第二十一話 相愛
まだ暗いうちに、ジャネットたちは神殿を出る。
デニスは、二頭立ての馬車の荷台に軍医と共に乗せられることになった。『酷くなる』との本人の言どおり、高熱が出ている。
ビュラの話によれば、ビュラの軍は『訓練中』ということで、現在『聖なる炎』のある東の丘近くに駐屯中だそうだ。
深い森はしんと静まり返っている。夕方から出ている霧は未だ晴れることなく、星さえも見えない。手にしたランプの明かりも、少し離れただけで、ぼんやりしている。
「気配が」
ルードがささやいた。
気配が、神殿の小さな庭をうかがっている。
「伏せて!」
ジャネットは、グルマスに抱きかかえられるように地面に押し伏せられた。
風切り音とともに、弓矢が降り注ぐ。
ビュラが神殿に同行させていた兵の数は、それほど多くはない。このまま突破は難しい。
「グルマス、まだ、紅蓮石、残っていたかしら?」
ジャネットは、グルマスに問う。
「あまりご無理はなさらないように」
言いながら、グルマスは、懐から紅蓮石をひとかけら取り出した。
「大丈夫。見た目を派手にするだけだから」
言いながら、ジャネットは石を掌に乗せ、目を閉じる。
さすがに、休息したとはいえ、本調子ではない。だが、出し惜しみしている時ではないのも確かだ。
「銀の龍よ」
青く輝く鱗をもつ巨大な龍がそこに現れた。
雄大なそれは、追撃者たちをその焔で照らし出す。
幻影とはいえ、炎の神をかたどる以上、龍の身体はわずかばかりの熱を宿す。
焼き焦がすほどではないが、触れれば熱い。
聖なる炎の式典で使う、幻影魔術だ。実戦で使うことは想定されていないし、そもそもそれほど攻撃性のあるものではない。しかし、その姿は、式典で観客に畏怖の念を抱かせるために練りあげた幻影だ。
攻撃などしなくても、戦意を失わせるには充分であった。
「ピュールだ!」
口々に悲鳴と畏怖の叫びがおこる。
ジャネットは、龍を操る。鱗の焔を青白く燃やし、その口からちろりと炎をちらつかせた。
「ひぃぃぃっ」
追撃の兵たちは戦意を失い、逃走を始めた。
「逃げるものは追わずとも構わん!」
ビュラの声がとんだ。
やがて、剣戟の音がやみ、辺りは再び静けさを取り戻す。
「ジャネット様」
グルマスの声で、ジャネットは、集中を解除した。
龍の姿が消え、闇が戻ってくると、ジャネットは思わず膝をついた。
「見事ですが、本当に無茶ばかりなさる方だ」
ビュラは呆れたようにそう呟きながら手を差し伸べる。
「能力のすべてをかけて戦うと、言いましたから」
くすり、とジャネットは笑う。正直、身体は重い。しかし、強制されているわけでも、追い詰められているわけでもない。
自分の意志で、道を開くために戦っているのだ。出し惜しんで、後悔はしたくない。
「魔術師である前に、ハリス様の婚約者であると、私は申し上げましたぞ」
ビュラはそう言いながら、肩をすくめた。
「あなたに何かがあったら、ハリス様がどうなるか。考えただけでも、私は恐ろしい」
「……まったくです」
ビュラの言葉にルードが頷く。
「どういう意味?」
ジャネットは、隣にいたグルマスに問いかけた。
「……ハリス様に直接お尋ねになられたらいかがですか?」
グルマスは、それだけ言うと、ジャネットを馬車に乗せた。
「行きましょう。夜が明ける前に」
ヴィズルが、空を見上げた。
空は徐々に白み始めていた。
東の丘のそばには、大湿原が広がっている。
ここは、氷雪山脈からの風が強い地域でもあり、農耕に適さず、民家も少ない。
湿原をのたうつように流れる幾筋もの川のほか、あちらこちらに湧水池があり、水は豊かではあるが、人が住むには適さぬ土地だ。ぬかるんだ台地は、時折吹く冷たい風で、凍てつくため、植物は大きく育たない。ここは聖なる炎の恩恵をそれほど受けてはいない土地なのだ。
したがって、軍がここで訓練を行うことは、別段珍しいことではない。
夜明け前に、軍のキャンプにたどり着いた。
湿原と森の境界ともいうべき位置にある、バラフの怒りを鎮めるために作られた神殿が駐屯地の中心になる。
プリマベラに数々の神殿はあるが、バラフを祀っているのはここだけだ。とはいえ、ここに信者が祈りを捧げにくることはない。
炎の神ピュールの神官たちが、聖なる炎の祭典の裏で、ひそやかに祈りを捧げはするものの、森の神よりもずっと民に忘れ去られているかもしれない。信仰のない神殿のせいだろうか。手入れされてはいるものの、どこか寂しい陰りをにじませている。
──考えようによっては、バラフの怒りは正当なのかもしれない。
ジャネットは思う。
知らぬこととはいえ、ピュールはバラフの夫だ。ひとの子の分際で、エーラッハは、バラフから夫を奪ったのだ。
もっとも、だからといって、子々孫々まで、この土地に怒りをぶつけ続ける神を尊敬できるものではない。畏れても、崇めることは難しい。
デニスを馬車から降ろすのを手伝い、ジャネットは神殿の扉を開いた。
担架を組み、デニスをグルマスとルードが運ぶ。
バラフの神殿の内装は非常に意匠に凝ったものだ。少しでも怒りを鎮めようという祈りを込めて作られたのであろう。もっとも、神官が常駐することを考えられていないため、居住空間は狭く、軍の人間たちは全て、外に天幕をはってすごしているらしい。
「熱は下がってきましたね」
軍医が、ベッドに寝かせたデニスを診察した。
とはいえ、まだ、意識はなく、昏々と眠り続けている。
ジャネットは、父の額に浮いた汗をそっと布で拭う。
「ご病気なのに、無理をさせてしまったわ。私、親不孝ね」
「それ以上に、魔術師殿も無理をされております」
ルードはそう言った。
「あなたも少しお休みになられた方がいい」
「ええ。そうね」
ジャネットは頷く。
さすがに、昨日からの強行軍は体にこたえたらしい。
体がふらつく。肉体的にも精神的にも限界だ。
ふらつきながら、ジャネットは部屋を出ようとした。
戸口に立つと、ノブに触れたとたん、扉が引かれた。
ぐらりと体が傾いで、そのまま前に倒れこみ、意識がとぶ。
「ジャネット?」
ハリスの驚いた声が聞こえたような気がした。
喉が痛い。
そして熱い。
体中が痛い。
炎が揺らめきながら、体を焼く。
──今度、生まれてくるときは、自分の意志で生きたい。
ジャネットは願う。身体が青白い炎に包まれる。
「ジャネット!」
絶叫に近い男の叫び声。
懐かしい声だ。しかし、ジャネットにはもう、答える『声』がない。
抜けていく力とともに、世界はどんどん遠くなっていく。
「開けろ! ジャネット! 開けてくれ!」
扉を突き破る音。
炎は、大きく猛り狂う。
「そんな……」
絶句する男の声。
火に焼かれている身体を、男は胸に抱く。
炎はさらに勢いを増した。
「ジャネット」
優しい呼び声。
瞼を開くと、そこに心配げなハリスの顔があった。
「……皇子」
喉が痛い。声が若干かすれた。
「大丈夫か? うなされていた」
ハリスはいいながら、ジャネットの頬に手を当てる。
「……うなされて?」
ジャネットは、ゆっくりと辺りを見回す。
バラフの神殿の部屋の一つだろう。窓は閉じられており、時間はわからない。
ベッドサイドに置かれた小さなランプがジッと音をたてた。
全身に痛みが走る。おそらく、無理をしたせいだろう。頭も少し重い。
「今のは、夢?」
聖なる炎に焼かれた記憶が見せた夢だろうか。
「グルマスに聞いたが、かなり無理をしたらしいな」
ハリスの声に非難の色がにじむ。
「少しだけ、ですわ」
身を起こそうとして、ハリスに身体を支えられる。
大きな胸に当たり前のように身体を引き寄せられて、ジャネットはドキリとした。
息がかかるほどの近すぎる距離感。優しすぎる手。
「……こちらの方が、夢なのかしら」
ふと呟く。
この手がジャネットを選ぶことはないと諦めていた。だからこそ。この手に触れられなくても、平気だと信じて虚勢を張っていた……そんな日々の中でも、この手を本当は求め続けていたのだと、今ならわかる。
「どうした?」
「いえ……なんだか、いろんなことがありすぎて混乱しているのです」
ジャネットはハリスの目を見ることができず、俯く。熱い血潮が身体をめぐり、動悸が激しい。
「私、どうしたのでしょう?」
ようやく、そう口にする。
「俺の前で倒れた。もう半日経つ」
「そうでしたか……」
その時、ジャネットは、自分が薄物の寝間着をまとっていることに気が付いた。
汗で張り付いた布が、胸元の双丘のラインをくっきりと描いている。
「言っておくが、着替えさせたのは、俺じゃなくてフローラだ。先ほどまで、フローラがここにいたのだが、デニスの意識が戻ったと聞いて、ラスアが連れて行った」
ハリスは慌ててそう言った。
「お父さまが?」
「ああ。俺は彼女に信用がないらしくて、この部屋になかなか入れてもらえなかったのだが」
ハリスの言葉にジャネットは苦笑した。
「それは、前回、私が怪我をした時の印象が悪かったのでしょうね」
「あれは……悪かった」
ハリスは、バツが悪そうにそう言った。
「お前が、銀龍と通じていると言われて……動揺していた」
ハリスはジャネットの身体を離して、立ち上がる。離れてしまった体温が、少し寂しい。
「婚約者となったはずのお前を、貴族たちから守ってもやれないどころか、どんどん孤立させた。俺のそばには、お前でなく、いつもリアナがつきまとっていた……お前に見放されたと思った」
「見放されたと思っていたのは、私の方ですわ」
「俺は、お前に応えられない自分がはがゆかった」
ハリスの顔が苦く微笑む。
「反乱軍の長なら、お前を苦境から救えるのかと思ったら……お前が大けがをしていたという事実さえ俺の中で消し飛んでいた」
「私は……気にかけてくださった、それだけで嬉しかったですわ」
ジャネットはくすりと笑う。内通を疑うだけなら、単純に身辺調査を命じれば済むことなのだ。ハリスがジャネットに会う必要はない。
「疑われたことはショックでしたけど、帝都からわざわざおいでいただいたことは事実でしたから。私、皇子には、嫌われていると思っておりましたので」
「嫌いだと言ったことはない」
ハリスはそう言って、再びジャネットのベッドに腰かけた。
「ええ。でも、世間ではリアナ様と皇子を引き裂いた酷い女だと言われてましたもの」
「身勝手な噂だ」
ハリスはムッとしたように顔をしかめた。
「俺は……大切だと思うものをどう扱っていいのか、知らなかっただけだ」
ハリスの手がゆっくりとジャネットの髪を撫で上げた。
「正直、今も戸惑っている」
「……私もです」
ジャネットは苦笑する。
「いまだに、皇子が私を思ってくださっていることが、信じられなくて」
「嫌か?」
幾分、おびえたようなハリスの瞳が、愛おしい。ジャネットはその掌でハリスの頬をはさむ。
「いえ──嬉しいです」
ハリスの手が、ジャネットの顎にかかった。
ジャネットは瞼を閉じる。唇がふさがれ、ゆっくりとハリスの腕に引き寄せられた。
ランプの明かりが揺れ、影が重なる。
「俺の妻は、お前だ」
ジャネットの耳元で、ハリスが囁き──ジャネットは「はい」と頷いた。
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