけで自分の勝利が確信へと変わった。さあ、あとはタイミングだけだ。


それから何事もなく午前の授業を終え、昼休みになった。決行は五時間目にしようと考えていたから、その間そわそわしてしまった。

八重樫と久野に怪しまれたけど、ごまかしておいた。


そしてついに五時間目になった。

なぜこの時間を選んだのかというと、教室全体の空気が緩くなるからだ。

弛緩した空気間の中だからこそ、そして何よりあの市橋であるからこそ、その結末は最高のものになるはず。

浮き立つ心をどうにか抑えつつ、いつものように授業を受ける。

五時間目は現文。おじいちゃん先生だ。よし。

平坦な話し方は生徒を眠りへといざなう。時間が経つにつれて沈没していく生徒が増えていく。

市橋を確認する。

市橋もその一人だった。机に突っ伏してゆっくりと背中を上下させている。当分起きる気配はなさそうだ。

今こそ反撃の時!!

周りの様子を確認し、安全が確保できたところで筆箱の中から人形を取り出す。

それは精巧に作られたヤモリだった。昆虫ではないものの、それが突然机にいたら驚くだろう。

さりげない動作で……少し投げるようにして……よし。

ヤモリおもちゃはちょうど市橋の頭頂部付近の机に降り立った。

顔を上げれば、間近で見ることになるだろう。

あとは市橋が起きるのを待つだけだ。


それから十分が経った。市橋は起きない。

二十分が経った。まだ起きない。

三十五分が過ぎる頃になって焦ってきた。

このまま五十分間寝続けられては自分の敗北だ。休憩と同時に目覚めて驚かれても全然面白くない。

少しアクションを起こしてみるか。

試しに筆箱をがちゃがちゃ鳴らしてみた。

……無反応。

上履きを音を出すように片方脱いでみた。

……少し背中がぴくりとした。

わざとらしく咳ばらいをひとつ。

……一度大きく背中が動いた。そして……。

むくり、と市橋が起き上がった。

目をこする。

「うひゃあああっ!!」

次の瞬間、市橋は自分が予想していたよりも喚いた。その声に思わず飛び上がりそうになった。

市橋は驚きのあまりヤモリおもちゃを反射的に払いのけた。市橋の腕の振り方からして相当な勢いがあったはずだけど、ゴム製のおもちゃは机の上を引きずるようにして移動したのち、自分の足元に隠れるようにして落ちた。

クラスメイトたちが反応し出したのはその後だった。一様に何事かと市橋の方に振り返るが、原因であるヤモリおもちゃはもうすでに自分の足元に隠れている。そのため、みんなはなぜ市橋が突然叫び出したのか、考えあぐねているようだ。

「何があった?」「どうしたの?」という声がそこかしこで聞こえてくる。

当の市橋もいまいち状況を読み込めていないようで、今いたはずのものがどこに消えたかを必死に探している。

でも結局見つかることはなくて、見間違いだと結論付けたらしい。


「あー……すみません……。怖い夢見ちゃって……」


市橋のその発言をもって、事態は収束していった。

クラスの大半は和やかな雰囲気で隣近所と笑いあっていて、少数派急に眠りから起こされたことでいまだに何が起きたのかぼうっとしていた。

おじいちゃん先生はというと、何事もなかったかのように教科書とにらみ合っていた。


市橋に、一泡吹かせてやったぞ。

これで勝ったはず。そのはずなのに。


どうして心は晴れないんだろう。


そんな心のわだかまりは時間が経つにつれて肥大していった。

市橋の顔を盗み見るたびに明確になっていった。


放課後になって、各々が部活や帰路についていく。

市橋は五時間目のことなど何もなかったかのように軽やかに帰り支度をすませ、颯爽と教室を出ていこうとする。

その背中に、声をかけようとする。

だけど、のどが固まってしまったみたいに声が出てこない。

そうしている間に市橋の姿は廊下の向こう側に消えて行ってしまう。

追いかけなければ。

ちゃんと話して謝らなければ。

そうやって自分に危機感や罪悪感を突きつけても、足が動かない。


これは……うん、自分の負けだ。


さすがに女の子にしていいことではなかった……。



自分のことを根暗だと思っている。自分のことを意気地なしだと思っている。それは傍から見ても正しいことだ。

でも、今の環境においてはどうだろうか。みんな私のことを「ちょっとやばいやつ」くらいには思っているのではないだろうか。それで、いい。

私は、俗にいう陰キャ属性だった。そしてとてもありがちな、高校デビューを機に陽キャ属性に進化してやろうとした。

試みは、みんなの様子からして成功したといっていい。


ボロが出そうになるから、自分のことは極力話さないようにした。特定の人と仲良くなることも避けた。みんななるべく平等に。

でも、一人だけ気になる人がいる。

佐倉翔之真。

この人を初めて見たとき、うわっと思った。

とにかく美少年なのだ。名前の印象がなければ、女の子に見えた。実際、クラスメイトが女の子みたいと言う姿を何度も見ている。

全く抵抗なくすとんと落ちるきれいな黒髪。黒目がちでくっきりとした二重瞼。小さめの鼻。常に上向きの口角。

体型も本当に男子なのかと思うくらい細くて足が長い。

一目見て負けたと思った。

いや、そもそも元陰キャ属性の自分に勝ち目などないのだけれど。

だからみんなはその見た目に沿って、名前ではなく名字で彼のことを呼ぶ。「さくらちゃん」と。私もその一人だ。

しかし彼は当たり前だがそれを快くは思っていない。「他にもっとましな呼び方あるでしょうよ。下の名前で呼ぶとかさ」という言葉を何度も聞いた。でもみんなそれを無視するから、もはや彼も諦めモードだ。

ということでさくらちゃんは名前以外、完璧に女の子なのだ。

私はそんなさくらちゃんに、なぜか無性に興味を持った。

しかし、私の決め事として一人の人と深く親しくなってはいけない。ある程度の距離が必要なのだ。それでもさくらちゃんのことは人より少し多めに知っておきたい。

だからちゃんとそうなるようにバランスを考えてさくらちゃんに話しかけた。


さくらちゃんメモその一、

さくらちゃんは毎日自分でお弁当を作る。

どうやら両親ともにお仕事が忙しいらしく、その両親の分までお弁当を作っているそうだ。すごい。素直に関心。いつか味見したい。


さくらちゃんメモその二、

部活は文芸部に所属している。

もったいないなあと思った。

五月の半ばくらいに、さくらちゃんと同じ中学出身の子にカラオケに行った時の動画を見せてもらった。動画に映っているのは、半年前のさくらちゃんだった。

暗がりで姿はよく見えなかったけど、その歌声だけはよく聞き取れた。

さくらちゃんの歌声は、お世辞抜きにとてもよかった。

普段から声の高いさくらちゃんは、歌声も高くて女の子みたいな声をしていた。澄んでいて軽やかで。気持ちのいい歌声だった。


さくらちゃんメモその三、

真面目そうに見えて案外不真面目。

座席が教室の最後尾なのをいいことに、英語の小テスト中筆箱にカンペを仕込んでいるのを見たことがある。

かわいい顔してなんて狡猾な。


でもそういうところが、さくらちゃんの魅力でもある。

私が中でも一番惹かれたのは、彼の歌だ。いつか生で聞きたい。


そんなことを頭の片隅に寝かしていると、夏休みも迫ったある日のこと、思わぬことが起きた。


「えっと……覚えてない? この前五時間目の授業中、市橋めっちゃ叫び声あげたじゃん」

個人懇談を終えたあと、昇降口に向かうとさくらちゃんと出くわした。軽く挨拶を交わして、そのまま帰ろうとしたところを呼び止められた。

叫び声? そんなのいつ……。

さくらちゃんの表情はなぜかいつになく少し硬くて、なんなら声も硬い。嘘をついているようではないみたいだ。

だから私は、うんうん唸りながら過去をたどってみる。

「そう言えば……なんか変な夢見たんだっけ……。いや、でも違うかな。起きたとき机に……ああ、そうだ! 机になんか変なのがいた!」

完全に思い出したわけではないんだけど、確かにいつかの授業で私は目覚めた瞬間に大声をあげてしまった。

机に何か気持ちの悪いものがいた気がするのだ。寝ぼけていたことと、反射的に払いのけたことでそれが何だったのかはわからず、気持ち悪いから思い出さないようにしていたらすっかり忘れてしまっていた。


「ああ、それ。それのことなんだけど……。ごめんなさい」


「どういうこと?」


とんと見当のつかない私を見て、さくらちゃんは出し抜けに鞄を開けた。

取り出したのは--

「うわっ!!」

ヤモリの……人形??

「この前市橋の机にあったのはこれなんだ」

「へえー。よくできてるね」

「いや、そうじゃなくって……」

「え?」

「だから、これ置いたの僕なんだ」

「ほう」

「んーーー違う、そうじゃなくってさ!」

「ごめん、さくらちゃん。私何が何だかさっぱりわからないよ」

「えっと……そのちょっと前なんだけど、僕、市橋のこと見すぎって数学の大野に怒られたときあったじゃん?」

「ああうん、あったね」

それは覚えてるんだね、という声が小さく聞こえたけど、どうでもよかったので続きを催促した。

「なんか市橋に負けた気がして……」

「あっはは!」

私が突然笑い出すので、さくらちゃんはちょっと怯んだようだった。

「何で笑うのさ」

「私に負けた気がして、一泡吹かせてやろうと思ってそれ机に置いたんでしょ?」

「そ、そうだよ……」

「あっはは! やっぱりさくらちゃん面白い」

「笑わないでよ」

みるみる顔を赤くするさくらちゃんは、まるで告白する女の子みたいだ。

「だから、ごめん。本当に。あんな驚くとは思ってなくって」

「ううん、気にしてないよ」

「まじ?」

「まじまじ。あ、でも」

そこで天啓がひらめいた。

「周りの視線集めちゃってちょーっと恥ずかしかったなあ」

「はい、すみません。どんな罰でもありがたく受ける所存でございます」

「んひひー。そうこなくっちゃ。そしたら--」


それから数日後。

さくらちゃんの文芸部がお休みで、かつ午前授業の日。私たちは最寄り駅の近くにあるカラオケに来ていた。

私が提示した罰というのは、さくらちゃんに歌わせるということだった。


まさかこういう形で私の夢が実現するなんて。幸運だ、私。


「一曲だけだからね」


道中から部屋に入る今に至るまで、さくらちゃんは何度も同じことを言った。

私はそれを「はいはい」とあしらった。


「残り時間は全部市橋が歌うんだよ」

部屋に入って腰を落ち着けるなり、さくらちゃんはしかめっ面でそう言った。

「わかったから、ほら、早く!」

ずい、とタブレットとマイクを押し付ける。

渋々といった感じでさくらちゃんはそれらを受け取った。

ため息とともに操作を始める。

「えーっと……これかな……」

不貞腐れた表情は次第に困惑なものへと変わっていく。操作がぎこちない。

「さくらちゃんってあんまりカラオケ来ない?」

「うん。歌聞かれるの嫌だもん」

まあ、それもそうか。さくらちゃんに歌が上手いという噂を本人に聞いたときの反応を思い出す。

「…っよし、できた」

さくらちゃんの声を合図に画面をのぞき込むと、曲の選択画面にたどり着けたみたいだ。……っていうかまだそこなのか。

「……何を歌えばいいですか」

「んーーそうだなぁ……」

しまった、曲を決めていなかった。

さくらちゃんに歌ってほしい曲……さくらちゃんに合いそうな曲……。

「あ! あれ歌ってよ!『高嶺の花ちゃん』!!」「ああ、うん、あれね」

『高嶺の花ちゃん』は今中高生に人気のロックバンドの曲で、これから夏休みが始まる時期にぴったりだ。

さくらちゃんがタッチペンで曲名を入れていく。

予測機能で文字を全て入れる必要はなく、途中で曲名がリストアップされる。

しかしさくらちゃんがそれに気づく様子はなく、曲名の入力を続けようとする。

「あーさくらちゃん。ここ、押せばいけるよ」

「ああ、ほんとだ」

液晶をタップしようとした指先が、止まる。

自分の中でまだ葛藤しているようだ。顔に緊張感が走っている。冷房の効いた室内でも汗が滴るような表情だ。

それでもやがて観念したようで、盛大なため息のあと指が液晶をたたいた。

備えつけのモニターの上部に、曲名が表示される。

「ほんとに一曲だけだからね」

念を押すさくらちゃんに、私は笑顔だけを返しておいた。

やがてイントロが流れ始める。

さくらちゃんはもう観念したのか、マイクを口元に持っていって軽く発声を行った。

その時点である程度察しがついた。

この人ほんとに上手な人だ。

発声の仕方が素人じゃないのだ。

素人の私が聞いてもそれははっきりと分かった。

すでに圧倒されている中で、いよいよさくらちゃんが歌い始める。


さくらちゃんの歌は、予想通りというか、それ以上に上手だった。

単にカラオケが上手い、というのではなく、ちゃんと歌が上手いのだ。

プロ顔負けのレベルだというのに、これで素人だというのだから、これまたびっくりだ。

結局私は、しつこくお願いをしていろんな曲を歌ってもらった。

さくらちゃんは何度も拒否したけど、最終的にはそれに付き合ってくれた。


帰り道、さくらちゃんは「一生分歌った……」とひどく疲れた様子だった。

それもそのはず、私はただの一つも歌わなかったのだから。

「さくらちゃん本当に歌上手すぎだよ。プロになった方がいいんじゃない?」

「やだよ」

「どうして」

「興味ないもん」

「もったいない」


そんなやりとりをして、私たちは別れた。


これで全てが終わったと思った矢先に事件は起きた。

その翌日、私が学校に着くなり、すでに教室にいたクラスメイト達が一斉にこちらを振り向いた。私は訳も分からず、とりあえず「おはよう」と誰にともなく声をかけた。

すると、安達が意味ありげな笑みを浮かべてこちらに向かってきた。

「ね、市橋さん。昨日さくらちゃんと二人っきりでカラオケに行ったってほんと?」

「え」

と、ちょうどその時、タイミングを計ったかのようにさくらちゃんが教室に入ってきた。

そっちには仲のいい男子が駆け寄っていく。

「なあさく、お前市橋と付き合ってんの?」

「え、付き合ってないよ」

「でも昨日、お前と市橋が二人でカラオケに行くとこ見たってやつがいるんだよ」

「ああ、うん。それは市橋に誘われたから」

「ちょっ……」

その瞬間周りから黄色い声が上がる。周囲の視線は私に注がれる。

「市橋もしかして、さくらのこと狙ってるのかー」

という冷やかしに、

「ね、狙ってない狙ってないから!」

と苦しく反論する。

これはまずいことになった。

どうにかしてみんなの誤解を解かないと。

「前に、さくらちゃんの歌がすごく上手いって聞いて、聞いてみたかったの」

なんてことを必死に伝えても、すでに周りは勝手に私たちをカップルと認め始めていた。

どうして!

それからも私は何度も付き合っていないと主張し続け、周囲の考えを改めさせようとした。でもその努力はむなしく、周りは私の主張を受け入れてくれなかった。


さくらちゃんはさくらちゃんで、反論こそするものの早々に諦めがついたらしく、すぐに反論することをやめてしまった。

それでいいの、と聞いても疲れるだけだからと特に気にしていないようだった。


こんなはずじゃなかったのに……。


こうして私の高校最初の一学期は幕を下ろした。


これはもう、大敗北だ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

市橋とさくら 高瀬拓実 @Takase_Takumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ