第二十三話 儀式

 バラフの神殿の祭壇に火が灯る。

 祭壇には、集められた季節の食物に、美しい花。

 これは、森と水の神メサは、火の神ピュールと水と氷の神バラフの娘であることに由来するらしい。

 バラフが孤独でないことを『思い出して』もらい、怒りを解いてもらおうということなのだろう。

 祭壇の前には、メンケントとハリスが祈りを捧げている。

 デニスは、軍医とともに、部屋に戻り、ジャネットは儀式を見守る。

 高い天窓から差し込む光はまだ弱く、灯された炎がゆらゆらと影を作る。

 炎が騒ぐ。

 もとより、紅蓮石の声が聞こえると言っても、明確な言葉となっていることはまずない。

 しかし、ざわめきが聞こえる。

 ジャネットは、ゆらめく灯を見つめた。

 かつてない緊張したざわめきに感じるのは、ジャネット自身の問題なのだろうか。

 ハリスがバラフに詩を捧げる。水と氷の女神を称えていく。

──ああ、これは、貞淑に生きるという宣言なのだわ。

 ジャネットは思う。

 始祖たるエーラッハは、許されぬ恋だった。だからこそ、宝玉が必要なのだ。

 二度と、始祖と同じ間違いを繰り返さないという、誓いを込めた儀式なのかもしれない。宝玉を魔力ある別の女性に作らせてダメだったというのは、この儀式はひょっとしたら、ピュールのためにではなく、バラフへのものなのか。

 でも。

 もしそうなら、なぜ、帝妃の宝玉は許されたのか。彼女がしたことは、婚約者への裏切りだ。ハリスが誰の子であったにしろ、貞淑にこだわるにしてはひどい話だ。それに現在、ザネスには、隠し子がいるという。貞淑には程遠い。

 もっとも、人は変わるものだ。帝妃の問題はともかく、帝王の心変わりまで、神は咎めたりはしないのかもしれない。

 デニスは『神の決めたルール』は変えられないと言ったが、そのルールはほぼ形だけとなっている。形が何より大事、というなら、そういうものなのかもしれないが。

「……我ら一同、心より許しを乞うものなり……」

 ハリスの言葉が終わりを告げた。

 メンケントがゆっくりと祭壇に置かれた王杖をハリスに渡した。

 冷たい空気が一瞬どこかから流れ込み、炎がゆらめく。

「炎の塔へ」

 杖にはめ込まれた宝玉が、きらりと光を放った。

 ランプを手にしたルードを先頭に、ハリス、メンケントとジャネットが、地下へ階段を降り始める。

 長い通路だ。長い間使われていなかったのにもかかわらず、朽ちたところは一つもない。人工的な石造りの天井と床。大人が二人歩けるくらいの広さ。天井は低くはないが、男性には、頭を上げて歩くにはちょっとだけ、気になる高さ。壁には、神を称える言葉が刻まれていた。

 ひんやりとした風が、入口から闇に向かって流れ続ける。

「バラフの神気が、流れていますね」

 メンケントが目を細める。

「私たちが考えているより、神の愛は複雑なのかもしれません」

 大気は攻撃的ではなく、むしろ澄んでいる。冷たいが、心地よい。

「バラフはハリス様を支持してくれていると考えても良いのではないでしょうか」

 ルードがしたり顔でそう言った。

「何しろ、ハリス様は、魔術師殿一筋ですからね。リアナさまが何度色仕掛けをしても、眉一本動かさなかった」

「その話を今する必要はないだろう」

 ハリスがきまり悪そうに抗議する。

「良いことですから、よろしいのでは? 幸い、魔術師殿の誤解は解けたようですし」

 メンケントが微笑む。

「何より、儀式にさきがけ、お二人が心を通じ合うことができましたのは吉兆。必ず、火の神にも届きましょう」

「本当に」と、ルードが頷く。本人たちが思っているより、周囲のほうがよほど歯がゆく見えたのであろう。

 ジャネットは当初、婚約解消を申し出ようと思っていたのだから。本当に、何も見えていなかったのだ、とジャネットは思う。

「不思議です」

 ジャネットは暗闇に伸びていく道を歩みながら呟く。靴音が響くほかは何も聞こえない。

 その静寂の中、ランプの中で燃える火が、たえずジャネットに囁きかける。胸がさわぐ。

 吉とも凶とも知れぬ『変革』の予感。は全く感じなかったものだ。

「炎が騒いでる。聖なる炎の声は、私には聞こえないけれど、他の炎たちが騒いでいる。こんなことははじめてですわ」

「炎はなんと言っている?」

「わかりません。ただ、変わるとだけ。何がどう変わるのかはわからないけど」

「あなたが、変えると信じることが大事です」

 メンケントは静かに告げる。

「あなたが願えば、世界は変わります。あなたは炎に愛されているのだから」

「銀龍と同じことを言うのね」

 ジャネットは笑う。

「少なくとも俺は──」

 ハリスは王杖を握り締めて、前を向く。

「お前の願いを叶えるために、世界を変えたい」

「私だって……」

 ジャネットは、闇を見つめた。胸が熱い。

──は変えてみせる。

 何も知らないで、ただ逃げ出して。聖なる炎を制することができなかった、あの時とは違う。

 心はハリスに裏切られた絶望ではなく、愛された喜びに満ちている。病んで衰えていたとはいえ、父を助け、会うこともできた。

 敵同士でしかなかった、ハリスと銀龍を結び付けることもできた。

 あの時、願った通り……他人に流されることなく選び続けた結果だ。

 ランプの灯が、ジャネットに応えるようにゆらめいた。



 炎の塔の『聖なる炎』の部屋は、無人であった。

 ジャネットは、前回、包囲網を突破して、無理やり入った。

 あの時は、反乱軍と政府軍──おそらくハリスの率いていた隊がこの塔を囲みにらみ合っていた。

 今回は、反乱軍である銀龍はこの塔近辺にはおらず、皇子の軍もいない。帝王の兵も、ほぼいないであろう。

 もっとも。

 この部屋に入ったとたん、『視線』を感じた。

 この視線が、神のモノなのか、炎そのものなのか、それとも、帝王ザネスのモノなのか、判別はつけがたい。

「急ぎましょう。たぶん、られています」

 メンケントがそう言って、儀式の準備を始める。

 部屋はそれほど広いものではない。入ってきた扉と反対側にもう一つ扉がある。

 もう片方の扉は、前回、ジャネットが無理やりに入ってきた扉だ。

 部屋は二つに区切られていて、一段高い位置で聖なる炎が燃えている。低い側の床には大きな円が描かれ、火の神にささげる祈りの言葉が刻まれていた。壁には供物をのせる棚が一段高い場所に作られており、火の神の化身である銀の龍の神像が天井に向かって吠えている。聖なる炎がゆらぐたび、その龍の鱗の一つ一つがきらめき、まるで命を持っているかのようだ。

 ルードは、とびらの前に立ち、剣を構え、ジャネットは、ルードの隣にたち、扉に魔術の障壁をつくった。

「はじめる」

 ハリスはゆっくりと王杖をにぎり、床に描かれた円の上に立ち、メンケントが神への言葉を捧げ続ける。

「火の神ピュールよ」

 朗々とハリスは声あげた。

 大気がぐわん、とゆれる。

 炎が狂ったように叫び始めた。


『力を……力を……』


 力強いものが叫びながら、渦を巻いてどくどくとハリスのほうへと流れていくのをジャネットは感じる。

 ハリスの顔が歪む。

 銀色の王杖が青白く燃える。

「俺に、力を」

 ハリスが叫ぶ。ハリスの身体のまわりに陽炎がたつ。

 部屋の気温がぐんぐんと上がっていく。

 熱い。汗が浮かぶ。肌が焼けるようにヒリヒリする。

「王杖が……」

 ルードが悲鳴を上げた。

 ハリスの持つ王杖がメラメラと燃え始めた。

 しかし、聖なる炎から注がれる力は止まらない。

「頼む! 俺に力を!」

 ハリスは叫ぶ。

──なぜ?

 ジャネットは燃える王杖を見つめる。

 神は、間違いなくハリスに力を与えようとしているのに、かりそめの杖ではその力を受け止められていない。おそらく杖の許容量を超えた力なのだ。

「魔術師殿! 炎が!」

 ルードが叫ぶ。聖なる炎の中に大きな気配が生まれる。サディスティックなザネスの眼光を思わせる威圧感が大気に満ち、炎が猛り狂い始めた。

「バラフよ! 力を貸して!」

 ジャネットは熱くなっていく部屋に、ブリザードをおこした。燃え立つ炎は氷の風を受け、一瞬だけ動きを止める。

 だが、聖なる炎の前では、ひとの子の魔術など気休めにもならない。

「ピュールよ!」

 ハリスの持つ王杖は、発火に耐えられず、形を失いつつある。

 それでも、ハリスは聖なる炎に向かって、杖を振るう。燃え続ける杖は、圧迫するザネスの力を押し返してはいる。力勝負では、負けてはいない。だが、杖そのものが持ちそうもない。

──このままでは、杖が、熔けてしまうわ。

 杖がなくなってしまったら、神は、聖なる炎の力を与えるのを止めてしまうのだろうか。

 ハリスに注がれている力は消えてしまうのだろうか。もしそうならば、ハリスも、ジャネットも、ルードもメンケントもこのままザネスの業火に焼かれてしまう。

──ああ、そうだ。忘れていたわ。

「魔術師殿! どこへ?」

 ジャネットは、燃えさかる聖なる炎へ飛び込んだ。

 前回の記憶と同じように。

「ジャネット!」

 ハリスが叫ぶ。

 燃えさかる業火は、前回と同じ、ザネスの力だ。

──杖がなくなるなら、、杖になればいい。

「ピュールよ!」

 ジャネットは、炎に向かって叫んだ。

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