第10話  兵舎 1

「お姉さま!」

 叔母の家に着くと、フローラが飛び出してきた。

 日はもう傾こうとしている。

 神殿のほうから、無事だという連絡は昼過ぎに届いたはずだが、やはり馬車の事故というのは心配だったのだろう。

「では、私はこれで」

 神官から頼まれた『農夫』を装っているのだろう。銀龍は、低く頭を下げた。

「ありがとう。メンケント様によろしくお伝えを」

 引き留めてはかえって迷惑であろう。

 銀龍はできるだけ、『顔』をさらしたくないに違いない。

 ジャネットは荷馬車を降りると、あっさりと背を向けた。

「いずれ、また」

 かすかにそう言って銀龍は帰って行った。

「心配をかけたわね」

 フローラの手を取りながら、ジャネットは扉をくぐる。

 玄関のホールには、叔母のミラが待っていた。

 人の好いこの叔母は、やっかいものであろう姪っ子であるジャネットとフローラを可愛がってくれている。

 叔母の夫であるヴェルド伯爵は、ジャネットと皇子の婚約に骨を折ってくれた経緯もある。

 ジャネットは、この夫妻に頭が上がらない。

 父を助けるために、なんでもしたいとは思うものの、この二人に迷惑をかけない方角でなければ、と思う。

「朝、馬だけが帰ってきてびっくりしたわ。午前中に事故の知らせをもらったの。本当にあなたが無事でよかった」

 ミラがジャネットを招き入れる。

「まず、湯あみをして着替えたほうがいいわね。食事も用意させるわ。今日はゆっくり休んで」

「ありがとうございます」

 ジャネットは頭を下げた。

 事情が事情とはいえ、叔母に申し訳なく思う。予定では、今日の夕方には採掘場のある家に戻るつもりだったのに、それもかなわなくなった。

 伯爵家の馬車で送ってもらうにしろ、この時間では深夜になってしまう。

「気にしないで。元気そうで安心したわ」

 人の好い優しい笑顔だ。

「馬だけ帰ってきたときは、心臓が止まるかと思ったわ。てっきり宮殿に泊っているかと思ったから……」

「ごめんなさい」

 ジャネットは皇子の婚約者である。

 夜会のあと、客室に泊まることも不可能ではないから、叔母がそう思っても不思議はない。

「暗い夜道で不安だったでしょう? あなた、ひとりで助けを呼びに行ったって聞いたわ」

「ええ。でも、私は無傷だったから」

 ジャネットは笑う。

「事故の知らせがもう少し遅かったら、憲兵に届けを出すところだったわ」

「本当に、ご心配をおかけしました」

 ジャネットは心から頭を下げた。

「でも、お姉さま。知らせが来てからもなかなかお帰りにならないから心配でしたのよ」

 フローラは、本当に心配していたのだろう。そういって、ジャネットの袖を握り締めた。

「ごめんなさい。ラニアスが、重傷だったからお医者さまと相談していたの。それに、神殿には馬車がなかったから、手配をしてもらっていたりして遅くなったの」

 ジャネットには不可抗力だったとはいえ、寄り道して遅くなったとは言えない。

 本当に申し訳ない気持ちで、フローラの頭をそっとなでる。

「でも、お姉さまがご無事でよかったですわ」

「ありがとう」

 ジャネットは、そう言って。

「叔母さま、申し訳ないですけど、明日の晩も泊めていただいてもよろしいでしょうか?」

「ええ。それは構わないわよ。事故の後だもの。明日と言わず、いつまでもゆっくりしていきなさい」

 ミラはにこやかに笑う。

「ありがとうございます」

 ジャネットは頭を下げて。

「フローラをお願いします。私、明日は帝都に行ってきますので、送っていただけますか?」

「お姉さま?」

 不安そうにフローラがジャネットを見上げた。

「事故の報告をしないといけないわ。ラニアスもケガで倒れてしまったから、その件も含めてね」

 事故そのものは放置しておいても問題はないが、ラニアスは帝王の命でジャネットに仕えているのだ。

 黙っておくわけにはいかない。

 問題は、ラニアスの居場所であるが、神殿にいるといって構わないとの許可は、銀龍からもらっていた。動かせない状況にあるのは、今の状態では事実だし、おそらく歩けるようになるのもひと月以上かかるという見込みだ。

 そのあとのことは、また何らかの連絡が来るに違いない。

「報告だけなら誰かひとを……と、言いたいけど、あなたはそういう子ですものね」

 何かを諦めたように、ミラはそう呟く。

「せめて、今日はゆっくり休んで」

「ええ」

 ジャネットは、ミラに頷いて。

「心配ないわ」とフローラの頬をそっとなでた。




 事故の手続きというより、正確にはラニアスの負傷の届けを出すために、軍の事務局に顔を出す。

 グルマスとラニアスは、一応、軍属なのである。

 医師の診断書と、休職願いを提出すると、事故の状況の簡単な聞き取りがあったが、ジャネットは、事故であると報告した。

 何者かに仕組まれたかもしれないと言っても、証拠がない。下手に騒ぎ立てると、かえって面倒だ。

 後任についてもろもろの手続きを上司の意見を仰ぐから少し時間が欲しいと事務官にいわれ、ジャネットは、事務局を出て外に出た。

 軍の訓練施設が立ち並び、兵たちが汗を流している。

 シンプルなドレスとはいえ、男ばかりの軍の施設を歩くのには目立つようだ。

 じっとしていると、それだけで、視線を浴びてしまう。

 居場所がない気分で、ふらふらとジャネットは歩いた。

 建物に囲まれた中庭で、剣戟の音がする。

 そこに、ジャネットは見知った顔を見つけた。

──皇子?

 軍の訓練に皇子がいても不思議ではないが、ジャネットの中のハリスのイメージと違う。

 ずいぶんと力強い印象だ。

 力は拮抗しているようにみえる。正直、剣が使えるとは思っていなかった。

 動きが俊敏で、激しい。かなり使えるのは間違いない。

 ハリスの相手をしているのは、ビュラ将軍配下の剣豪であるルード隊長だ。

 ジャネットの背中に、ゾクリとしたものが走る。

 細い釣り目をしていて、眼光も鋭い。年齢はハリスよりやや上。

 軍での人望はある方だとは聞いている。

 いままで直接の面識はない──面識がのは未来だ。

 ジャネットの中に、『前回』の記憶が蘇る。



「デニス氏が、反逆罪でハリス皇子に処刑されました」

 ラニアスは封書を差し出しながらそう言った。

「つきましては、帝王ザネスさまからあなたに質問状がきております」

「質問?」

 慌てて開いた書状には、父、デニスが帝王に反逆を企てたことと、ジャネットもそれに加担したという疑いがあるので釈明せよとある。

「どういうことなの?」

 皇子に父が殺された──その意味すら、わからないうちに。

 屋敷に、正規軍が現れた。完璧に武装している。

「一緒に来ていただきましょう」

 グルマスに案内され、入ってきたルードはそう言って、ジャネットの手を取る。

 鋭い眼光で、ジャネットを見た。

──殺される。

 ジャネットは、その手を振りほどき、逃走した……。



 鋭い風をきる音がした。

「ジャネット!」

 ハリスの大きな声がとぶ。

 ハリスの手元から放たれた、鋭い白刃が宙を裂く。

「え?」

 その白刃が、ジャネットめがけて飛んできていた弓矢を弾き飛ばした。

「ジャネット!」

「大丈夫ですか?」

 顔を真っ青にして、ハリスとルードが駆け寄ってきた。

「大丈夫ですわ」

 考えに沈んでいたせいか、事態に現実味を感じず、ジャネットはぼんやりと答えた。

 あたりに、ほかに人影は見えない。

 矢は、どこから飛んできたのであろうか。

「怪我は?」

「ありませんわ」

 ハリスはジャネットの手を引き、矢のとんできた方角を遮蔽する位置につれていく。

「頬に傷が」

 ハリスの指がジャネットの頬に手を当てる。

「それはおそらく、今日のものではありません」

 不覚にも胸がドキリと音を立て、ジャネットはうつむいた。

「軍の支給している、一般的なものですね」

 ルードがジャネットを狙った矢を拾い上げた。

「流れ弾、ではないでしょうな」

 慎重に辺りを確認する。あたりに人の気配は感じられない。

 目は釣り目で鋭いことには違いないが、ジャネットに敵意があるわけではない。

 むしろ、ジャネットの安全に気を配ってくれている。

 ジャネットは呼吸を整え、気持ちを切り替えた。

 ジャネットを連行しようとしたのは、『前回』。

 同じことが起こるとしても、まだ先の話だ。

 この段階では、ジャネットはルードとは初対面である。それに、前回の時だって、ルードは『連行』しようとしただけで、ジャネットに害を与えたわけではないのだ。

 実際、ルードという人間をジャネットは噂でしか知らない。剣豪で、切れ者の中立派だと聞いていた。

 しかし、ここでハリスと剣を交えていたということは、実は皇子派なのかもしれない。

「何にしても怪我がなくて良かった」

「皇子が私を気遣ってくださるなんて、珍しいですわね」

 ほっとしたように微笑むハリスに、ジャネットは思わずそう言った。

「おや、そうなのですか?」

 おもしろそうにルードはそう言いながら、ハリスの短剣を拾い上げた。

「……ハリスさまは、意外と不器用でいらっしゃるようだ」

「余計なことを言うな」

 ハリスは不機嫌そうに答え、短剣を受け取った。

「それにしても、今日のケガではないとは?」

「たぶん、夜会の日の帰りにしたものですわ。それに、これくらいかすり傷です。私は、すでに全身傷だらけで、死地も何度もくぐった女です。今さらです」

「しかし、あなたのような美しい女性の顔に傷がついては……」

「剣の達人である隊長さまは、お言葉もお上手でいらっしゃるのね」

 そういって、ルードにニコリと笑いかける。ハリスの顔が少し不機嫌に歪んだ。

「ところでお前は、なぜ、こんなところにいる?」

 夜会が終わったら、採掘場に戻らなければならないジャネットが、まだ、帝都にいるのだ。

 その問いは当然であろう。

「夜会の帰りに事故にあいまして、ラニアスが重傷を負いました。しばらく、休養か必要なので、その届けをだしにまいりましたの」

 ジャネットは答えた。

「採掘場に帰るのは遅れてしまいますが、これは不可抗力ですわ」

「事故?」

 ハリスは目を見開いた。

「ええ。馬車の車軸が緩んでいたのです。それで、車体が横転しました。幸い、私はほぼ無傷でしたけれど、ラニアスはあばらと足を折りました」

「本当に、ただの事故だったのか?」

「事故以外に、何がありますの?」

 ジャネットは首をかしげてみせる。

 ハリスはルードと険しい顔で視線を合わせた。

「……なぜ、今回グルマスと来なかった?」

「採掘場の入り口に亀裂が発見されたので、補強工事を頼みました」

 ジャネットはハリスの言わんとすることを理解した。

 グルマスなら、事故を未然に防げたはずと言いたいのだ。

 事実、何事もなかった。

 グルマスの能力が優れているのは間違いない。彼は、ジャネットに良い感情を持っていなくても、仕事をこなす律義さがある。

「今後、どこかへ出かけるときは、グルマスをそばに置け」

「……信用しているからこそ、彼に工事を頼みましたのよ?」

 ジャネットは苦く笑う。

 その選択によって、事故は起き、ラニアスは重体となった。事態が良くなったとはいいがたい選択だったが、岩盤事故はたびたびおきて、人が死んでいた事実もある。

 全体の収支でみたら、どちらが賢いかは、微妙ではないだろうか。

「今後の話だ」

 ハリスはそう言って、ため息をついた。目が険しい。

「どう思う?」

「たぶん、ハリス様のお考えが正しいかと」

 ルードが険しい顔で頷いた。

「ラニアスの後任は?」

「まだ決まっておりませんわ。というか、それを待っているから、ここにいるのです」

「護衛は?」

 ハリスは眉をしかめた。

「いません。帰りは辻馬車を拾って帰るつもりでしたし」

「ひとりでこんな男所帯の組織にやってきたのか?」

「別にいつものことですけど、何か問題が?」

 くっくっと、ルードが肩を揺らして笑った。

「紅蓮の魔術師殿は、噂通り、勇ましい方ですね……しかし、もう少し、ご用心なさったほうがいい」

「用心?」

「軍の施設で女性はとてもよく目立ちます。男所帯ですからね。軍規がしっかりしているとはいえ、怪しからん奴がいないとは限らない」

「……そんなモノ好き、いるのかしら。紅蓮の魔術師の悪名は高いわよ」

 ジャネットは苦笑する。

「実際にどうこうする勇気のあるやつは少数派でしょうけど」

 ルードはそう言って真顔になる。

「ここに限らず、あなたは皇子の婚約者。身の回りの用心は必要です。先ほどの矢だって、流れ矢ではなく、あなたを狙撃したものかもしれない」

 

『あなたは、狙われている』

 

 銀龍の声が、ジャネットの耳によみがえる。

 そうかもしれない。そうでないかもしれない。しかし、ジャネットはいずれ死ぬのだ。

 そう思えば、妙に心はおだやかだった。

「私、そんなに皇子にはふさわしくないのかしらね」

 くすり、とジャネットは笑う。

「殺したいほど反対なら、直接言っていただければ、よろしいのに」

「ジャネット」

「多くの貴族の方は、私よりリアナさまのほうがふさわしいとお考えですもの。陛下のご許可をいただいたはずなのに、私は未だ婚約者候補のひとりのまま」

 なにより、帝妃も、反対しているのだ。これほど周囲を敵に回して、父を救えるわけがない。

 どうして、前回はそんなことに気が付かなかったのか。

 父を救うための味方が欲しかっただけなのに、結果としてたくさんの敵を作ってきた自分はなんと愚かであったのだろう。

 日が雲の間に隠れ、まわりがやや暗くなる。

「お前は俺の婚約者だ」

 ハリスはそう言って、ジャネットの手を引き、椅子から立ち上がらせる。

「とりあえず、ここは危険だ」

「そうですね、私の執務室へ行きましょう」

 ルードはそう言って、辺りを見回す。

 あたりは、風一つなく、不気味なくらい静かであった。



 


 

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