第二十話 濃霧

 着水すると大きな水しぶきがあがる。冷たい水にとびこみ、服が重く体に張り付く。

「ジャネット!」

 ヴィズルの声だ。

 しかし、既に体力の限界まで来ているジャネットの身体は、鈍重で動かない。動かそうとすれば、さらに体が水中に沈んでいきそうになる。

「無理に動かないで」

 グルマスがジャネットを抱えたままそう言った。

 ジャネットは、背を水面にし、グルマスに引かれるに任せた。

「魔術師殿をこちらへ」

 ルードの声がして、ジャネットは船へと引き上げられた。

 隣には、デニスがびしょ濡れになって咳いている。

 小さな船である。グルマスが引き上げられると、三人の身体から流れ落ちる水で船底はびしょ濡れだ。

 乗っているのは、ルードとヴィズルだけ。おそらくは湖で漁をする小さな漁船なのだろう。ジャネットの足元に投網が置かれている。

「濃霧!」

 ヴィズルが叫ぶ。辺りが霧に包まれた。

 傾き始めた日の光が、濃密な霧に阻まれ辺りは薄暗くなる。見えていた湖岸も霧で見えなくなった。

「お怪我はありませんか?」

 ルードがジャネットに問いかける。

「私は、大丈夫」

 ジャネットはゆっくりと呼吸を整えながら、身を起こした。

 全身が濡れて、とても重い。体力的にも魔力的にもかなりギリギリに近い。

「寒いでしょうが、岸までは辛抱なさってください」

「ええ」

 ルードが、櫓を手にした。

「すぐには追ってはこないとは思いますが、急ぎましょう」

ゆっくりと船が動き出す。

 ジャネットは、濡れた髪をかき上げて、離宮の方角に目をやった。

 霧のために、ハッキリとわからないが、まだ火が出ているようで、ほんの少し光がともっているように見える。

「少し、やりすぎたからしら」

「ジャネット様を討伐するための理由を与えてしまわれましたね」

 隣に腰を下ろしたグルマスが苦笑する。

「……ですが、兵たちは、ジャネット様を恐れるでしょう。士気は低くなると思われます」

「怖がって退いてくれれば、ありがたいのだけど」

言いながらジャネットは父親の背をさする。無理をさせたせいなのか。咳が止まらない。

「ムファナ将軍が個人的に動かせる兵はそんなには多くありません。憲兵の方はあくまで離宮の警備が仕事。連絡網をうまく断てれば、それほど怖くはないはずです」

 囁くようにルードはそう言いながら、櫓をこいだ。


 

 深い霧の中、岸に着くころには、陽が落ちてきた。桟橋の漁師小屋で濡れた服は着替えた。ジャネットは、男物の服をまとい、ハンティング帽に金髪を隠す。

 夕闇は、ジャネットたちの姿を隠してはくれるが、一度水にぬれた体は冷えて、重い。

 そして、魔術のモノではない本物の深い霧が周囲の森を包んでいる。獣の声すらしない静けさだ。

 デニスは、歩く体力を失い、グルマスに背負われた。ジャネットも限界ではあったが、気力を振り絞って歩く。

 やがて。森の木々に埋もれるような小さな神殿にたどり着いた。火の神ピュールを祀っている神殿だが、シンボリックになっている炎は灯されていない。中庭の様子を見ても、ほぼ手入れされていない状態で、朽ちていくに任せているようだ。ただ、馬小屋のほうからは馬の鳴き声がきこえてくる。

「魔術師殿」

 出迎えたのは、ビュラだ。

 外観は廃墟同然の神殿であったが、中には明かりが灯されていた。

 もっとも、扉も窓もしっかりと閉じられて、明かりが一筋も外へともれぬように配慮されている。

 神殿はそれほど広くない。祭壇のある広間。神官たちが寝ていたと思われる寝室がひとつ。食堂と居間を兼ねた部屋がひとつだけ。グルマスの背で意識を失っていたデニスをベッドに寝かせ、ジャネットは、ようやく息をついた。

 食堂の椅子は座り心地がいいとは言えない粗末なものであったが、暖炉の火が優しく燃えており、冷えた体を温めてくれる。

「それにしても、派手におやりになりましたね」

 温かなスープが湯気を立てる。ジャネットは、自分が空腹だったことに気が付いた。カップにそっと手を伸ばす。

「細かいことが苦手なの」

 ジャネットは苦笑する。

「もっとも、田舎のこと。見ていたものはわずかです。今回は、ムファナ将軍が『勝手に』やったことですので、あちらの兵も多くありません。憲兵は中央から命令がなければ動けない。追っ手はそれほど怖くない」

「妹は大丈夫かしら」

 ジャネットの問いに、ビュラは頷いた。

「メンケント殿から、合流した旨、連絡はいただいている。明日にはお会いになれます」

「そう……」

 ジャネットは、胸をなでおろす。

「お疲れでしょうが、夜明け前には出立します。ここではおくつろぎにはなれないかもしれませんが、少しでもお休みを」

「父は?」

 ジャネットの言葉に、ビュラは険しい顔をした。

「本当は動かさぬ方がよろしいかと思いますが、馬車で連れていきます。心配でしょうが、軍医もおりますから」

 ジャネットは頷く。

 病み衰えているデニスには、過酷かもしれないが、置いていくわけにはいかない。

 デニスは、なんといっても炎を制するための『カギ』を握る重要な人物なのだから。

「ビュラ将軍は、王杖をご覧になったことはあるのですか?」

 ビュラは、先代から仕えている古参の将軍である。当然、歴代の帝王のそばにいた。ザネスが帝位についたときの儀礼式などもよく知っているはずだ。

「遠目では。とはいえ、あれが『本物』である保証はありませんが」

 ビュラは、小さく頷いた。

 国民に見せるための継承の式典と、実際の『炎の継承』の儀式は違う。炎の継承はあくまでも秘伝であり、帝王が神殿で行うものらしい。

「父が言うには、王杖は、エーラッハの遺骨であるらしいのですが」

 ジャネットの言葉に、ビュラは首をかしげた。

「私の知る限り、あれは金属だったように思います。少なくとも、骨ではなかった」

「金属?」

「鈍い銀の光沢を持ち、赤い宝玉がはめられていたはずです。現在、ハリス様のご指導の下、メンケント殿たちが似たような形のものを作成しようとしております」

「そう……」

 本当に、エーラッハの遺骨であったなら、それは唯一であるから、手も足も出ない。しかし、金属でできた『人の作ったモノ』であるならば、望みはある。

「神官たちも、なんとか神の声を聞こうとしているようですが、結局はあなたに変革の力を与えたという言葉以上のことを炎は語らぬらしい」

「私に力などないのに」

 ジャネットはため息をつく。

 聖なる炎の声は、ジャネットには聞こえなかった。はダメだったけど、なら聞こえるということなのだろうか?

 とはいえ。それに賭けるのはあまりにも冒険である。

 前回は、ジャネットひとりの命だった。しかし、今回は違う。聖なる炎をめぐって、たくさんの人間が動いている。国の未来がかかっているのだ。

「あなたには、不思議な力がございますよ」

 ビュラは、笑った。

「私は、ハリス様を小さいころから知っています。利発すぎて『父』であるはずの陛下に疎まれきた。特に炎の制裁で、レリアット伯爵が死んでからというもの、すべてを諦めたような目をしていらっしゃった」

 帝王ザネスの圧政を支持することも、反発することもできず。

「あなたに会って。あなたに必要とされて。ハリス様は、光を求めるようになられた。光になろうと思われるようになられた。私もまた、あなただからこそ、ハリス様を止めないことにしたのです」

「どういうこと?」

「あの方は、家族を知らない。その愛に飢えていることさえ、気がつかないほどに。しかし、あなたなら、父親のために命をかけるあなたなら、ハリス様の家族になれる」

「買いかぶりだわ」

 ジャネットは、誰でもよかった訳ではない。だが、ハリスの抱えているモノをまったく見ようとしていなかった。

「私は皇子に求めてばかりで」

「ハリス様には何より、それが救いとなったのです」

 ビュラは笑った。

「私たちはみな、レリアット伯爵の件で萎縮しておりました。ハリス様に、声をかけることすらためらう程に。魔術師殿から見たら、おいぼれのくせに、意気地のないと思われましょうが」

「そんなこと……」

「あの方に、光を見ろと真正面から言ったのは、あなたとレリアット伯爵だけなのですよ」

 ビュラは立ち上がり、傍らに置いていた毛布をジャネットの背に掛ける。

「あなたがいたから、ハリス様は立つのです。そして、だからこそ、このおいぼれも、それについていくことにした──あなたは、変革の旗印なのです」

「私は自分勝手なだけよ」

 ジャネットは呟く。

「でも、やれることはやるわ。紅蓮の魔術師として、能力のすべてをかけて私も戦うわ」

「それは、違いますよ」

 ビュラは、苦笑する。

「あなたは、魔術師である前に、ハリス様の婚約者です。そのことを忘れないでください」

「……忘れてはいないけど」

 ジャネットは肩をすくめる。婚約者として、何ができるのか。それは、ジャネットには全く想像がつかなかった。

「あなたは、あなたでありさえすれば、それでいいのですよ」

 その言葉を聞くのは、三度目。その本当の意味を、誰一人教えてはくれない。

「出立までお休みを。それでは──」

「ええ」

 立ち上がって席を外すビュラを見送り、ジャネットは椅子の上で静かに目を閉じた。



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