第12話 兵舎 3

 自分の父親がわからないというのに、ハリスの表情は、まるで他人事のようだ。

 それは、『平気』だからなのではない。もとより、欠損しているのだ。

 血のつながりがなくとも、父と慕う……そんな関係ではなくて。

 きっと、ハリスは、正しい意味での「父」の姿をザネスに見たことがないのだろう。

 そして、政治的にも表面上はハリスはザネスに従ってはいるものの、実質的には対立に近い状態にある。

 そして、そんな関係であることをジャネットも求めている。

 父デニスを、皇子の力を借りて助けたいと願うこと……それは、ハリスに、反旗をうながしているのに近い。

 ジャネットは言葉もなく、ハリスをただ見つめる。

「できれば、ヴァルド皇子が父であって欲しいとは思う」

 ハリスは、そういって肩をすくめ、自嘲気味に笑った。

「そちらの方が気が楽だ。陛下が俺を嫌う理由も単純でいい」

 実際、そう思っている人間はかなり多い。

 ヴァルド皇子は、温厚な人物であったらしい。継承権の順位だけでなく、ヴァルド皇子のほうが帝位にふさわしかったと思うものは少なくない。

「そもそも、皇子の死因は不明。そのすぐあとに前帝王ケイオスも急逝している。きな臭い話だ」

 皇子もケイオス帝王も、突然死だ。死因はわかっていない。

 聖なる炎を維持するという建前の下、本来喪に服すべき期間に、ザネスは帝王となり、アラヴァを妻に迎えた。

「アラヴァさまは、もともと帝妃となられるべく、教育をうけておりましたからね。新たに別の女性を捜すより、早かったのでしょう。アラヴァさまも父のない子よりはと思ってのことかもしれません」

 ルードがそっと口をはさむ。

「そうかもしれませんね」

 ジャネットは頷く。自分がハリスの婚約者として、教育など受けていない事実に気づく。 今、ハリスの相手が、ジャネットからリアナに変わったとして、なにも困らない。

 二人の間に差はまったくないのだ。いや、むしろ宰相の娘として育てられたリアナのほうが、よほどふさわしい……そう思うと、胸が苦しくなった。

「ヴァルド皇子が死んでから二か月あった。別の女性を選ぶ時間は十分ある。教育は、妃になってからでも間に合う。それは言い訳に過ぎない」

 ジャネットの顔に何を見たのか──ハリスは、そういって再び茶を飲みほした。

「帝妃にしても、子に父がなくとも、もともと公爵家の人間だ。生活には困らない。未婚の母とはいえ、ヴァルド皇子との婚姻は間近だったのだから、外聞もそれほど悪いわけではなかったはずだ。少なくともヴァルド皇子の喪があけるまでは、結婚するべきではなかったと俺は思う」

 ハリスは苦々しく口をゆがめた。

 自分の親のことなのに、その視点は辛らつだ。

「俺が陛下の子であるとなると帝妃の行動はすっきりするが、それはそれでひどい話だ。もっとも、最悪は、帝妃自身ですら、どちらの子かわかっていないということもあり得るわけだが」

 ハリスは苦々しく眉を寄せる。

 ザネスの子であれば……それは裏切りの証だ。

 ヴァルド皇子、さらには前帝王ケイオスの死すら、ザネス帝だけでなく、アラヴァの共犯という可能性も高い。が、それならば、ザネスが確実に父であり、ハリスが疎まれることはないだろう。

 最悪のケースは本当に、どちらの子かわからない場合だ。

 アラヴァの気持ちがどこにあったかは置いておくとしても、兄弟の争いは帝位だけでなくアラヴァそのものを争っていたことになる。

「帝妃さまは、私がそばにいることで、皇子が陛下のご不興を買うのではないかと心配なさっているようでしたけど……」

 ジャネットは、ムファナの言葉を思い出す。

 ハリスは、軽く頷く。否定するつもりはないようだ。

「帝妃が俺を心配していないとは思わない。愛がないとも思わない……ただ、俺の生まれた日を知り、母親として、俺があのひとを尊敬できなくなっただけだ」

 窓の外に目をやるハリスの目には、何の感情も映ってはいない。

「今の帝妃を見ていると、俺のためだけに嫁いだとはとても思えない。せめてそう思えればよかったのだろうが」

 一見、貞淑にみえる帝妃である。しかし、ハリスには違った面が見えているのだろうか。

 ジャネットはカップに視線を落とす。

 やわらかな香りだ。

「私は、幸せなのかもしれませんね」

 ぽつりと思う。

 母を早くに亡くし、父を捕らえられ、嫌な仕事を余儀なくされても。

 ジャネットのそばには、妹のフローラがいる。叔母のミラも親身になってくれている。

 父母を尊敬し、愛おしいと素直に思える──そんなあたりまえのことが、ハリスには許されないのか。

 ジャネットは、ハリスの静かな瞳に、強い孤独の影を見る。

「お前は、父を救いたい一心で、強引に俺の婚約者に名乗り出た」

 ハリスはポツリとそう言った。

「新鮮だった。肉親のためにそこまでできるというお前に、まず驚いた。俺にはない感覚だからな」

「私……」

 ジャネットは、手をそっと握りしめる。

 自分の要求は、ハリスを苦しめたのかもしれない。

「ひどい女ですね。自分の親を救うために、皇子に親を裏切れと言っているようなものですもの」

 帝王ザネスは、圧政を強いる暴君である。それでも、皇子にとって形式上は『父』だ。

「俺は、お前とは違う。親というものに、慈しみ育てられたわけではない。陛下は陛下であって、一般的な意味で俺の父親であったことはない」

 ハリスの言葉は本心であろう。

 だからこそ。その言葉はジャネットの胸を締め付けた。

 頬に涙が流れていく。ハリスの心は静かだ。その静けさが、哀しい。

「……お前が思うほど、俺は不幸ではない」

 そう言って、ハリスは立ち上がり、ハンカチをジャネットに手渡した。

「少なくとも、憂いてくれるお前がいるのだから」

 胸がドキリとする。

 見上げた先のハリスの瞳は、優しい光をたたえていた。

「それに、お前と違って『すべてを捨てる』ことにためらいはない」

「……捨てていただいては困ります」

 ルードが眉をよせた。

「あなたは、この国の希望なのですから」

「……そうだな」

 ハリスは肩をすくめた。

「各地で反乱分子が動いています。『炎の制裁』が発動される前に、なんとかしなければ」

「いっそ、炎を消すことが許されるなら……楽だろうに」

 聖なる炎は、ザネスの権力の証。しかし、この帝国の生命の源だ。

「高い税金に苦しみ、日々生きるのが苦しい民に、ただ従えというのは、無茶な話だ」

 ハリスはそう言って、窓の外を眺める。

 まだ日は高く明るい。

「聖なる炎は、プリマベラの民を生かすためにもたらされたものだ。殺すためではない。それを教えてくれたひとは、聖なる炎に焼かれてしまった。あまりに無力だった、あの日を俺は忘れない──」

「ハリスさま」

「焦ってはダメだ。まだ、力が足りない。炎を制するには、まだ……」

 ハリスの言葉は、自分自身に言い聞かせているかのようだ。

 握りこんだ拳。そこには揺るがぬ決意がある。

 半年後、父デニスは、やはりハリスに殺されるのかもしれない──しかし、ハリスによって救われる命もあるのだろう。

 プリマベラは変わる。今でなくても。近い未来に。

 そう感じた時、ジャネットの心に残っていたのハリスへの不信感が薄らいでいく。

 ハリスは、わが身の安全のためだけに、人を処刑したりはしない。

 父は、人柱であったのかもしれない……だからといって、その運命を享受することは難しいとは思う。

 自分はともかく、デニスは自分の力で救わなければならない──ジャネットは手を握り締めた。

「何にしても、ジャネットの警備を強化しろ」

「そうですね」

 ルードが頷く。

「……私は、大丈夫ですわ」

 ジャネットは笑う。

「グルマスもおりますし、魔術で負ける相手はそんなにはおりません」

「魔術師殿は、ご自身がどれだけ重要な立場なのか理解しておられない」

 ルードが眉を吊り上げた。

「あなたは、ハリス様の婚約者なのですよ?」

「……婚約者よ」

 ジャネットは肩をすくめる。

 ルードはそれを見て、大きくため息をついてハリスのほうに目をやった。

「デニスを救ったら、候補を外す気になるのか?」

「え?」

 それではまるで、ジャネットが自分で『候補』という立場でいたいと欲しているかのようだ。

 ジャネットが「婚約者」になり切れないのは、ジャネットの意志ではない──そう言いかけた時、ノックの音がした。

「はい」

 ルードが扉の向こうに声をかける。

「ルード様、あの……」

 おそらく従卒であろう。非常に戸惑った様子が声に滲んでいる。

 ルードは不思議そうに首をひねり、自ら扉を開いた。

「ムファナ将軍」

 身を縮めるような従卒の少年の横に、中年の狐目の男が立っている。

「邪魔をする」

 そういって、有無を言わさぬ態度で、ムファナは部屋にずかずかと足を踏み入れた。

 さすがに、階級が上の将軍相手では、制止することは難しい。ルードは頭を下げながら、ハリスとジャネットを庇うように立った。

「閣下、来客中です。何か御用ですか?」

 ムファナはじろりとルードをにらみつけ、そして、ジャネットに目をやった。

「紅蓮の魔術師殿にご同行いただきたい」

「私に何か?」

 腰を浮かしかけたジャネットをハリスが制する。

「ジャネットに何の用だ」

「これは、殿下。ご無沙汰しております」

 ムファナはハリスにうやうやしく挨拶をする。

「軍属のラニアスの件で、紅蓮の魔術師殿からお話を伺いたいと思いまして」

「話とは?」

「事故の詳細をお伺いしたいと。なにしろ本人に確認がとれないまま休職届けが出されるのは異常なこと。事故の届け出もありましたが、記述があいまいです」

 言葉は丁寧ではあるが、疑念を抱いていることがあからさまだ。

「ラニアスの居場所も本人が来られない理由も報告しましたが」

「なぜ、ラニアスだけなのです?」

 ムファナは険しい顔で、ジャネットに問いかける。

「動けないほどのケガを、ラニアスだけがおって、あなたに何もないというのは、おかしいのでは?」

「私をお疑いで?」

「そうとは言っておりませんが」

 ジャネットは、ため息をついた。

「これを見れば、納得していただけるのかしら?」

 ドレスの裾をめくりあげ、白い素足をさらけだした。

 男三人の無粋な視線が注がれ、ジャネットはその恥辱に耐える。

 美しい細い脚には、黒い青あざがあり、しかもその肌には赤い小さな無数の切り傷が生々しい。

「やめろ」

 ふわりと、ジャネットの足に何かがかけられた。

 ハリスの上着だ。

「ムファナ将軍」

 ハリスの声に怒りがにじむ。

「ジャネットはことを荒立てたくないようだが、将軍は事故について疑っているようなので、本当のことを言おう」

「皇子、それは……」

 ジャネットが口を開きかけるのを、ハリスは目で制した。

「ジャネットの馬車は、夜会の折、何者かに、車軸が緩められていた。夜会の警備の担当は、将軍の仕事ではないのか?」

 ハリスは、ムファナを睨みつけた。

「自らの職務怠慢で俺の婚約者を危険にさらしておきながら、さらにその言葉を疑う。失礼ではないのか」

「殿下、私はなにも魔術師殿を疑っているわけではありません」

「ならば、去れ。用事はなかろう」

「……失礼いたしました」

 ムファナはハリスの剣幕にたじろいだのか。

 頭を下げて出て行った。

 ムファナの憎しみに満ちた鋭い目と一瞬、目が合って。ジャネットは背筋に冷たいものを感じたのだった。


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