第7話 事故

 まだ、楽の音は止まらない。

 ジャネットは、にぎやかなホールを抜け、扉のそばの男に声をかけた。

 このまま、馬車止めまで歩いていっても、ラニアスはまだ来ていないからだ。

 男が使用人達の控え室に去るのを見送って、近くにあった冷たい水を飲む。

 それから長い廊下を、ゆっくりと歩いた。さすがに酔いはさめてきたが、身体はまだふらつく。

 この時間に帰ろうとするものは、よほどのパーティ嫌いか、年寄りだけで、玄関ホールの人影はまだらである。

 空には満天の星が輝き、冷たい夜風が頬をなでた。

「ずいぶんと、お早いですね」

 馬車にたどりつくと、ラニアスがそう言って、頭を下げる。

「ええ。ちょっと、酔ってしまったの」

 ジャネットはラニアスの手を借りながら階段に足をかけ、座席に乗り込んだ。

 馬車は二頭立ての四輪。紅蓮の魔術師の名に恥じない、豪華な馬車だ。

 とはいえ、馬車は揺れる。

 疲れていて、眠いのにもかかわらず、揺れるたびに、傷口が痛む。

 ――それにしても。

 ジャネットは眉をしかめた。今晩は、ひどく『跳ねる』ようだ。

 痛みに覚醒を促されながらも、頭は、ぼんやりとして。

 外の闇は深い。それは、ジャネットの何かを刺激した。



 空には満天の星。頬に当たる風は、冷たい。

「なにをしているの」

 馬車止めに戻ると、グルマスが車輪のそばにかがんでいる。

「車軸がゆるんでいましたので、調整を。しばらくお待ちください」

 グルマスは恰幅の良い体をかがめ、ランプをかかげながら、車輪を確かめている。

「明かりが必要?」

「できれば」

 ジャネットは、手をのばして、馬車の頭上に光の玉を呼び出す。

 辺りがこうこうと照らし出され、周囲の馬車のものからざわめきが起きたが、明かりの下にジャネットがいるのを確認すると、誰もそばに寄ろうとはしない。

 ──私、嫌われているのね。

 寂しさにため息がもれる。

 そして、作業を続けるグルマスの手元をじっと見つめた。



 馬車が再び跳ねる。

──今のは。

 まどろみの中によみがえったのは、『前回』の『夜会の帰り』の記憶だ。

 あの時は、今回よりも帰りは遅かったし、ラニアスではなく、グルマスが御者であった。


「車軸がゆるんでいましたので」

 耳によみがえるグルマスの声。


──車軸?

 馬車が、揺れる。行きと同じ道のはずなのに、ことさらに揺れが激しい。

「ラニアス! 馬車を止めて!」

 ジャネットが叫ぶ。

 馬車の『客車』の外にいる御者台には、ジャネットの叫びが聞こえないのか。

 窓の向こうの闇は深い。わずかな光は、御者台のランプであろう。

 ガクガクと、不安定な揺れが続き、ミシミシと大きな音がしている。

「どうかされましたか?」

 ラニアスが叫び返してきた。速度がやや遅くなる。

「止めて!」

 馬車は大きなカーブにさしかかった。

 ガツン!

 大きな音がして、『客車』が傾き、ジャネットは反対側の壁に身体を押し付けられた。

 音に驚いた馬のいななきと、ラニアスの叫び。

 衝撃とともに視野が回転する。

 しばらく、硬い地面を引っ掻くような音が続いて、車体が揺れる。

 馬のたずなが外れたのか、蹄の音が遠ざかっていった。

 やがて、揺れがおさまり、静寂が訪れた。

「痛ッ」

 全身が痛む。何も考えられない。

 ジャネットは、ゆっくりと痛みを逃がすように押し付けられた身体をのばしていく。

 背中を打ち付けられたらしく、かなり傷む。暗闇の中、ジャネットは辺りを見回した。

 自分が座り込んでいるのは、どうやら『壁面』の部分。頭上にぽっかりと星空が垣間見えた。

 扉の『窓』だ。

「光よ」

 ジャネットは指先に小さな光を灯した。

 慎重に身体を調べるが、幸い大きな外傷はなさそうだ。全身は、かなり傷むけれど、動けないわけではない。

 車体は完全に横転していて、出口は頭の上にある。

「ラニアス!」

 叫んでみたものの、返事はない。

 ジャネットは、狭い車内と痛みのため、かなり苦労して立ち上がり、仰ぎながら、馬車の扉に手をかけた。

 何とか頭を出したものの、人影はおろか、ラニアスの姿も見えない。

「この格好では、きついわね」

 ドレス姿では、身体の自由がきかない。ジャネットは顔をしかめながら、扉をよじ登った。

 車体がぐらぐらとゆれる。

 痛みと恐怖をこらえながら、上体から、はいずるように外へと出た。

 天には、満天の星。

 辺りは静まり返っていて、木の葉がすれる音すらしていない。

 灯した明かりを頼りに、ジャネットは、車体からゆっくりと降りた。

 ものの見事に、横転している。

 ちょうど、郊外に出た辺りだろう。あたりは林になっている。馬車は、カーブのところで横転し、車体は道脇の木々にささえられていた。カーブの先の丘の上にわずかな明かりが見えている。おそらく、郊外にある神殿だろう。

 馬車は、前輪の車輪がひとつなくなっていて、車軸が折れている。

「ラニアス!」

 返事はない。馬の姿もない。

「光よ」

 指先に灯した光の光量を増やし、宙に浮かせる。

 馬車の車体と反対側の方角の道のわきに車輪が転がっていた。

 道には、車輪が作った轍と、車体が横転してひきづられた跡が残っている。

「ラニアス!」

 御者台は空っぽだ。ジャネットは、林の中に目をやった。

 横たわる人影が見えた。

「ラニアス!」

 おそらく御者台から投げ出されたのであろう。

 ジャネットは、足元の悪い林の中に足を踏み入れる。

「ジャネット……さま」

 低いうめき声が聞こえた。

 光玉を移動させ、照らし出す。

 木の根元に、横たわった人物が見えた。

「大丈夫?」

「……なんとか」

 ラニアスは辛うじて、そう言った。苦しそうだ。額に汗が浮かんでいる。

 見たところ、外傷はないが、足が変な方角に曲がっているようにも見えた。

「動ける?」

「……無理です」

 ジャネットは、辺りを見回す。

 馬はいない。近くに神殿はみえているが、ラニアスを担いでいくことは、ジャネットには無理だろう。

「人を呼んでくるわ」

 ジャネットは、光の玉をラニアスのそばに固定する。

 汗を軽くふいてやり、楽な姿勢に寝かしなおした。

「ここにいて」

 ジャネットは、そう告げる。

 ラニアスは唸るように頷いた。




 夜会に出るような恰好は、道を歩くのに向いていない。

 貴族のお嬢様と違い、日ごろ採掘現場を歩いているジャネットは、体力的に問題ないはずだが、丘を登るのに苦労した。

 このままだと、ラニアスの命はない。

 いくら気に入らない男とはいえ、目の前で命の火が消えてしまうのは、嫌だった。

 丘の上の神殿は、非常に小さなものだ。最上部に、炎を灯しているランプの明かりがある。炎の神ピュールを祀っている証拠だ。

 神殿前には小さな畑が広がり、神殿からの明かりでぼんやりと照らし出されている。

 聖なる炎そのものではないが、炎の神を崇める小さな祈りを支える場所だ。

「すみません」

 ジャネットは、小さな門をくぐり、扉をノックした。

「夜分、申し訳ありません! 助けてください」

 ジャネットは、ノックしながら叫んだ。

 足音が扉の向こうから近づき、ゆっくりと扉が開いた。

「どなたですか?」

 柔らかな光と共に現れたのは、年配の男性だった。おそらく神職であろう。清貧という言葉が似合う、そんな男性だった。

「馬車が事故にあって、けが人がいます。助けてください」

 ジャネットは、頭を下げた。

「事故ですか?」

 男はジャネットを見て、眉をしかめた。

「お嬢さんもひどい目に合われたようですね」

「私は大丈夫です」

 ジャネットは、そう言って、丘の下の方角を指さす。

「林の中にけが人を置いてきています。私一人では運べなくて」

「けが人は何人ほどで?」

「ひとりです。大人の男性が一人。たぶん、足の骨を折っています」

 男は頷いた。

「人を呼んできましょう。あなたは中でお待ちなさい」

「いえ、案内させていただきますわ」

「そんなに傷を作っているのに……随分とたくましい姫君だ」

 男はそう言って、奥に引っ込んだ。

 ジャネットは、そのときはじめて、自分の手足に小さな切り傷がたくさんあることに気づいた。

 ドレスは既に土と埃で薄汚れ、結い上げていた髪はほどけて乱れている。

 おそらく化粧もひどいことになっているのだろう。

 とはいえ、人の命がかかっている。そんなことは、今はどうだっていいことだ。

 しばらくして。

 奥から数人の足音がした。

 先ほどの男の後ろについてきた若い男を見て、ジャネットは固まった。

「あなたは……」

 声がふるえる。

 先ほどの男と同様、清貧という言葉が似合う服装だ。

 夜会で出会った服装とも、採掘場で戦った時の服装とも違うが、間違いはない。

 銀龍だ。

 ジャネットは、思わず後ずさる。

 男も、ジャネットの顔を見て驚いているようだ。

「おや、知り合いかね?」

 男は、銀龍とジャネットを見比べてから、大きな戸板を手に、ジャネットの脇をすり抜けた。

「けが人はどこです? 案内してくださるのでしょう?」

「は、はい」

 ジャネットは、頷いたものの迷う。

 ラニアスは、銀龍の顔を知っている。しかも、完全に『帝王ザネス』の犬だ。

 普通に考えれば反乱軍の長である銀龍が、ラニアスなど助ける義理はない。むしろ、助ける方がどうかしている。

 でも。

「こちらです」

 ジャネットは腹をくくる。ここで、放置したらラニアスはどのみち命はないだろう。

 ラニアスをどうするかは、銀龍が決めればいい。死ぬも生きるも、ラニアスの運だ。

 それにこの状況は、劇場や夜会の時と違う。ジャネット自身の命を奪われても不思議ではない。

――そうなったら前回より、死ぬのが早いだけね。

 軽く肩をすくめて。

 ジャネットは林へと足を向けた。

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